第伍頁 徳川家康(初老期) with本多正信&大久保忠隣……優れた故に派閥争いへ

主君:徳川家康
氏名徳川家康(とくがわいえやす)
生没年天文一一(1543)年一二月二六日〜元和二(1616)年四月一七日
地位征夷大将軍、源氏長者、大納言、内大臣、太政大臣、他官職多数
通称次郎三郎。狸親父、大御所
略歴 第参頁同様、勿論、略(笑)。
家臣:本多正信&大久保忠隣
氏名本多正信(ほんだまさのぶ)大久保忠隣(おおくぼただちか)
生没年天文七(1538)年〜元和二(1616)年六月七日天文二二(1553)年〜寛永五(1628)年六月二七日
地位佐渡守治部大輔、相模守
通称弥八郎新十郎
略歴天文七(1538)年、本多俊正の次男として三河で生まれ、鷹匠として徳川家康に仕えた。
 永禄三(1560)年、桶狭間の戦いに従軍し、主君・松平元康 (徳川家康)を支えたが、元康が三河に戻った三年後の永禄六(1563)年、三河一向一揆が起こると信仰上の問題から徳川家を致仕して、一揆方についた。

 三河一向一揆鎮圧後、徳川家に戻るに戻れず、一時は大和の松永久秀に仕えたが、やがてそこも去り、諸国を流浪した。
 その後の経歴は詳らかではないが、姉川の戦いから本能寺の変の少し前頃に、大久保忠世(忠隣の父)の取り成しで家康への帰参が叶った。
 天正一〇(1582)年六月二日に本能寺の変が起こると、伊賀越えに尽力(←同道していなかったとの説もある)。その後は甲斐・信濃と云った武田家旧領にて武田の遺臣達の懐柔・編入に活躍した。

 天正一八(1590)年に豊臣秀吉の手で天下が統一されると、徳川家及び家臣団は関八州への移封となり、正信は相模玉縄一万石の大名となった。
 そして慶長三(1598)年八月一八日に秀吉がこの世を去ると、俄然家康の知恵袋としての本領を発揮し出した。殊に秀吉逝去から関ヶ原の戦いまでの、豊臣遺臣における敵対勢力を炙り出した謀略の数々は正信の献策によるものであったと云われている。

 慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍に従軍。関ヶ原に向かう途上、秀忠が上田城を攻めんとするのを制止せんとしたが、容れられず、結果として秀忠軍は関ヶ原の戦いに遅参してしまった。
 だが家康の信頼は揺るがず、将軍就任への調停工作を任され、慶長八(1603)年、家康は征夷大将軍となった。
 更に二年後の慶長一〇(1605)年、家康が隠居して将軍の地位を秀忠に譲ると、正信は秀忠の幕政顧問を任され、大御所となった家康には正信の子・正純が側近となり、正信父子は二代に渡って主家と強い結び付きを持つこととなった。

 以後、慶長一二(1607)年に年寄、慶長一五(1610)年にはその地位のまま大老に等しい待遇となった。だが、慶長一七(1612)年の岡本大八事件辺りから、徳川政権内部の暗闘が続発し、慶長一八(1613)年には大久保長安事件を経て、正純が慶長一九(1614)年に大久保忠隣を失脚させるのを裏で糸引いたと云われている。
 そして家康正信最後の謀略とも云える大坂の陣ではあざといもいえる謀略・難癖の数々で豊臣家を、戦をせざるを得ない状況に追いやり、豊臣家を滅ぼした。
 元和二(1616)年四月一七日、家康が逝去すると家督を正純に譲って玉縄に隠居。そして二ヶ月も経たない同年六月七日に、丸で家康の後を追うように逝去した。本多弥八郎正信享年七九歳。
 天文二二(1553)年、三河松平氏の重臣・大久保忠世の長男として生まれた。
 家康が三河に舞い戻った三年後の永禄六(1536)年から徳川家康に仕え、永禄一一(1544)年に遠江にて初陣し、敵将の首を挙げた。
 以後、主に武将として対三河一向一揆姉川の戦い三方ヶ原の戦い小牧・長久手の戦い小田原征伐といった主要な戦いにおいて奮戦した。

