第漆頁 北条氏政with松田憲秀&大道寺政繁……主家と共に滅びた二大宿老

主君:北条氏政
氏名北条氏政(ほうじょううじまさ)
生没年天文七(1538)年〜天正一八(1590)年八月一〇日
地位左京大夫、相模守、後北条氏第四代当主
通称新九郎
略歴 天文七(1538)年、第三代当主・北条氏康の次男として生まれた(兄・新九郎が夭折したため、事実上嫡男)。長じて北条新九郎氏政と名乗り、天文二三(1554)年に氏康が甲斐の武田信玄、駿河の今川義元と甲相駿三国同盟を成立させると、信玄の娘・黄梅院を正室に迎えた。

 夫婦仲は極めて良好で、黄梅院との間には嫡男・氏直を初め五人の子を設け、永禄二(1559)年には氏康が隠居し、家督を譲られて第四代当主となった。勿論、この時代の常で氏康も実権を手放さなかったが、氏康・氏政の両頭体制だったと云われている。
 そんな中、氏政は永禄四(1561)年に上杉謙信による小田原城包囲戦を凌ぎ、同年に謙信が第四回川中島の戦いで信玄と戦いに疲弊した間隙を縫って北関東方面に進出するなどして、父親譲りの守りを主体とした善戦を展開し、北条五代一〇〇年における最大版図の獲得に成功した。
 その後、永禄七(1564)年〜永禄一二(1569)年にかけて、武田信玄が三国同盟を破棄して今川領に侵攻したことを受け、愛妻・黄梅院と涙呑んで離縁しつつも、武田・上杉・関東諸豪族と時に和し、時に争い、その都度関東での地盤を固め続けた。

 元亀二(1571)年一〇月三日、父・氏康が病没。その遺言に従って氏政は二ヶ月後に信玄との同盟を復活したが、翌元亀四(1573)年に信玄が陣没。当面は武田勝頼と和し、上杉謙信と争ったが、天正六(1578)年に上杉謙信が死去し、その後継を巡って上杉景勝と氏政の弟で上杉景虎(実弟の北条氏秀)が争うと、武田勝頼が景勝に味方して景虎は敗死したため、北条・武田間の手切れは決定的な物となった(御館の乱)。

 天正八(1580)年三月、石山本願寺を降伏させて勢いづく織田信長に臣従を申し出、同年八月一九日に嫡男・氏直に家督を譲って隠居した(勿論実権は手放さない(笑))。そして二年後の天正一〇(1582)年二月に織田信長が武田征伐に乗り出すと北条家もこれに呼応したために武田勝頼父子は三月一一日に天目山の麓で自害して果て、甲斐源氏の名家・武田家は滅亡した(勝頼継室となっていた氏政の妹もこれに殉じた)。

 武田家滅亡後、その遺領配分を巡って織田軍の司令官であった滝川一益と微妙なやり取りを繰り広げていたが、僅か三ヶ月も経たない同年六月二日に本能寺の変で信長が横死したことで状況は急変した。
 信長横死の報を受け、慌てて帰国の途に就いた一益の背後を突き、上野奪取に成功した。その後、徳川家康とも対峙したが、真田・上杉との対立問題からも嫡男氏直と家康の次女・督姫を結婚させることで和睦が成立し(これにより甲斐・信濃が徳川領、上野が北条領となった。

 その後、羽柴秀吉が事実上の信長後継者として台頭し、上杉・佐竹・真田・徳川もこれに従うようになる中、氏政は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野・常陸・下野・駿河の一部に覇を唱え、その合計石高は二四〇万石に及んだ。
 だが羽柴改め豊臣秀吉の力はそれをも凌ぎ、秀吉は氏政・氏直父子に上洛と臣従誓約を命じたが、関東立国にこだわる氏政はこれを拒絶。同盟相手である徳川・伊達と連携して秀吉に抗せんとしたが、両者の要求と意志は平行線となり、頼みの家康も秀吉側に着いた。

 そしてついに秀吉は天正一八(1590)0年三月に小田原征伐を開始。難攻不落の名城・小田原城と数年分の兵糧を擁した籠城戦に挑まんとするも、二二万の大軍は前代未聞で、関東各地の支城も次々に落とされ、ついに小田原評定にて降伏が決定した。

 同年七月五日、現役当主である氏直が自分の命と引き換えにすべての将兵の助命を乞い、降伏した。だが秀吉は苛斂誅求に走り、タカ派と見做された氏政、氏照、松田憲秀大道寺政繁が切腹となり、岳父・家康の助命嘆願が為された氏直は高野山に配流となった。
 七月一一日、北条氏政切腹。享年五三歳。
家臣:松田憲秀&大道寺政繁
氏名松田憲秀(まつだのりひで)大道寺政繁(だいどうじまさしげ)
生没年?〜天正一八(1590)年六月一六日天文二(1533)年〜天正一八(1590)年七月一九日
地位北条家家老北条家重臣
通称左衛門佐、尾張守駿河守
略歴 北条早雲以来の北条氏家臣・松田家にて、松田盛秀の嫡男として誕生したが、生年は不詳。

 憲秀も家老として北条氏康に仕え、内政と外交に辣腕を振るった。軍事面でも国府台合戦神流川の戦いといった重要な合戦に従軍・転戦し、氏康死後は氏政にも家老として仕えた。

