第捌頁 石田三成with島左近&蒲生郷舎……戦嫌いを最後まで支えた戦巧者
主君:石田三成
略歴 永禄三(1560)年、近江国坂田郡石田村(現:滋賀県長浜市石田町)の土豪・石田正継の次男に誕生。幼名は佐吉(さきち)。
氏名 石田三成(いしだみつなり) 生没年 永禄三年(1560)年〜慶長五(1600)年一〇月一日 地位 治部少輔、五奉行 通称 佐吉
天正二年に羽柴秀吉が近江長浜城主として領主となると、父・正継、兄・正澄と共に秀吉に仕官し、小姓として仕えた。仕官のきっかけとしては、鷹狩りの帰りに寺に寄った秀吉に三杯の茶を熱さ・量を調節して給仕し、気に入られたエピソードが有名だが、これは昨今では後世の創作と見られている。
天正一〇(1582)年六月二日、秀吉の主君・織田信長が本能寺の変で横死したことから、秀吉が急速に台頭。その過程において三成も賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いに従軍し、主に兵站や内政に活躍した。
天正一三(1585)年七月一一日、秀吉が関白に就任にすると三成は従五位下治部少輔に叙任された。それに伴い、秀吉から近江国水口四万石の城主に封じられ、一端の大名ともなった。
その後も越後の上杉景勝が秀吉に臣従を誓うのを斡旋したり、堺奉行としてその地を治めて兵站基地として整備したりした。
特に天正一五(1587)年の九州征伐においては、水軍を最大限に活用しての輜重、島津義久の降伏斡旋、と裏方にて多大な尽力を果たした。
秀吉の天下統一における最後の大仕事となった小田原征伐で忍城攻撃、常陸の佐竹義宣謁見斡旋、奥州仕置後の検地、と活躍を重ね、続く文禄の役では渡海して現地での軍監を担当した。その最中、碧蹄館や幸州山城に転戦しつつ、小西行長と共に(ある意味秀吉の意に反してまで)講和交渉の糸口を得るのにも務めたが、この時の働きが武断派諸将の反感を買い、関ヶ原の戦いの遠因ともなった。
これに前後して豊臣政権下にて五奉行の一人に就任し、内政や刑罰の執行に務め、最終的に秀吉からは近江佐和山に一九万四〇〇〇石を賜った。
だが慶長三(1598)年八月一八日、豊臣秀吉が薨去すると重大な後ろ盾を失った形となった。
秀吉の遺命により、三成は朝鮮にて戦闘中の諸将の引き上げを指揮したが、武断派諸将は戦時中における三成の軍監振りを怨んでおり、その眼は殺気立っていた。
また、秀吉没後に豊臣家に仇為すのを徳川家康と見ていた三成はその排除を目論んだが、これに失敗したことも彼の立場を危うくしていた。
それでも最初は前田利家を初めとする四大老を味方につけていたのでまだ持っていたが、慶長四(1599)年閏三月三日に頼みの前田利家が病死。その日の内に加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の七将による襲撃を受けた。
幸い、佐竹義宣の助けを得て、敢えて敵である家康を頼ることで上手く難を逃れたが、それと引き換えにする形で五奉行辞職、佐和山への帰城を命ぜられた。
だが、豊臣家の為には家康を排除すべし、との三成の考えは些かも変わらず、慶長五(1600)年七月、徳川家康が会津の上杉景勝を討たんとして東上すると、その間隙をついて家康追討の兵を挙げんとした。
親友・大谷吉継にこのことを相談した三成は、実力・人望共に家康に及ばないとして止められたが、意志は固く、吉継も合力を約束。同時に吉継の勧めに従って、毛利輝元を総大将、宇喜多秀家を副将として西軍を組織した。
毛利輝元が大坂城に入城すると三成は前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康弾劾状を諸大名に公布し、家康の重臣・鳥居元忠が留守居を務める伏見城を攻め落とした。
そして美濃の大垣城に入り、家康の西上に備えた。だが、家康は大垣城を無視して大坂に向かう姿勢を見せたので三成は関ヶ原の笹尾山に陣取って関ヶ原に徳川軍を迎え撃った(関ヶ原の戦い)。
石田勢は獅子奮迅の戦働きで東軍を苦戦させたが、西軍全体では日和見や内通が相次ぎ、正午過ぎに松尾山の小早川秀秋が寝返ったことで西軍は総崩れとなり、大敗した。
