第陸頁 武田勝頼with跡部勝資&長坂釣閑斎……嫌われ者が殉じた皮肉

主君:武田勝頼
氏名武田勝頼(たけだかつより)
生没年天文一五(1546)年〜天正一〇(1582)年三月一一日
地位信濃守護、大膳大夫、武田家次期当主後見人
通称四郎
略歴 天文一五(1546)年、武田信玄の四男として生まれた。幼名は四郎。母は信玄が滅ぼした諏訪頼重の娘で、そのこともあって四郎は外祖父・頼重の後を襲う者として育てられ、明らかに「武田家の人間」というよりも、「諏訪家の人間」として育てられた。
 本人も政治や権力よりも戦の方が好きで、戦場においても戦闘に立って勇猛に戦い続けたが、兄達の不幸(義信事件等)を受け、武田家の次期当主としての注目が集まった。

 だが、それまでの経緯から「武田家の人間」として認められた度合いは薄く、元亀四(1573)年四月一二日に父・信玄の病没を受け、事実上の後継者となった(実際には、信玄の死から一〇年を待って、勝頼嫡男の信勝が家督を継承することとし、勝頼はその「後見人」という立場に置かれた)。
 信玄が自らの死を三年伏せるよう遺言したこともあって、武田家では表向き信玄が生きているように振る舞ったため、立場的にも、家臣団の団結の脆さからも、勝頼は大鉈を振るえず、天正三(1575)年に長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗したことでより一層振るわなくなってしまった。

 その後も何とか甲斐を立て直さんとして上杉・北条・佐竹と時に争い、時に和したが、織田・徳川の勢力拡大に抗し得ず、浅井、朝倉、本願寺、長島一向一揆といった同盟勢力も次々と失い、穴山梅雪・木曽義昌といった親類衆・国人衆も次々に離反し、ついに織田・徳川勢は甲斐に攻め込んで来た。
 そして天正一〇(1582)年三月一一日、天目山に追い込まれ、嫡男・信勝とともに自害して果てた。武田勝頼享年三七歳。
家臣:跡部勝資&長坂釣閑斎
氏名跡部勝資(あとべかつすけ)長坂光堅(ながさかみつかた)
生没年?〜天正一〇(1582)年三月一一日永正一〇(1513)年〜天正一〇(1582)年三月一一日
地位武田勝頼側近武田勝頼側近
通称大炊助釣閑斎
略歴 信濃守護小笠原氏庶流一族である跡部信秋の子に生まれた。前半生の経歴は不詳。主君・武田信玄が信濃に勢力範囲を広げる途中で山県昌景・土屋昌続・原昌胤等と共に数多くの朱印状奉者としてその名が見られるようになった。

 天文一八(1549)年頃から信玄の信濃侵攻に活躍し出し、永禄一〇(1567)年の義信事件の頃には奉行を務めていた。
 武田勝頼が武田家の事実上の当主となると更に重用され、主に対外交渉に活躍。越後の上杉との甲越同盟、常陸の佐竹氏との甲佐同盟の締結に尽力し、武田信豊(勝頼の従弟)とともに取次を数多く務めた。
 勝頼に寵愛されたことで武田一族や宿老達からは(妬みもあって)白眼視されていたが、彼等が次々と勝頼から離反するのとは正反対に最後まで勝頼に従い、天正一〇(1582)年三月一一日に天目山の戦いにて勝頼と運命を共にして落命した。跡部大炊助勝資享年不明。
 永正一〇(1513)年、甲斐家武田氏の譜代家老衆で、信濃小笠原氏の庶流にあたる長坂家に生まれた。一般に知られる釣閑斎は出家後の名前で、実名は光堅虎房(とらふさ)、頼広(よりひろ)等の別名も伝わっている。

 武田家当主が信虎から晴信(信玄)に変わった頃から活躍が見られ、初めは足軽大将として板垣信方を補佐した。天文一七(1548)年に上田原の戦いで信方が戦死すると後任の諏訪郡郡代となり、上原城・高島城等で活躍した。
 信濃における武田家の優位が決定的な物となると越後上杉との対立が生まれ、光堅は国人衆への使者を務め、弘治三(1557)年の第三回川中島の戦いにおいては北信地域の探索も担った。

