局面参 検非違使創設……軍事権・警察権の放棄

出来事検非違使創設
内容令外官としての検察制度の改革
年代弘仁七(816)年
キーパーソン − 
影響朝廷内における軍事・警察・処刑に連なる穢れ仕事への忌避増大。武士の世が始まる遠因となる。
前史 桓武天皇が軍事を停止し、薬子の変鎮圧を経て、嵯峨天皇の尽力もあって、平安時代はようやくにして、束の間の「平安」を得た。
 貴族間の勢力争いも一時的になりを潜め、東北地方における紛争も一段落しとで、軍や警察に関する仕事は軽視されるとともに、時に流血を伴うそれ等の仕事はその必要性までもが軽視され、皇族・貴族達は益々距離を置き出した。

 だが、それはあくまで中央官界における価値観の変化で、世の中から悪人が減った訳ではなく、治安は悪化した。それに対抗する為に生まれたのが検非違使(けびいし)だった。



軍縮・武装解除 平安時代の日本に限った話ではないが、人間は戦乱の時代や、治安がどうしようもなく悪化した世の中では軍人・武人を頼りとするのに、平和が訪れると彼等を白眼視する。
 軍事を停止し、天皇に対する謀反に対してすら(正式な)死刑を課さなかった世に在って、平安貴族達は悪化した治安に対処する必要性は認めたものの、軍事・警察に対する敬意を持った訳ではなかった。
 それどころか、「かかる穢れ仕事は正式な官僚の仕事ではない!」とばかりに、令外官(りょうげのかん)、つまりは正式な官職にない者が担う仕事=賤業とし、治安維持に努め、軍事・警察を担う新制度=検非違使を創設した。
 役名の語源は「非違察する天皇の使者」であった。

 勿論、そんな経緯を経て生まれてきた訳だから、検非違使が組織として充実するにはその後数々の改編を経た。同時にそれは律令制における司法官達の職務が次々と離れていくことを意味した。
 検非違使の創設は、制度だけを見れば警察権をメインとした軍事権の新設で、軍縮や武装解除とは真逆の施策である。だが、只でさえ蔑視した軍事・警察の職務を令外官に丸投げしたことで、中央政府は益々軍事と距離を置いたことを意味していた。



後世への影響 検非違使創設以前、刑部省が司法を担当し、弾正台が警察・観察を担い、京職が都の治安を監視していた。
 同時にこれは中央官界が軍事権・警察権を白眼視し、それ等の職務とともに責任をも放棄していったことを意味した。

 だが、いくら政府首脳が崇高な理念を持ち、流血を忌避しようと、そんなことは悪人達には知ったことではなく、都合がいいぐらいだった。山には山賊が、海には海賊が、都にも盗賊が横行した。
 この時代、土佐の国司を務めた紀貫之が任期中に海賊取り締まりに尽力し、任期終了後都に戻る途中で海賊達の報復に脅えていたのは、如何に中央警察組織が脆弱だったかを示した例として『土佐日記』にて有名である。
 また、平将門の乱藤原純友の乱も結局は中央官界の治安に対する不徹底から派生したと云っても過言ではない(将門も当初は伯父達との勢力争いに際して自衛の為にしか戦わず、検非違使もその時点では将門を無罪としていた)。

 それゆえ検非違使は平安時代後期には各国にも置かれるようになった。
 また、決して貴族達から尊敬されていた訳ではなかったが、必要性は認められ、その語源からは天皇に仕える者とされていたため、当時まだまだ身分の低かった武士達にとっては出世の糸口と見られた。つまり名前のみは重んじられたということである。

 時代はかなり離れるが、源平合戦の時代、源義経は一の谷の戦い直後に検非違使に任ぜられたが、このことが兄・頼朝の了承を得ていなかったために一時軍務から外されたことがあった。
 義経は、大して活躍してもいない兄・範頼が三河国司に任ぜられたのに、活躍した自分が検非違使になったぐらいで頼朝の不興を買ったことに不貞腐れた。頼朝は武家政権確立の為にも武士が朝廷から勝手に官位を貰うことを禁じていたが、義経は任官を御家の名誉と考えていた。
 この辺り、頼朝の教導がなっていなかったか?義経の認識が甘かったか?は様々な意見が分かれるところだが、事実上自前の軍事力で戦っていた清和源氏が既に形骸化していた検非違使就任を(意味合いはどうあれ)軽く見ていなかったことは興味深い。

 検非違使創設は簡単に云えば、軍事権・警察権の高官から軽輩への委譲、責任放棄であった。
 だが、悲しいかな世の中は力で動く。権力と財力を独占した藤原家も、それ等を奪われた者達が地方で武力を蓄えると徐々にその力を衰えさせた。
 特に平将門や藤原純友の様に地方で反乱を起こす者には都の治安を担う警察程度では抗し得ず、地方には押領使や鎮守府将軍が生まれ、やがては保元の乱平治の乱による武士の世の台頭を待つこととなった。



キーパーソン概略…………後々は有名な源氏一族が任命されたこともある検非違使ですが、創設時におけるキーパーソンはいません。正確には、いたかも知れませんが、従五位下よりも下の身分の者達が任官されたように、元々は職業蔑視から生まれた令外官だったゆえに、史書において重視される人物が就任しなかった、或いは職務そのものが史書に逐一明記される程重視されていなかった故と思われます。


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令和三(2021)年五月一二日 最終更新