三成は戦線離脱して伊吹山に逃れた。しかし再起を図って逃れんとした本拠地の佐和山は小早川勢に落とされ(父・兄・妻は自害)、返るべき場所を失った三成も九月二一日、田中吉政の追捕隊に捕縛された。
翌二二日、大津城に護送され、家康と会見。その後、小西行長、安国寺恵瓊と共に大坂・堺を引き回され、一〇月一日、京都六条河原にて斬首された。石田治部少輔三成享年四一歳。
家臣:島左近&蒲生郷舎
氏名 島清興(しまきよおき) 蒲生郷舎(がもうさといえ) 生没年 天文九(1540)年五月五日〜慶長五(1600)年九月一五日 生没年不詳 地位 石田家家老 石田家重臣 通称 左近 喜内 略歴 天文九(1540)年五月五日に、大和平群郡の国人の家に生まれた。
長じて島左近清興と名乗った(他にも勝猛、友之、清胤、昌仲等の名が伝わるが、史料上確実に確認できるのは「清興」のみ)。
当初は河内守護の畠山高政に仕え、三好長慶と戦ったが、畠山軍は敗れ、没落。左近はこの時の戦いで縁を持った筒井順昭を頼った。
順昭没後、僅か二歳で後を継いだ筒井順慶を侍大将として盛り立てたと云われるが、確かな証拠は残っていない。詳細は不明ながら戦場での功績によって筒井家重臣となり、松倉右近重信とともに「筒井家の両翼」・「右近左近」と並び称されが、これも史実ではないとの声が高い。
いずれにせよ順慶はやがて松永久秀を倒して大和統一を果たしたが、順慶が病に倒れるとその後を継いだ筒井定次(順慶の甥)と反りが合わず、天正一六(1588)年二月に筒井家を辞した。
その後、奈良興福寺の塔頭持宝院に寄食したり、蒲生氏郷に仕えたり、豊臣秀長・秀保に仕えたりした。やがて石田三成の訪問を受け、当時近江水口四万石の領主だった三成からその半分である二万石を提示され、これに感じ入った左近は三成に仕えるようになった。
既に豊臣秀吉による天下統一が指呼の間となっていたが、左近は小田原征伐にて三成が忍城攻略に苦戦する中、佐竹氏との交渉で重要な役割を果たした。
慶長五(1600)年九月一四日、関ヶ原の戦いを翌日に控え、兵五〇〇を率いて東軍の中村一栄・有馬豊氏両隊に戦いを挑み勝利し、西軍の士気を大いに鼓舞したが、一方で三成が島津義弘・小西行長等の夜襲提案を退けたために士気低下を招きもした。
そして翌日、関ヶ原の戦いが始まり、数多くの西軍諸将が家康に通じたり、日和見を決め込んだりする中、石田隊を率いて黒田長政、加藤嘉明、田中吉政率いる大軍を相手に左近は獅子奮迅の戦働きを為した。
だがその最中、黒田長政軍の菅正利率いる鉄砲隊に横合いから銃撃されて重傷を負った。最期は小早川秀秋の東軍寝返りを機に西軍が総崩れとなる中、重傷の身を押して黒田・田中軍に突撃し、討ち死した。島左近清興享年六一歳。尾張にて坂郷成の子に生まれ、初名は坂源兵衛といった。柴田勝家に仕え、後に織田信長の娘婿・蒲生氏郷に仕官。九州征伐で戦功を挙げたことで蒲生姓と郷舎の名を賜った。
秀吉による天下統一後、蒲生氏郷が会津に移封となり、郷舎は父とともに白石城四万石に封ぜられた。しかし文禄四(1595)年二月七日、氏郷が死亡すると、後を継いだ秀行と重臣の間での諍いが起き、合戦にまで発展(蒲生騒動)。このため、蒲生家は下野宇都宮に減移封となり、郷舎は父や兄・郷喜とも別れて蒲生家を出奔、浪人となった。
後に石田三成に仕え、関ヶ原の戦いの後、父と兄を頼って蒲生家に帰参。その後、蒲生家重臣・岡重政と争い事を起し、父・兄共々出奔して藤堂高虎に仕えた(関ヶ原の戦いにて戦死したと云われるが、これは同姓別人・蒲生頼郷との混同)。
慶長一八(1613)年、蒲生秀行が死亡し忠郷が跡を継ぐと、岡重政が失脚。郷成・郷喜・郷舎は蒲生家に呼び戻され、再度帰参した(郷成は帰参途中に病死)。だがその後も他の重臣との対立・出奔を繰り返した蒲生郷舎の没年は不詳である。
両腕たる活躍 故隆慶一郎氏の『影武者徳川家康』並びにこれに派生した小説・漫画・ドラマ等で島左近の名はつとに有名である。それ以前、歴史の敗者であった石田三成が余りいいイメージで見られていなかったが、そんな時代でも左近の名は、「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と呼んだ文句が有名なほど名高かった。
