局面肆 織田信長対一向宗……武装宗教勢力の崩壊

出来事織田信長対一向宗勢力との戦い
内容主に比叡山延暦寺、長島一向一揆、石山本願寺との戦闘
年代元亀元(1570)年九月〜天正八(1580)年三月五日
キーパーソン織田信長
影響徹底殲滅による仏教勢力の武装解除。
前史 平安時代に中央官界が軍事・警察を放棄したことで、地方勢力は自前の武力で自衛する道を選んだ。そこから武士が生まれ、鎌倉時代には守護が国府を、地頭が荘園を支配するとともに守るようになった。
 だが自衛の為に自前の武力を持つようになったのは地方政権だけではなかった。

 農民も武装し、やがては地侍・国人衆と呼ばれる勢力となり、そこまでいかなくても地元が戦場となった直後は落ち武者狩りを行った。
 山賊・海賊が横行する世に在っては、漁師や商人も武装しなければ生業を守れず、水軍や武装商人となった。
 そして武装した勢力の一つに寺社があった。

 古今東西、宗教関係者が武器を手放した歴史は決して古いものではない。否、古い時代ほど自衛が当たり前だったと云って良い。というのも、宗教勢力は世俗から離れた故に、世俗の権力による干渉を受けない代わりに、その保護も受けられなかった。それゆえ、他宗派や神仏を恐れない暴徒から身を守る為に自前の武力で自衛した。
 キリスト教におけるテンプル騎士団や十字軍はその代表で、イスラム教では現代でもムジャヒディン(イスラム聖戦士)が多くは自分達の国・地域を守るのに尽力し、極一部は異教徒・異端派の皆殺し・虐殺を辞さないテロリストと化している。
 中国拳法で有名な少林寺も自前の武力を研鑽し、世界的に有名な武術を生み出した。勿論日本の仏教も例外ではない。
 僧兵が生まれたのも、元々は自衛の為である。

 僧兵に限った話ではないが、国家であれ、宗教勢力であれ、地方自治体であれ、武装する者はその理由を必ず「自衛の為」とし、間違っても「侵略の為」とは云わない。実際、「自衛の為」という台詞を、薩摩守は、嘘だとは思わない(完全に適切とも思わないが、その理由は後述)。
 時代を下れば下る程、中央政権の末端に対する影響力は弱く、地方や政界とは距離を置いた各界(財界、宗教界)は自衛手段を必要としたことは想像に難くない。鎌倉時代末期に、所謂「悪党」が勃興したのもその典型であろう。
 だが、初めは自衛の為の武装も、その力が大きくなればなるほどそれを持て余し、権力の腐敗と共にその悪用が始まるのも世の常である。何せ、小難しい法律を云々したり、理で相手を納得せしめたりするよりも、武力を用いた方が(表面的には)手っ取り早く解決するとなると、掛かるやり方に依存する傾向が強まるのは誰にでも云えることである。圧倒的な力の差があれば、力をちらつかせるだけで自分に都合よく事が運ぶとなると尚更だろう。
 これは現代とて関係のない話ではない。テロリストや周辺国家の武力侵攻に対抗する為にも、薩摩守は自衛隊の存在意義を否定しないが、必要以上の力を持たせれば何時如何なる暴走を生むか分からない故、シビリアン・コントロール(文民統制)は厳しく行い、人類史的に制御出来ていない核武装などもっての外だと思っている。

 東大寺、興福寺、比叡山延暦寺、園城寺(三井寺)等の大寺院が僧兵を擁した訳だが、自前の武力を持つ大寺院は同時に広大な荘園をも持ち、土地や税を巡って自分達の意に沿わぬ政策に対して神輿を担ぎ、権威と武力でもって自らの要求を呑むよう訴えるようになった。所謂「強訴(ごうそ)」である。
 これが時の権力者達にとって如何に手を焼いたものであったかは枚挙に暇がない。

 藤原家から政権を奪い返し、北面の武士を擁し、「治天の君」と云われた程の辣腕を振るった白河法皇でさえ、「ままならぬもの、鴨川の水、賽の目、山法師」と宣っていた。
 つまり大権力者にして、大権威者であった法皇でも天災(=鴨川の水)と賭博の横行(=賽の目)と僧兵(=山法師)はどうにもならなかったと嘆いていたのである(←法皇も坊主の筈なのだが(苦笑))。
 結局、白河法皇は見下していた筈の武士=源義家や平忠盛に「昇殿」という名誉を餌に僧兵を蹴散らさせたのであった。恐らく法皇にしてみれば、「毒を以て毒を制す。」か、「夷を以て夷を征す。」と似たような感覚だったことだろう。

 だが神仏を権威とする寺院が出て攻撃してくるのを武力で蹴散らすのは容易だとしても、寺院の中に籠るのを攻撃する訳にはいかなかった。源平合戦から一時鳴りを潜めた僧兵による武装勢力も決して衰えた訳でもなければ、「法敵」と見做した者への好戦性は些かも衰えなかった。