 永禄二(1559)年二月に主君・武田晴信が出家し、光堅もこれに追随して出家し、以後「釣閑斎」と号した。そして三年後の永禄五(1562)年に信玄四男・勝頼が高遠城主となった頃から勝頼との結びつきが強まり、城主就任を伝える使者として方々に赴いた。
 以後、跡部勝資とともに勝頼に重用されたが、勝頼自身の立場が微妙だったこともあって武田一族や他の重臣達からは疎まれた。だが、長篠の戦いにおける大敗後、彼等が勝頼から次々に離反する中、釣閑斎勝資とともに勝頼に従い続け、天正一〇(1582)年三月一一日、天目山の戦いにて運命を共にした。長坂釣閑斎光堅享年七〇歳。
両腕たる活躍 前頁でも触れたが、とかく謀臣は嫌われ易く、それゆえに汚れ仕事が回され易い。跡部勝資長坂釣閑斎はそんな立場に立たされた。詰まる所、両名は純然たる「側近」として武田勝頼に尽くし続けた。

 前述した様に、武田家中における勝頼の立場は良好なものとは云い難かった。  穴山梅雪を初めとする一門衆は露骨に勝頼を認めず、譜代衆も先代信玄を絶対視するあまりに正式の当主ではない勝頼との関係はぎくしゃくし、国人衆は北条・徳川・上杉への帰属も脳裏にちらつかせていた。
 そんな中、勝資釣閑斎勝頼に成り代わって彼等と相対するのが職務だった。

 具体的には、勝資は渉外と取次で勝頼を支え、釣閑斎勝頼名代として各処への代参を務めた。文字通り、側(そば)近くに侍(さぶら)っていた訳であった。
 云うは簡単だが、これは正直、胃に穴の空きかねない激務だっただろう勝頼からして、何の落ち度もないのに出自の為だけに家中から白眼視されていたのである。そんな勝頼にすらままならない対人関係に従事したのだから。
 当然、勝頼が対人関係で揉めれば揉めるほどそれに比例して勝資釣閑斎も周囲から嫌われていった。

 結果的に武田家は勝頼の代に滅亡した故、勝資釣閑斎の活躍は評価されるものになり難いが、一門・譜代・国人衆が次々に離反する中、武田家に忠義を尽くし、最後の最後まで殉じた両名の尽力はもっともっと理解されていいのではないかと薩摩守は思う。



両腕の意義 武田勝頼の滅亡に至る過程は、様々な尽力という尽力が裏目に出て、丸で天が武田家を滅ぼさんとしていたかの様にすら映る。
 前述した様に、勝頼破滅という結果に終わったため、跡部勝資長坂釣閑斎の事績も悪し様に描かれる傾向が強い。

 殊に高坂弾正が記したとされる『甲陽軍鑑』における扱いでは、長篠の戦いにおける武田軍の敗因が勝資釣閑斎の無茶な突撃を進言したことにあるとすらされている。もっとも、『甲陽軍鑑』は武田家の内情を知る資料としては優れていても、真実在りのままに記した書とは云い難く、勝資釣閑斎天目山の戦いを前に勝頼を見捨てて遁走したという事実無根すら記されている。

 となると、本来なら高坂や『甲陽軍鑑』勝資釣閑斎に関する言は一顧だにする価値もないのだが、逆に見れば、そこに両名を認める言があればそれはかなり確実な証言となる。
 新田次郎の『武田勝頼』では長篠の戦い直後に勝頼に武田軍再編を勝頼に言上した高坂が、勝資釣閑斎勝頼側近から外すことを進言していた。
 その際、両名を庇う勝頼に対して弾正は、両名の勝頼側近としての功績・有能さに関しては「誰もが認めている。」とした上で、両名が家中に人気が無い故に、評判の良い曾根内匠と真田昌幸を後任とすることで軍団内の空気を刷新するべきと言上した(←一理無くはない。また、高坂は他の人事についても言上していた)。
 両名を怨んでいるとしか思えない程、彼等のことを悪し様に書き残した高坂が「側近としての功績」を疑いないものとしていたのだから、褒める意が無いと仮定しても、両名が勝頼側近に相応しい働きをしていたのは間違いないだろう。

 置かれた状況的に、勝資釣閑斎に良き結果を求めるのは酷なのは百も承知だが、逆に成功していれば、跡部勝資長坂釣閑斎の名は「主君の両腕」として日本史上屈指の名声が轟いていたのではないかと思うと、そこに惜しいものを感じるのは薩摩守だけではあるまい。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新