局面拾壱 日本国憲法公布……軍隊不保持と交戦権否定

出来事日本国憲法公布
内容新憲法制定による主権在民・基本的人権尊重・戦争放棄の確立
年代昭和二一(1946)年一一月三日
キーパーソン幣原喜重郎、松本烝治、ダグラス・マッカーサー
影響戦前軍国主義の否定と戦後穏健外交
前史 昭和二〇(1945)年八月一五日、大日本帝国はポツダム宣言を受諾し、日中戦争第二次世界大戦太平洋戦争は終結した。
 昭和二〇(1945)九月二日、ミズーリ艦上にて外務大臣重光葵が降伏文書に調印し、大日本帝国の降伏が正式に成立し、米軍を中心とする連合国軍が進駐してきた。
 これを率いる元帥ダグラス・マッカーサーが起居した本部はGenral Head Quarter、通称GHQと呼ばれ、日本はその統治を受けることとなった。

 GHQはポツダム宣言の内容に基づき、日本を二度と欧米に逆らわせない国家とする為の統治を行った。言葉悪い云い方をすれば、日本を軍事的に骨抜きにする政策を行った訳である。
 ポツダム宣言は日本に対して軍国主義を排除することを求めており、
 第六条にて、

吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス

 第七条にて、
右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ

 と述べていた。
 云わば、軍国主義を排除し、それが完遂したと見られるまでは連合軍は日本を占領し続けると述べていたのである。
 このことからも、日本政府内では早晩GHQが大日本帝国憲法の改正を求めて来るであろうと予測していた。だがGHQによる司令は予想以上に早かった。



武装解除 昭和二〇(1945)年一〇月四日、GHQは東久邇宮成彦内閣の国務大臣・近衛文麿(←この時点ではまだ戦犯ではなく、れっきとした政治家だった)に、憲法改正を示唆した。
 同日、GHQは他にも治安維持法の廃止、政治犯の即時釈放、天皇制批判の自由化、特高警察の廃止等を日本政府に命じた。

 ある程度予想していたとはいえ、これは余りに性急な要請で、翌五日に東久邇宮内閣は、これらの指令を実行出来ないとして総辞職した。
 同月九日に幣原喜重郎内閣が成立し、翌々日である同月一一日、幣原は新任の挨拶のためにマッカーサーを訪ねた。マッカーサーはその際に幣原に口頭で「憲法の自由主義化」の必要を指摘した。

 事ここに至って新憲法の草案起草は喫緊の課題となり、国務大臣松本烝治(まつもとじょうじ)を委員長とする憲法問題調査委員会(通称・「松本委員会」)が組織され、数多くの憲法学者・法学者が加わり、昭和二一年一月九日、第一〇回調査会にて、松本は「憲法改正私案」を提出した。
 これは前年一二月八日に松本が示した「憲法改正四原則」をその内容としたもので、

●天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の基本原則は変更しないこと。
●議会の権限を拡大し、その反射として天皇大権に関わる事項をある程度制限すること。
●国務大臣の責任を国政全般に及ぼし、国務大臣は議会に対して責任を負うこと。
●人民の自由および権利の保護を拡大し、充分な救済の方法を講じること。

 を基軸としていた。
 更にこの「私案」は要綱化されて手を加えられ、「憲法改正要綱」として一月二六日に「憲法改正要綱」(甲案)と「憲法改正案」(乙案)が議論された。
 そして一月三〇日から二月四日にかけて連日臨時閣議にての審議を経て、二月七日に松本は内閣の正式決定を得る前に「憲法改正要綱」を昭和天皇に奏上し、翌八日に説明資料とともにGHQへ提出した。

 この間、国民の間にも憲法問題への関心が高まり、松本委員会の動きや各界各層の人々の憲法に関する意見なども広く報道され、松本委員会の他にも様々な政党や知識人のグループ等が多種多様な民間憲法改正案を発表した。
 だが、それらの多くは大日本帝国憲法に若干手を加えたものであって、マッカーサーをして、「これまでと何も変わらん。」と云わしめたものだった。

 ここまでの経緯を経てマッカーサーは憲法改正への介入を決意した。
 と云うのも、マッカーサーはGHQによるに潤滑な日本統治の為に天皇の存在は必要不可欠と見ていて、極東軍事裁判において昭和天皇の訴追が見送られたのもその点にあった。
 だが、同じ連合国内でもソ連やオーストラリアは昭和天皇への処罰に対して強硬派で、昭和天皇の起訴・退位はおろか、天皇制の廃止まで意図していた。
 それゆえ旧憲法と大差ない草案提出が繰り返され、憲法改正が進まないまま天皇制廃止への動きが生まれることで日本統治が困難化することを懸念してマッカーサーは同年二月三日にGHQが憲法草案を起草するに際して守るべき三原則を、ホイットニー民政局長に示した。

