局面拾 ポツダム宣言受諾……無条件降伏と武装解除

出来事ポツダム宣言受諾
内容第二次世界大戦における降伏勧告受け入れ
年代昭和二〇(1945)年八月一五日
キーパーソン昭和天皇、鈴木貫太郎、阿南惟幾、東郷茂徳
影響大戦犠牲反動による軍国主義忌避
前史 明治維新以来、武士の世を終えた大日本帝国は文明開化を経て富国強兵に励み、日清戦争日露戦争に勝利し、アジア随一の軍事大国として欧米列強と肩を並べた。
 当初は列強のアジア・アフリカ侵略の毒牙に掛からぬためだったが、力を得たことで海外に領土や租借地や委任統治領を得るとともに国土防衛の大義名分を保持していたにせよ朝鮮半島→満州→冀北→モンゴルに支配地域を広げる動きに歯止めが掛からなくなり、満州事変に始まる日中戦争太平洋戦争が泥沼化した。
 開戦当初こそ局地的に連戦連勝を重ねていた戦局も物資・技術面で米英に劣り、ミッドウェー海戦ガダルカナル島撤退サイパン陥落を経て米軍機による本土爆撃が始まり、民間人も戦火に曝されることとなった。

 大戦末期には同盟を結んでいたドイツ・イタリアが次々に降伏し、米軍は沖縄にまで入り込み、昭和二〇(1945)年七月二六日に、連合国はアメリカ・イギリス・ソ連・中国の名で大日本帝国に無条件降伏を勧告してきた。所謂、ポツダム宣言である。
 約三週間後に日本政府がこれを受諾したのは周知の通りだが、その条件を巡って鈴木貫太郎内閣の会議は紛糾した。



武装解除 少し誤解ある書き方をしているが、ポツダム宣言受諾とは、連合国からの降伏勧告を受け入れたもので、これにより交戦中だったすべての日本軍に停戦命令が出されたが、あくまで交戦を禁じたもので、軍隊を解散させたのでもなければ、軍人の武装を解除したものでもない
 降伏文書への調印は昭和二〇(1945)年九月二日の事で、降伏を受け入れたとはいえ、調印までの間に不当な攻撃を受けた際に反撃するのは立派な権利だった。

 実際、同年八月八日に有効期間中だった日ソ中立条約を破棄して攻め込んできたソビエト連邦は八月一五日以降も千島列島、樺太(サハリン)、満州への攻撃を続け、帝国陸軍はこれに頑強に抵抗。この反撃を批判する声は全く聞かれない。
 そう、無条件降伏と雖も、相手の言動に何の批判・条件もなく云うがままに従う降伏など愚の骨頂である。

 少し話が戻るが、七月二六日に為された降伏勧告が受け入れられるのに三週間を要したのもポツダム宣言の受諾条件を巡ってだった。
 八月九日、鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言受諾に関する会議で紛糾した。敵は一都市を壊滅させる新型爆弾(原子爆弾)を擁し、三日前に広島が壊滅させられていた。戦況からも戦力格差からも、総理大臣鈴木貫太郎も、陸軍大臣阿南惟幾も、海軍大臣米内光政も、外務大臣東郷茂徳も、ポツダム宣言の受諾自体は「止む無し」との意見で一致していた。
 問題はその条件だった。

 ポツダム宣言は、降伏に際して、日本軍が武装を解除し、戦争犯罪人を処罰し、日本が戦争で得た領土を放棄せしめ、これらが履行出来る政府が成立するまで連合国軍が日本を占領統治下に置く、としていた。
 この内容に対して、前述の四者が連合国に出す譲れない条件として、「国体の維持」が絶対のものとして一致意見としていた。だが、阿南は宣言内容に対して、「戦争犯罪人の処罰と武装解除は日本人の手で。」と、「連合国軍による日本占領は短期間・小規模に。」という条件が必須として譲らず、会議は紛糾し、議論中に長崎に原子爆弾が投下されたとの大事が急報されても意見は一致しなかった。

