第肆頁 羽柴秀吉with竹中半兵衛&黒田官兵衛……軍師らしき軍師、羽柴の「二兵衛」

主君:羽柴秀吉
氏名氏名:羽柴秀吉(はしばひでよし)
生没年天文六(1537)年二月六日〜慶長三(1598)年八月一八日
地位関白、太政大臣、太閤他官職多数
通称猿、禿鼠、
略歴 コイツも超有名人物なので、以下略。
家臣:竹中半兵衛&黒田官兵衛
氏名竹中重治(たけなかしげはる)黒田孝高(くろだよしたか)
生没年天文一三(1544)年九月一一日〜天正七(1579)年六月一三日天文一五(1546)年一一月二九日〜慶長九(1604)年三月二〇日
地位羽柴秀吉部将羽柴秀吉部将、中津藩主
通称半兵衛官兵衛、如水
略歴 天文一三(1544)年、美濃斎藤氏の家臣・竹中重元の子として美濃に生まれた。
 永禄三(1560)年に父の死去(または隠居)により家督を相続し、斎藤義龍・龍興に仕えた。
 龍興が当主になった頃から織田信長による美濃侵攻が激しくなり、若輩当主の下、家臣団が動揺する中、半兵衛は様々な戦術を駆使して織田勢をよく防いだ。だが龍興は半兵衛を冷遇。それが為に半兵衛は郷里に隠棲した(この間に有名な一七人での稲葉山城一時奪取を敢行した)。

 永禄一〇(1567)年、斎藤氏を滅ぼした信長は木下藤吉郎秀吉に浪人していた半兵衛の招聘を命じ、秀吉から「三顧の礼」の例を受けた半兵衛は信長に直接仕えることは拒絶したが、秀吉の家臣となることを了承したと(この「三顧の礼」自体はその実態を疑問視されている)。

 秀吉に仕えた後の半兵衛は過去に持っていた浅井家臣団との人脈を利用して、調略面で織田軍による浅井攻めに少なからず貢献した。更に秀吉が中国攻めを命ぜられるとこれに従軍。様々な謀略・調略を駆使して活躍したが、天正七(1579)年四月、播磨三木城の包囲中に病に倒れた。
 秀吉半兵衛を京都で療養させようとしたが、自らの余命が幾ばくも無いと考えた半兵衛は武士として戦場に死すことを望み、秀吉に懇願して播磨三木平井山の秀吉本陣に戻ったが、同年六月一三日に病死した。竹中半兵衛重治享年三六歳。
 天文一五(1546)年一一月二九日に播磨の豪族・小寺政職(こでらまさもと)の支族で、家臣であった黒田職隆の嫡男として姫路に生まれた。幼名は万吉(まんきち)。
 永禄四(1561)年に政職の近習となり、永禄一〇(1567)年頃、家督と家老職を継承した。

 永禄一二(1569)年八月、足利義昭を奉じて上洛した織田信長の勢力が播磨に迫り、当初はその先鋒となってやって来た木下藤吉郎とも戦ったが、天正三(1575)年、孝高は主君・政職に長篠の戦いで武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を進言した。
 そして天正五(1577)年に孝高は織田家に臣従する証として長男・松寿丸(後の長政)を人質として信長の元へ送った。一〇月に羽柴秀吉が播磨に進駐し、秀吉の毛利征伐に従軍し、臣従の証として居城であった姫路城本丸を秀吉に提供し、自らは二の丸に住まい、参謀として活躍するようになった。
 その後、宇喜多直家の調略等に従事したが、天正六(1578)年に摂津の荒木村重が信長に反旗を翻したのを説得せんとして有岡城に向かった。しかしその場にて旧主・政職の讒言もあって孝高は捕らえられ、一年に渡って土牢に閉じ込められ、半身不随の体となった。
 翌年、直臣の栗山利安等に救出されると、政職が討たれたこともあって、正式に織田家臣・秀吉与力となり、黒田の姓を名乗り出した。

 天正一〇(1582)年六月二日に本能寺の変に信長が斃れ、この訃報を知った孝高は愕然とする秀吉を督戦して中国大返し山崎の戦いの勝利に貢献。その後も賤ヶ岳の戦い小牧・長久手の戦い小田原征伐に、と秀吉を支え、彼が天下人の道を登り詰めるのにも貢献したが、同時に秀吉に警戒されていった(詳細後述)。