 豊臣秀吉による天下統一が成立すると、徳川家の関八州入りに際して武蔵羽生二万石の大名となり、文禄二(1593)年には家康三男・徳川秀忠付の家老となった。
 文禄三(1594)年に父・忠世の逝去により家督と遺領を継承し、小田原六万五〇〇〇石の領主となった。
 慶長五(1600)年、関ヶ原の戦いにおいては秀忠に従って中山道を進んだ。その途上、信濃上田にて西軍の真田昌幸を攻め、これに苦戦して時間を浪費したために秀忠軍は本選に遅参するという大失態を演じた。そしてこのとき、本多正信が上田城を無視して関ヶ原に急ぐように言上したのに対し、忠隣は榊原康政と共に上田城攻めを進言したと云われている。

この大失態もあって、家康は秀康(次男)・秀忠(三男)・忠吉(四男)の誰にするかを諮られた際、W本多(正信・忠勝)が秀康を、井伊直政(忠吉舅)が忠吉を押したのに対し、忠隣と康政は秀忠を推した。対人関係と権力構造が分かり易いな(笑)。
その経緯もあってか、慶長一〇(1605)年に秀忠が無事に(笑)第二代将軍となるとその側近として忠隣の権威も増し、慶長一五(1610)年には老中に就任した。

 だが忠隣の人生は慶長一六(1611)年一〇月一〇日に嫡男・大久保忠常が若死にして以降翳りに覆われるものとなった。この時既に本多正信・正純父子との権力争いが顕在化しており、幕府に無断で忠常の弔問を行った者達が閉門処分となった。これに意気消沈した忠隣は政務を欠席することが増え、家康の不興を買った。
 そして慶長一八(1613)年四月、忠隣が重用し、大久保の姓まで与えていた金山奉行の大久保長安が急死した後に莫大な不正蓄財を行っていたことが露見(大久保長安事件)。本多派は長安一族だけを罰したように見せつつも、ここをせんどと大久保党を陥れる策を練らない筈が無かった。
 同月一九日、忠隣は幕府からキリシタン追放を実践せよとの命を受けて京へ赴き、半年以上に渡って伴天連寺の破却、信徒の改宗強制、改宗拒否者の追放を行っていたが、慶長一九(1614)年一月一九日、突如改易を申し渡された。
 これにより忠隣は近江に配流され、井伊直孝に御預けの身となった。これを受けて忠隣は出家して渓庵道白と号し、将軍家の許しが出ないまま一四年後の寛永五(1628)年六月二七日に逝去した。大久保新十郎忠隣享年七五歳。
 尚、忠隣のそれまでの功績が大きかったことから、大久保家自体は嫡孫・忠職が継ぐことが許され、その次代に小田原藩主に復帰した。
両腕たる活躍 徳川家康の人生を通して見てみると、彼が如何に配下に恵まれていたかが分かる。勿論天下を取った者のみならず、天下の一雄となった者達が人材に恵まれていないということはないのだが、生涯を通じて恵まれていた家康の様な例は稀有である。

 それというのも徳川家、正確には松平家が先祖の代から忠実に使えて来た累代の家臣に恵まれており、殊に幼少の頃に父を失った家康を盛り立てて来た家臣団は稀有なほどに純粋な忠義の塊だった。
 ただ、その純粋さ故に、家臣団の面々は馬鹿正気なまでに犬馬の労を厭わず、戦場で愚直に戦い続けるものが大半だった(故に今川家の傘下にあった時代は、戦の度に主要メンバーの誰かが戦死していた)。
 そんな中で青年期の家康を政治と謀略で支えたのが第参頁の本多作左衛門と石川数正で、それと代替わりするかのように壮年期から初老期の家康を(知略面で)支えたのが本多正信大久保忠隣だった。

 中でも正信は謀略と外交に長けたが、出戻りの立場と戦場働きの少なさから家臣団の人気が乏しかった。逆に忠隣正信ほど器用ではなかったが、経営の才を持ち、父の代から戦場働きも豊富で、家臣団内における人望もそれなりに厚かった。

 現代でも外交は、友好国や同盟国にも油断せず、緻密な駆け引きが求められるが、ましてや時代は戦国である。「弱い」、「役に立たない」と思われたらいつ盟約を反故にされてもおかしくない時代であったし、そう云った例も枚挙に暇がない。
 殊に織田信長との清州同盟から江戸幕府開府に至るまでの時期、徳川家は領土や人材が拡充する中、外交と経営には難渋した。
 前者では織田家・武田家・今川家・豊臣家・北条家を相手にその間に挟まれた国人衆を含めて相手を怒らせず、さりとて抵抗すべき時には抵抗する硬軟両面が必須で、後者では新たな領土の産業をしっかり活かして新たな配下を繋ぎ止める為にも経済効果に失敗は許されなかった。