 その三原則とは、
一、.天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。

二、国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。

三、日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと。

 と云うものだった。原則の二番目が日本国憲法第九条の骨子となっているのは火を見るより明らかだろう、というか、そのものと云って良い。
 これを受けてホイットニーは翌日、部下の民生局員達に極秘裏に起草作業を最優先するよう指示し、不眠不休で起草された結果、同月一〇日、全九二条にまとめられ、マッカーサーに提出された。
マッカーサーによる一部修正の指示を受け、一二日に草案は完成し、翌一三日、所謂「マッカーサー草案」(GHQ原案)が日本政府に提示された。

 提示は日本政府が二月八日に提出していた「憲法改正要綱」(松本試案)に対する回答という形で示されたものだったが、政府サイドはGHQによる草案起草が進められていたことを全く知らず、「マッカーサー草案」の提示に驚愕した。しかも提示は昭和天皇を軍事裁判に掛けることを仄めかして受け入れを強要するという、完全な恫喝を伴うものだった。

 「マッカーサー草案」を受け取った日本政府は同月一八日に再考を求めたが、ホイットニーの対応は松本からの説明補充も拒否し、「マッカーサー草案」を受け入れるか否かを四八時間以内に回答するよう迫ると云う身も蓋も無いものだった。
 事ここに至り、幣原喜重郎は二月二一日にマッカーサーと会見し、翌二二日の閣議で、「マッカーサー草案」の受け入れを決定し、昭和天皇に事情説明の奏上を行った。

 同月二六日の閣議から「マッカーサー草案」に基づく日本政府案の起草作業が始まり、最終草案は三月二日に完成した。翌々日に松本はホイットニーにこれを提出し、GHQは即行の英訳と「マッカーサー草案」との相違点確認、修正要請を経て、同月六日にようやく、日本政府とマッカーサーはその内容に対して同意するに至った。
 これらの作業は概ね国民には極秘に行われ、同月七日の新聞で最終草案の内容を知った国民は予想外に急進的だった内容に驚愕したが、内容そのものは概ね好評だった。

 その後、条文が読み易いように口語化された。
 そして四月一〇日に戦後初となる衆議院議員総選挙が行われ、新たに就任した国会議員達は同月一七日、政府は、正式に条文化した「憲法改正草案」を公表。同月二二日、第一次吉田茂内閣の発足と共に枢密院にて憲法改正草案審査委員会が開催され、八回の審査と若干の修正を経て、六月八日、枢密院の本会議は、天皇臨席の下、憲法改正案の採決に入り、賛成多数で可決した。

 その後も政府は大日本帝国憲法 (←勿論この時点でまだ有効)第七三条に規定されていた憲法改正手続に従い、衆議院での審議・修正、同様に貴族院(←この時点ではまだあった)での審議・若干の修正を経て七月七日に衆議院にて貴族院回付案を可決したことで、帝国議会における憲法改正手続はすべて終了した。

 かくして現行の日本国憲法は成立し、教育・労働・納税が三大義務とされ、主権在民・基本的人権尊重・戦争放棄が三大柱となり、(一応は)その後の憲政において最重要視され続けている。



後世への影響 如何なる政策・法にも功罪両面があり、日本国憲法も例外ではない。
 現憲法が施行され、三原則が立法・行政・司法において重視され、国民はまずは長く辛酸を舐めた戦争が絶対悪的に敵視されたことを概ね歓迎した。
 「概ね」としたのはどんな思想・法令にも必ず反対する者は存在することと、基本的人権に裏打ちされた言論・思想・良心の自由が保証されたことで、反対意見が戦前よりは云い易くなったからである。

 結果的に、施行から七三年を経た令和二(2020)年一一月一日現在、日本国憲法は改正されずに至っているが、改正を求める声自体は施行当初から存在した。勿論改憲を求める声に対しては所謂護憲派と呼ばれる人々が反対の声を上げてきた。
 改憲派にせよ、護憲派にせよ、多くの場合その争点となったのは第九条だった。改めて記すと、

一、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する
二、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない

 非戦論に立てば、戦争を嫌がる人々に対して国家が徴兵や召集を行うことは皆無となった。日本が他国と揉めても武器を持って相手を殺しに行くことや、それを強制されることもなくなった訳で、戦争を忌避する言論も大手を振って叫べるようになった訳である。
 逆に国防の観点に立てば、「侵略やテロを受けたらどうするんだ?」との懸念が多いに残った。日本が戦争を放棄したとはいえ、世界は東西冷戦に入り、終戦後に成立した中華人民共和国、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国は日本国を敵視した。
 何より北方領土は先の大戦でソビエト連邦による不法占領下におかれて現在に至っている。北朝鮮による日本人拉致という暴挙や、韓国による竹島不法占拠、延々と続く尖閣諸島に対する中国船の不法侵入は現状とても話し合いで解決するとは思えない。

 だからと云って、これらの解決の為に武力を行使するのは、薩摩守は反対である。力により外の押し通しなど、所詮はより大きな力に潰されるものなのだから、時間は掛かっても国際世論・第三国との協調・経済的な駆け引き・とことんまでの正論で解決するべきと考えている(余命幾ばくもない拉致被害者の家族を思えば何とも遣り切れない持論ではあるが……)。