 鈴木東郷は幾つもの条件を提示しては降伏が成立せず、国体維持をも危うくしかねないことを懸念した。だが阿南は譲らなかった(その真意に関しては詳細後述)。
 結局、鈴木昭和天皇の聖断を仰ぐ、という最終手段に出て、昭和天皇ポツダム宣言の受諾を命じた。だが、これは大日本帝国憲法の規定や天皇の責任問題からも危険な賭けだった。
 戦前、大日本帝国政府は天皇に責任を負わせないことを是とし、天皇の方でも大権を持ちながら滅多なことでは直接命令を下さなかった。
 ポツダム宣言を「国体護持」のみで受諾、それも昭和天皇の決定でもって為されたとなると連合国軍による軍事裁判で昭和天皇が訴追され、有罪となる可能性を帯びることを意味しかねなかった。
 結果的に連合国側は日本統治のためにも昭和天皇の訴追を見送ったが、もし有罪になっていれば、悪ければ死刑、良くても退位が免れないところだった。

 前述した様に、阿南ポツダム宣言受諾条件を厳しいものとしたのには、国体護持と同時に連合国による過剰報復や、陸軍内の本土決戦派による暴走を阻止する目的があったのではないか?と薩摩守は見ている。
 降伏の二文字に頑強に抵抗していたのが陸軍だったのは余人の言を待たないところである。実際、ポツダム宣言受諾を発表する玉音放送前日、陸軍の一部は昭和天皇ポツダム宣言受諾を録音したレコードを強奪して降伏を阻止せんとした(宮城事件)。

 これは未遂に終わったが、そもそも昭和天皇や政府内の日中戦争不拡大・日米開戦阻止の方針を意向に最も従わなかったのは陸軍で、日清戦争以来の戦果に執着して結果的に戦争を拡大し続けた。
 二・二六事件も記憶に新しく、予備役を含めれば五〇〇万人いたとされる陸軍が暴走すれば日本は有史以来最大の大乱となりかねなかった。陸軍大臣たる阿南は陸軍内部の暴走を阻止する為にも、内心はどうあれ、陸軍の代表として余程の条件を成立させない限り、ポツダム宣言を受諾せしめる訳にはいかなかったことだろう。

 また、阿南が条件とした「戦争犯罪人の処罰と武装解除は日本人の手で。」と、「連合国軍による日本占領は短期間・小規模に。」も、受け入れ可否はともかく日本及び日本人の安全を守る為の要求としては正当と薩摩守は考えている。
 結果論だが、日本人の戦犯を裁いた極東軍事裁判は事後法によって裁くと云う裁判としては最低最悪の物だった。薩摩守は所謂A級戦犯とされた者の中の何人かは「万死に値する。」と思っているが、それでも事後法で裁いたのは全くの横暴と思っている。同時に議題に上った原爆投下を初めとする連合国側の虐殺行為が無視されたのも許せない。
 まあ、サンフランシスコ平和条約締結時に極東軍事裁判の受け入れを約束した以上、今更これを取り消せと世界に対しては云えないが、この裁判が(裁判の在り方として)不当なものであったのは今後も主張し続けていく所存である。

 また、阿南が口にした「連合国軍による日本占領は短期間・小規模に。」だが、これも米軍がいまだに数々の特権を持って日本国内でデカい面をしていることを思えば、阿南の懸念は的を得ていたと思われる(日米地位協定を盾に、いまだに在日米軍はある種の治外法権を手にしており、在日米軍が起こした犯罪・事故に泣き寝入りした日本人の例は枚挙に暇がない)。
 勿論、圧倒的に不利な戦況に在り、無条件降伏を突き付けられている側が負けを認めるのに際してあれやこれや条件を突き付けてくれば、「何をムシの良い事を抜かしてんだ?」と取られ、交渉決裂という本末転倒な事態になる可能性は充分にある。
 昭和天皇が下した「国体護持」のみを条件とした受け入れが良かったのか?阿南が出した条件も駄目元で突き付けるべきだったのか?もはや答えが出ることは無いが、難しい問題だったことだろう。

 ポツダム宣言受諾決定後、鈴木は鈴木内閣全大臣の辞表を昭和天皇に提出し、翌日を持って鈴木内閣は総辞職した。直後、阿南鈴木の元を挨拶に訪れ、受諾決定まで鈴木に度々反論したことが真意ではなく、自分の真意は鈴木と一緒だったと告げた。
 それに対して鈴木阿南を労い、日本の将来を悲観しておらず、日本は必ず復興を遂げると力説した。そして直後、阿南惟幾は「一死大罪ヲ謝ス」と云う有名な遺書を残して割腹自殺した…………。