 そんな逆境とも云える状況の中、正信は北条・豊臣相手に抵抗と和睦を上手く繰り出し、忠隣は有名な大久保長安を初めとする武田家旧臣で金山開発に長けた者達を上手く登用して徳川家の、引いては江戸幕府の財政の礎を作り上げた。
 殊に、大久保長安は晩節を汚したとはいえ、元々大蔵氏だったのが大久保姓を与えられたぐらいだったのだから、如何に活躍したかが窺い知れる。

 そんな両名の活躍は江戸幕府初期の基本内政をも裏打ちしていると云っては云い過ぎだろうか?



両腕の意義 本多正信大久保忠隣の両名が初老期の徳川家康の両腕足り得たのは、徳川家が為した謀略の「陰」と「陽」を担ったからと云える。勿論正信が前者で、忠隣が後者である。

 何せ元が愚直な忠義と戦場での体の張り様が取り柄とする連中の集まりだった松平党ゆえ、知で勝負する者は能力程には評価されがたい傾向が強かった。中でも「出戻り」で戦場働きも少なかった正信の徳川家中における人気は最低に近かった。
 同じ本多家でも、本多平八郎忠勝(本家)も、本多作左衛門重次(六代目本多定助の次男・正時から分家)も、正信(四代目本多助政の次男・定正から分家)を嫌い、忠勝に至っては正信のことを、佐渡の腰抜け」と酷評し、「同じ本多一族でもあやつは無関係。」と公言して憚らなかった。
 だが、それゆえに正信は謀略・陰謀と云った汚れ仕事を一手に引き受けることが出来、忠隣は表立って内政に尽力出来た。
 謂わば、役割分担が巧みに為されていた訳だが、これには両者の際もさることながら、「正信が己の分を弁えていたこと」が大きい、と薩摩守は見ている。

 何度も書いている様に、正信は出戻りという出自からも、謀略に長けていたことからも、周囲から嫌われていた。勿論家康の信任が厚いのが妬まれていたことも拍車を掛けていた。それゆえ、正信は石高に色気を見せなかった。
 無欲だったのではない。自らの評判の悪さから、石高まで大身となっては妬みからどんな陰謀に曝されかねないかをよく理解していた故である(この辺り、中国の三国時代でいえば、曹操の謀臣で、五人の主君に仕えた賈詡(かく)と似ている)。
 ゆえに正信は嫡男・正純にも大身加増を受けないように遺言していた。

 忠隣の父・忠世の取り成しで家康への帰参が叶うという恩を受けながら、大久保長安事件忠隣を失脚させたことで、正信・正純父子の評判は今でも良くない。
 だが、庇う訳ではないが、薩摩守は、正信自身は家康や幕府に対して私心なく仕え、やるべきことをやったところに、幕府内部の本多派と大久保派の(当人達自身は決して望んでいない)対立が暴走した結果と見ている。

 実際、大久保長安事件は大久保家の管理不行き届きを弾劾せずには済まされない巨大規模の不正蓄財事件で、忠隣が何らかの処罰を受けないという訳にはいかなかっただろう。
 逆に、表面上は周囲に担がれた対立を避けられないながら、心底では正信忠隣が繋がっていたからこそ、忠隣は命までは奪われず、孫の代に小田原に復帰出来、正信の子・正純は将軍秀忠暗殺未遂(宇都宮釣天井事件)というとんでもない罪状に対して左遷で済んだ……………つまりは両者の間にはある種の出来レースや暗黙の了解が存在したのでは?という薩摩守の根拠なき仮説である。
 割と有名な話だが、忠隣は京都で改易の上使を受けた際、最初は格下の上使に(改易後に楽しめなくなる)将棋が終わるまで待て、と尊大に命じ、それが終わると礼式に則って、上司の伝達を叩頭して拝受した。これも展開が読めていた故ではなかろうか。

 これ等の仮説が正しいとするなら、忠隣の失脚も、正信の評判急落も、謂わば、肥大化した徳川家中に生まれた権力対立の犠牲と見れることだろう。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新