 秀吉による天下統一に前後して、九州の地が難治を極めたこともあって、九州統治の要として孝高は豊前中津の領主となった。だが天正一七(1589)年五月、家督を嫡男の長政に譲り、自身は秀吉の側近となって、伏見京屋敷や天満大坂屋敷を拠点として豊臣政権下にて暗躍していた。
 朝鮮出兵においては軍監として参戦したが、諸将の独断専行で思ったような指揮を執れず、病を理由に帰国。同じく軍艦を務めた石田三成とも対立し、秀吉の怒りを買った(これを機に剃髪して「如水」と号した)。
 慶長の役においてはほぼ引退状態で、慶長三(1598)年八月一八日に豊臣秀吉が、慶長(1599)四年閏三月三日に前田利家が相次いで死去すると徳川家康が露骨な独断専行をする中、如水は家康の背後にて調停に努め、長政はあからさまに三成への反発行動に出ていた。
 これらのことが慶長五(1600)年九月一五日の関ヶ原の戦いに繋がり、如水は中津にて家康に味方する旨を密約しつつ、中津城の財産を投じて九州、中国、四国各地から集めた急造軍九〇〇〇人を率いて九州を席巻した。
 如水は東西両軍の戦いは長引くと見ており、その間に蓄えた力を持って間隙を縫って東西両軍を圧倒して天下を取らんと画策したが、皮肉にも関ヶ原の戦いは息子・長政の活躍の為に一日で徳川の大勝利にて終結していた。
 四日後にこのことを知った如水は愕然としつつも、即座に頭を切り替えた。つまりは完全に長政をして徳川政権下の大大名として生き残る道への確立に努めたのだった。かくして完全に隠居した如水は慶長九(1604)年三月二〇日、京都伏見藩邸にて逝去した。黒田官兵衛孝高享年五九歳。



両腕たる活躍 何せ主君である羽柴秀吉自身が下手な軍師・参謀以上に奇抜なアイディアを考え出す能力に長けていたので、木下藤吉郎時代の彼の部下は頭を使うことを必要とせず、命令に忠実に従う者が求められた(←些か語弊のある書き方だが、分かり易さを優先したと御考慮頂きたい)。

 だが、羽柴筑前守秀吉として長浜に城を持つ、文字通り一国一城の主となった秀吉の配下は質・量ともに増大した。身内に近い尾張以来の子飼い(加藤清正・福島正則、浅野長政等)、長浜にて新たに得た若手(石田三成、大谷吉継、長束正家等)、各地攻略にて得た人材(小西行長、宇喜多秀家等)と多士済々になった。
 これらを取りまとめることは容易ではない。全員が一同に秀吉の元に居るのならそれも可能だが、勿論そうはいかない。となると秀吉の代理が務まるだけの能力と立場を兼ね備えた者が必要となり、羽柴秀吉時代にそれを務め得た者となると羽柴秀長を別にすれば竹中半兵衛黒田官兵衛の「二兵衛」以外には考えられなかった。
 特にその動きが顕著になったのは中国征伐だった。

 一夜城で有名な墨俣築城や、戦国史上屈指の水攻めとなった備中高松城攻略、城砦による包囲で為した小田原兵糧攻め等と秀吉の戦術には兵器や陣立てよりも大掛かりな土木工事で必勝態勢を作ってのものが多い。勿論そのカラーは中国征伐における半兵衛官兵衛の活躍に大きく反映されている。
 羽柴秀吉並びに豊臣秀吉の戦場でのアイディアマンぶりは今更薩摩守が云うに及ばずだが、中国征伐は前述の高松城水攻め以外にも、宇喜多家を調略したり、三木城を凄惨な干殺しで落城に追いやったり、と注目すべき戦略戦術が多い。勿論、その後の秀吉にもそれは多いが、豊臣秀吉となってからは兵数や石高による純粋な軍事力だけでも充分に他勢力を圧倒していた。

 だが、一方で当時の秀吉の立場は「織田家の一部将」で、織田家中にあってもまだまだ柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀等の後塵を拝しており、まだ盤石とは云い難かった。
 そんな微妙な立場にあって戦場に、謀略に、主君信長に対する駆け引きに、半兵衛官兵衛二兵衛はその才能を遺憾なく発揮した。
 そのことを端的に示すのが織田家に忠誠を示す証となっていた黒田松寿丸(長政)を巡るエピソードだろう。