 そして良くも悪くも昭和天皇という絶対的な存在による降伏勧告受諾に大日本帝国臣民は概ね素直に従い、一部の降伏を潔しとしない軍人・政治家の自害は有ったものの、降伏や進駐軍駐留に対する軍事的な反発が起きることは無かった。



後世への影響 ポツダム宣言受諾に限ったことではないが、太平洋戦争に敗れるまでに日本全土が被った被害の大きさは日本人に重大な軍事アレルギー・核アレルギーをもたらした。
 戦後軍事に対する是非に関してここでは論じないが、ポツダム宣言受諾→降伏→大日本帝国崩壊の流れの中で日本人の価値観は大きく揺れ動かされた。

 三〇〇万人を超える犠牲者数と焦土と化した国土を前に軍国主義・軍隊・戦争・武装・帝国主義・覇権主義・大陸進出・大日本帝国憲法教育勅語・八紘一宇等々、本来は軍事との関連が必ずしも濃くない理念・法・制度も、軍拡に影響したと見做されたものが忌避・白眼視され出した。
 終戦直後のGHQによる占領政策によって、教育現場からして旧日本軍に関する事柄が否定され、ある本で見た話によるとGHQは剣道すら禁じたらしい(←「ある本」が集英社刊『天下無双江田島平八伝』なのは内緒)。

 このポツダム宣言受諾に始まる日本の軍備・武装に関する経過は次頁以降に譲るが、ポツダム宣言受諾=初めての敗戦とその惨禍によって精神的にも、政策的にも国民に極度の軍事忌避を生む発端となった。
 勿論、現実問題から一〇年も経過しない内に自衛隊と云う名の軍事力を持たざるを得なかった訳だが、事実上の軍隊である自衛隊を未だに法制度的に正式な軍隊として認知されないのもポツダム宣言受諾に際して約された武装解除との関連は決して小さくないだろう。



キーパーソン概略
昭和天皇………第一二四代天皇。父帝である大正天皇が病弱だったため、皇太子時代から摂政を務めた。大日本帝国憲法の規定により基本政治に対しては承認役に徹したが、二・二六事件に際しては若手陸軍軍人の暴走に対して即刻の鎮圧を命じ、連合国からの降伏勧告に際しては異例の聖断を降してポツダム宣言受諾を実現させ、終戦後にはマッカーサーに臣民への寛容な処置を直談判する等、要所要所で断固たる意志を示した。
 日本国憲法公布により「現人神」から「日本国の象徴」となり、昭和から令和に至るまで「君臨すれども統治せず。」の先駆けとなった。


鈴木貫太郎………第四二代内閣総理大臣。元は海軍軍人で、予備役となった後に自らは侍従長、妻のタカは昭和天皇の教育係として昭和天皇の信頼を得た。
 二・二六事件で陸軍軍人に撃たれるも奇跡的に生き延び、太平洋戦争が敗色濃厚となると昭和天皇たっての願いで終戦工作を担う総理大臣就任を拝命し、ポツダム宣言受諾を成立させた後に総辞職した。


阿南惟幾………陸軍軍人。警察巡査だった父の影響で陸軍軍人としてのエリートコースを進み、昭和天皇の信頼厚く、鈴木貫太郎が侍従長となった時には侍従武官となった。
 鈴木内閣成立に際して陸軍大臣に就任し、徹底抗戦論の強い陸軍を暴走させない為にポツダム宣言受諾を巡って頑なな主張を続けたが、立場によるもので、本人は当時の陸軍軍人には珍しく妾を囲わない愛妻家で、部下に対する横暴なカラーも無かった。
ポツダム宣言受諾決定後、割腹自殺。日本史上、現職官僚が自害したのはこれが最初だった。


東郷茂徳………外交官、政治家。太平洋戦争の開戦時にも、終戦時にも外務大臣を務めた。駐ドイツ大使時代はリッベントロップ外務大臣と対立し、駐ソ大使時代はモトロフ外相と日ソ中立条約を締結し、日米開戦回避、ポツダム宣言にも尽力したが、終戦後に連合軍によって「真珠湾攻撃の卑劣な奇襲を主導した者」と見做され、戦犯として起訴された。
 極東軍事裁判では有罪とされたが、全被告の中では二番目に軽い禁固二〇年の判決を下された。後に無期禁固となった戦犯達も特赦されたが、東郷はその前に病没した。


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令和三(202一)年五月一二日 最終更新