 現実問題を持ち出せば、日本国憲法施行から僅か三年で朝鮮戦争が勃発し、GHQは自衛隊の前進組織となる警察予備隊を編成した。アメリカが韓国に味方して朝鮮戦争に武力介入したため、日本駐留部隊も朝鮮半島に渡ることとなり、有事の際に武力で日本の防衛・治安維持を担える組織が必要となった。

 周知の通り、警察予備隊は保安隊となり、最終邸に自衛隊となった。勿論この組織は武装しており、武力を保持している。当然、日本国憲法九条に抵触しないのか?との議論が沸き上がった。
 とどのつまり、駐日米軍の御都合で国の最高規範である憲法が捻じ曲げられた訳で、政治家たちは批判をかわすのに躍起となった。警察予備隊の存在目的が防衛と治安維持の為で、戦争をする為ではないと弁明した(いちいち触れるのも馬鹿馬鹿しいが、世界中のありとあらゆる軍隊は「自衛」を掲げ、間違っても「侵略目的」とは云わない)。
 自衛隊が軍隊であることを否定する為に戦車を「特車」と呼ぶのを初め、戦前の軍隊用語は極力避けられたが、自衛隊が戦前の大日本帝国陸軍・海軍を凌駕する武力を持つ組織であるのは明らかである(まあ、七五年前の武力に負けるようでは話にならないが)。

 自衛隊員の数は増加の一途を辿り、これを管轄する防衛庁も平成に至って防衛省に格上げされた。
 実際、世界に戦争やテロが絶えず、日本周辺に武力で日本に危害を加えかねない国家や組織が現存する状態では日本国憲法第九条を完璧に遵守するのは困難と云える。
 何せ戦力不保持を厳守するなら自衛隊は明らかに違憲組織である。誤解無いよう申し上げるが、薩摩守は自衛隊の存在意義を否定している訳ではない。現在の日本国が海外に攻め出さないことを守らせているのは日本国憲法だが、直接的な防衛手段は自衛隊と在日米軍である。
 また、東日本大震災を初めとする大災害において被災地を助けるのに尽力したのが自衛隊なのは明らかで、自衛隊及び自衛隊員に感謝する声は数多く聞かれた。

 ただ、それでも自衛隊が暴走せず、周辺国とのトラブルに過激な手段に走るのが戒められているのも、日本国憲法の理念が大きいと云えるだろう。
 軍事アレルギーが現実を無視するのは良くないが、強力な力が暴走するとなかなか止められず、後世への禍根を残す。日本国憲法及び日本の防衛が未来においてどう変わるかは分からないが、
 第九条の理念が戦争への歯止めになる傾向はまだまだ続くことだろう。



キーパーソン概略
幣原喜重郎‥‥‥……外交官・政治家。豪農の家に生まれ、政治家としては農商務省からスタートしたが、外交官となってからは外交に活躍。戦前においても加藤高明内閣で外務大臣を務め、国際協調路線を重視した、いわゆる「幣原外交」を展開せんとしたが、弱腰との揶揄を受けた。
 終戦直後、東久邇宮内閣の総辞職を受けて、昭和天皇や吉田茂の説得を受けて第四四代内閣総理大臣となり、憲法改正に取り組む。戦後初の総選挙後総辞職し、第一次吉田内閣では国務大臣として吉田を支えた。
 後、衆議院議長在任中に病没。


松本烝治………政治家・商法学者。東京帝国大学教授や満州鉄道理事を歴任し、士族の生まれだったことから貴族院直線議員に勅任された。戦後幣原内閣の国務大臣となり、急遽強要された憲法改正に尽力。
 試案の多くはGHQに却下され、満鉄理事だった過去から公職追放の憂き目まで見た。その後は弁護士を初め、法曹界にて活躍した。


ダグラス・マッカーサー………アメリカの軍人・陸軍元帥。軍人然とした父から軍人教育を受け、当然の様に軍人としてキャリアを積み、第二次世界大戦時には退役していたが、現役時代に活躍していたフィリピン防衛を命じられ、奮闘。一時は日本軍によってフィリピンを追われ、軍人としてのキャリアにも大きな傷が残ったが、南西太平洋方面最高司令官として米英蘭軍の指揮を執り、フィリピンを奪還し、終戦を迎えた。
 戦後、米国内の人気からGHQの最高司令官として来日。戦犯の逮捕と日本軍の武装解除を勧め、軍備を禁じる憲法を強要する一方で、自分に会いに来た昭和天皇の在り様から日本統治の為にも天皇を訴追すべきではなく、天皇制を守る為にも憲法制定を急がせたことで結果的に戦後日本の民主化と軍事忌避が進んだ。

 朝鮮戦争が勃発すると日本政府に警察予備隊を編成させ、国連軍の指揮を執って北朝鮮・中国義勇軍と戦うも、戦前より仲の悪かった大統領トルーマンとの対立から最高司令官の任を解かれ、日本を離れることとなったが、その際には二〇万人の日本人がこれを見送った。


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令和三(2021)年五月一二日 最終更新