それは取りも直さず、三成が秀吉配下として苦手としたことを左近と郷舎が担ったからと云える。
一般に、豊臣秀吉の配下が「武断派と文治派」、「尾張派と長浜派」、「高台院派と淀殿派」に別けて見られることが多い(実際にはそう単純でもないのだが)。そんな中で、三成は概ね「文治派・長浜派・淀殿派」に属し、軍事並びに武断派との交際を苦手とした。小田原討伐でも、朝鮮出兵でも、三成は「寄せ手の大将」としては失態を見せている(←全く活躍しなかった訳ではない)。
彼個人は明らかに「武より文」、「行動よりも弁論」で、得意分野(政務・戦後処理)では随一の功を収め続けたが、苦手分野は本当に苦手だった。
勿論、「天は二物を与えず」という言葉がある様に、三成に限らずオールマイティな人間の方が世には少数なのだが、三成の場合は得手不得手が能力・功績共に極端過ぎた。例えば、三成が加藤清正・福島正紀・黒田長政等に嫌われていたのは有名だが、島津義久の様に、秀吉に降伏する際に三成の御蔭で苛斂誅求を免れたものも少なくない(それゆえ、関ヶ原の戦いにおいて、本来親家康派だった島津義弘が三成に合力したのもその時の恩義故とも、成り行き故とも云われている)。
だが、自らに無い物は、他の者に肩代わりさせればいいのである。故に左近と郷舎は三成の苦手とした「武」を託された。そしてその託し方は「丸投げ」に近く、同時に全幅の信頼を置く者でもあり、それを態度で示したものが、左近登用時に為された、「知行の半分を与えて召し抱えた。」というものだろう。
「年商四億円の会社の社長が重役に二億円の年収を与えている。」という風に考えれば、とんでもない信頼振り且つ、頼られ振りであることが一目瞭然だろう。
両腕の意義 石田三成は知名度こそ高いものの、二昔前まではその実像に関してはあまり知られていない人物だった。
豊臣家に対する滅私奉公振りが加減を知らなかった故に、「秀頼公の側近くで政を私せんとした小人輩」と揶揄され、その人望の無さが仇となって関ヶ原の戦いに敗れた訳だが、腰巾着のイメージが強かった二昔前でも、三成を本気で野心家と思っていた人は殆どいなかったことだろう。
これ等のことを鑑みても、三成は良きにつけ、悪しきにつけ、真っ直ぐ過ぎた人間だったために、周囲からも極端視され、そのことが彼の実像を歪めていたと云える。
勿論、三成自身聡明な男で、自分が周囲からそう見られていることを自覚はしていただろう(自覚しながら、それを軽視していたのが命取りになったと云えるのだが……)。それゆえに彼は自分の力だけで物事が成り立つとは思わず、自分に無い物を埋めることの出来る、信頼出来る仲間を縦横に必要とした。
上司としては前田利家、宇喜多秀家、同僚としては五奉行(浅野長政・前田玄以・長束正家・増田長盛)、盟友としては大谷吉継、小西行長、その他としては上杉景勝等の名が挙がるが、結果として彼等は徳川家康に抗するには役者が不足していたり、天寿や地理上の問題が味方しなかったりした。
いきおい、部下に頼れる存在が必要ということになる。島左近と蒲生郷舎が如何に三成に頼られたかは既に前述しているが、補足的に付け加えるなら、関ヶ原の戦いと云う三成の最期に際して、この両名に様々な(誤解を含む)エピソードが生まれたことにも見られる。
関ヶ原の戦いにおいて、多くの西軍大名が日和見を決め込む中、石田勢は黒田長政、加藤嘉明、田中吉政勢を相手に互角以上に渡り合った。殊に黒田・加藤は百戦錬磨と云っても良い精強軍団で、そんな彼等が彼の戦いにおける左近の奮闘振りは後々まで悪夢に見たと云われている。
そんな経過もあって、戦いのおける比較的早期に左近が討ち死にしたにもかかわらず、戦後も「左近を見た!」との噂が後を絶たず、戦線離脱した筈の郷舎も、実際に戦死した蒲生頼郷に代わって、「三成の盾となって戦死した。」と長きに渡って誤解され続けていた。
如何に「両腕」としての両名が石田三成にとって重き存在であったかが窺い知れるというものと云えよう。
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