 天正八(1590)年の豊臣秀吉による小田原征伐では、当初は徹底抗戦を主張するも、秀吉側の堀秀政らの誘いを受けて長男の笠原政晴とともに豊臣方に内応しようとした。しかし、次男・直秀の注進があり北条氏直によって事前に防がれ、憲秀は監禁、政晴は殺害された。
 この事件は、北条家に降伏を決意させることとなったといわれている。この結果、北条家仕置時に、秀吉にその不忠を咎められて憲秀は切腹した。松田憲秀享年不明。
 天文二(1533)年、平氏の末裔とも、藤原氏の末裔とも云われる北条氏累代の宿老的重臣家大道寺氏に生まれた。初名は孫九郎
 北条氏康・氏政・氏直の三代に仕え、氏政の代に「政」の偏諱を賜って、大道寺政繁と名乗った。

 河越城代を務め、主に内政に手腕を発揮し、治水、金融、防火に努めて城下振興に貢献した。軍事面でも河越衆と呼ばれる軍勢を率い、三増峠の戦い神流川の戦い等の主要な戦いの殆どに従軍・参戦して武功を挙げた。
 天正一〇(1582)年三月一一日に甲斐の武田氏が滅亡すると、北条家は武田の遺領を巡って織田・徳川と微妙な対立が起こり、政繁本能寺の変における織田軍のごたごたを突いて上野を奪還するのに貢献し、信濃小諸城主となった(後に北条と家康の間に講和が成立し、政繁も信濃より引き上げた)。

 天正一八(1590)年の豊臣秀吉の小田原征伐に際しては上野松井田城の城代として中山道の入り口を守り、前田利家・上杉景勝・真田昌幸といった名立たる大名達が率いる大軍を碓氷峠で迎え撃った。
 しかし衆寡敵せず、政繁軍は敗れ、城に籠もって戦うも遂には水脈を断たれ、兵糧も焼かれたため(孫を脱出させた後に)、開城・降伏した。

 降伏後、豊臣方に加わって忍城、武蔵松山城、鉢形城、八王子城攻めの道案内を務めたが、それにもかかわらず七月五日に小田原城が開城すると秀吉から北条氏政・氏照・松田憲秀とともに切腹を命じられた。秀吉の不興を買ったのは、降伏を初めとする不忠振りとも、北条家中のタカ派急先鋒と見做されたからとも云われている。
 同月一九日に河越城下の常楽寺にて大道寺政繁切腹。享年五八歳。



両腕たる活躍 ほぼ前述しているが、松田憲秀は家老を務め、大道寺政繁は主に武将として活躍した。殊に政繁が城代として内政・軍務に重きを為した河越の地は北条家にとって重要帰路となった河越夜戦が行われた地であったことからも、両名が他国にも音に聞こえた重鎮であったことが伺える。

 大河ドラマでも北条家を主人公に据えた話は殆どないのだが、戦国時代を舞台にして北条家自体が出て来ないことはまずなく、その中でも憲秀が出て来ないことも皆無に近い(仮に名前が呼ばれなかったとしても)。
 逆に政繁は戦働きが目立つ存在故か、北条家の戦に関する描写が少ないと登場回数も極端に減ってしまう。前田慶次郎利益の名を一気に有名にした漫画『花の慶次―雲の彼方に』では小田原合戦にて極端に軟弱に描かれがちな北条勢にあって強勢と武士らしさを政繁は殆ど一人で担っていたのはその好例だろう。

 見方を変えれば、両名の活躍は北条家における要所要所を押さえていたからこそ斯様に映るということが出来る。
 過去作において何度か触れたが、薩摩守は戦国時代にあって、降伏間際の混乱を別にすれば北条一族・家中に内紛が殆どなかったことを高く評価している。悪い例に使われている「小田原評定」も本来は北条家の意見を一まとめにする優れたシステムだったのだが、それは憲秀政繁を初め、北条家中における役割分担が能く為されていたことに裏打ちされていると云えよう。



両腕の意義 松田憲秀も、大道寺政繁も、御家が北条早雲の代から仕えていた累代の家臣だった。殊に大道寺家は「御由緒七家(ごゆいしょしちけ)」の一つだった。
 御由緒七家とは、初代北条早雲(正確には伊勢新九郎)の時代に早雲とは同格で、親友の立場にあった六名が早雲とともに、「この中で出世した者に残りの六人がついて行く。」と約束し、累代の重臣となった氏族である。

 大道寺家以外では、多目、荒木、山中、荒川、在竹氏がある。最もこの話は出来過ぎで、逸話の域を出ないとの見方が支配的だが、大道寺家が北条家の中でも重き存在であったことに間違いはなく、大道寺家以外にも累代の家臣が北条家中の固い結束を為し、その中には松田家もあった。
 上述した様に、北条家の強みはその結束の固さにある。その要因は幾つもあり、一言で云い表せるものではないが、北条家・御由緒七家・その他の家中が累代の絆を持っていたことがその一因であることに疑いの余地はなく。憲秀政繁もその一角を立派に担っていたと云える。

 さすがに天下統一に王手を掛けるほどの力を身に付けた豊臣秀吉を前にしては、「相手が悪かった。」としか云いようが無かったが。
 最後の最後に憲秀政繁も豊臣方に合力し、それが為に両名とも戦後処置にて切腹を命じられたのは、皮肉な形で両名の北条家中における重要度を示している様に薩摩守には思われてならない。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新