 大河ドラマの影響もあってすっかり有名だが、本来姫路の一豪族の支族に過ぎなかった黒田官兵衛は信長から完全には信頼されず、忠誠の証として官兵衛の嫡男・松寿丸は人質に差し出されていた。
 松寿丸の命を守る為にも官兵衛は死力を尽くして活躍して来たが、その渦中にあって摂津有岡城主・荒木村重が裏切ったのを説得に行き、それに失敗し、一年以上も土牢に幽閉された。
 その間、織田方には官兵衛の消息は知れず、信長は官兵衛が裏切って村重に着いたと思い込み、秀吉に松寿丸を斬るよう命じた。忠義を尽くすべき主君と自分に忠義を尽くしてくれる配下との狭間に悶え苦しむ秀吉だったが、この時既に病の為に余命幾許もなくなっていた半兵衛が、発覚時にすべての責任を背負う覚悟で松寿丸を庇った(信長には「手討ちにした。」と偽りの報告を行った)。
 周知の通り、官兵衛は後に救い出され、秀吉や信長を裏切っていなかったことが判明したが、この時既に半兵衛はこの世を去っていた。てっきり松寿丸を殺していたと思っていた信長は激しく後悔したが、半兵衛が実は松寿丸を密かに助け、匿っていたことを知り、気まずさを滲ませつつも亡き半兵衛に感謝し、官兵衛が裏切っていなかったことを明言し、松寿丸の人質としての任を解いた。
 この一件を一例に、半兵衛官兵衛は織田家中においてまだまだ立場が微妙だった秀吉を陰に日向に支え、特に戦略・謀略面での活躍が大きく、それは半兵衛亡き後に息子の危機を救われた官兵衛が引き継いだかのような活躍にも色濃く表れていた。



両腕の意義 羽柴秀吉が、「織田信長の直臣」として立場上行い得ないことを竹中半兵衛黒田官兵衛の両名が行い得たのが大きい。
 半兵衛は病に倒れて余命幾許もないことから、最悪信長の逆鱗に触れて罪を一身に背負いこむことになる覚悟を持ち得た。もう一方の官兵衛は姫路に地脈・人脈を持ち、対宇喜多、対毛利に対する調略は官兵衛にしか成し得ないものだった。
 これは能力だけで出来たことではない。

 清廉過ぎてもなし得ないし、悪辣過ぎては仕掛けている最中に命を落とすことになりかねない。また秀吉との結びつきが強過ぎても出来ない。加えて付け加えるなら、かかる謀略を為し得る能力は天下を統一する過程においては重宝されるが、平和が到来した後には極めて危険視されるものでもある。
 晩年、豊臣秀吉が「自分の死後、天下を取る者は誰か?」と家臣達に尋ねたところ、家臣達が前田利家、上杉景勝、伊達政宗等の名を挙げる中、秀吉が口にしたのは「徳川家康か黒田如水」だった。そしてそれが的を得ているのは後世の人間には容易に分かることでもある。
 慶長伏見地震に際して、秀吉の身を案じて諸将が伏見状に駆け付けた際に、秀吉朝鮮出兵での独断専行を咎めて謹慎を課していた加藤清正にはその忠義を愛でて謹慎を解いたが、官兵衛に対しては「俺が死ななくて残念だったな。」と皮肉を浴びせた。
 かかる警戒を招いたのは、本能寺の変に際して、泣き崩れる秀吉を励ました際の一言にあった。
 「君の運の開け給もう時ぞ。」という有名な一言は、的を得てはいたのだが、織田信長横死という一大事に眉一つ動かさず己が利を図れる冷徹さと見做され、秀吉が信長を好いていたこともあって、以後の官兵衛秀吉から人格的に信頼されなくなり、徐々に不遇を託つこととなった。

 それを思えば、偶然とはいえ竹中半兵衛はいいタイミングで世を去ったと云えなくもない。100%惜しまれて世を去ったのも、まだまだ謀略が必要な渦中だったからというのは皮肉であるのだが。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和三(2021)年六月一〇日 最終更新