 一例を挙げれば、鎌倉時代に日蓮宗を開いた日蓮は辻説法で多宗派を非難しまくり、その喧嘩腰に眉を顰める人は少なくないが、日蓮に「信じれば無間地獄に落ちる」とされた念仏宗徒の中には大挙していきなり日蓮を焼き討ちにしようとした者達がいた。
 真言宗徒の薩摩守は決して、(「真言亡国」と唱える)日蓮宗に好意的ではないが、あくまで舌戦・論戦に終止した日蓮に対して焼き殺しに掛からんとした念仏宗門徒の方が大いに非難されるべきだと思うし、そうはなっていないことに納得いかないものを感じている。
 推測だが、「法敵」と見做した者にはどんな残酷なことも許されると考えがちな傾向がこの時代にも少なからず存在したのだろう。

 そして時は流れ、室町時代に入ると、将軍家となった足利家は、家督争いを防ぐことと、宗教勢力を敵に回さない為に後継者以外の男子を仏門に入れ続けた。
 六代将軍足利義教、九代将軍義尚の父・義視、第十五代将軍義昭が(将軍職就任の予定ではなかった故に)元々は僧侶だったの有名だろう。
 また、義視は政治に倦んだ兄・義政から「養子(兼九代将軍)になってくれ。」と云われた際に、トラブルになることを案じて、「実子が生れたらどうする?」と問い、義政は「もし生まれてもすぐに僧にする。」と回答していた。
 周知の様にものの見事に反故にされ(苦笑)、義視の懸念は的中して応仁の乱が起きた訳だが、足利家庶子と出家の関係が良く分かる好例ではある。

 そして戦国時代。
 大寺院は良く云えば自衛の為、悪く云えば布教・勢力拡大の為、それまで以上に武備を拡充させた。自前の武装は勿論、諸国の浪人を傭兵として迎えもした。同時に諸国の一向一揆を裏で糸引き、その跳梁跋扈の前には徳川家康、上杉謙信、朝倉義景、そして織田信長ですら大いに手を焼いた。

 一向宗=浄土真宗の武装蜂起が大きな力を持ったのは加賀、石山、長島だろう。
 特に加賀一向一揆は守護の富樫政親を自害に追いやり、加賀を日本史上稀有な、「百姓の持ちたる国」たらしめ、その武威は朝倉義景が足利義昭を擁して上洛するのを断念させしめ、戦国最強の一人・上杉謙信すら苦戦を余儀なくされた。
 そして長島の願証寺を中心とする勢力は木曽川のデルタ地帯という天然の要害において尾張と伊勢の間に撃ち込まれた楔となって織田信長を悩ませ、信長は弟の信興を自害に追いやられた。

 勿論、長島一向勢力の背後には顕如上人率いる石山本願寺があった。顕如は「信長に反抗しない門徒は破門する。」として全国の一向宗門徒に対信長抗戦を呼び掛けた。
 同時に比叡山延暦寺は近場の浅井長政に味方し、浅井・朝倉・延暦寺の連携が信長と対峙した。
 かくして信長は、長島、石山、足利義昭、浅井、延暦寺、朝倉、武田による信長包囲網に押し込められた。結果的にこれらの勢力はごく一部の例外を除いて信長に滅ぼされた。勿論それは容易な道ではなく、義昭によって為されたこの包囲網が盤石であれば信長の命はなかっただろうし、武田信玄を初め、一勢力だけでも充分な難敵揃いだった。
 殊に石山本願寺・比叡山延暦寺が難敵だったのは、武力・財力・団結力が強かっただけではなく、家中にも仏罰を恐れる者が少なくなかったことにもあった(三河一向一揆の前に徳川家中の多くが一時的に家康から離れたのは有名)。

 実際、比叡山攻めには明智光秀や佐久間信盛からも反対の声があった。だが、信長大鉈を振るうことを強行した。



武装解除 仏教徒である薩摩守だが、織田信長が仏教勢力と戦ったことを非としてはいない。
 当時の仏教勢力は一大名にも匹敵する武装勢力で、その武力を決して自衛の為だけに用いていなかった。戦時には挑発やお布施の名の元に強請りまがいのことまでやっていたし、酒を飲み、遊女を囲い、武と財と権力の中で腐り切った者も少なくなかった。何?酒好き、肉食好き、度助平の薩摩守が云うなって?…………か、返せない………。

 コホン……織田信長が行った数々の蛮行の代表のように云われる比叡山焼き討ちだが、信長が最初に行ったものでもなければ(ちなみに最初にやったのは足利義教)、当の比叡山自身、他山を焼き討ちした歴史を持つ

 前述の明智光秀や佐久間信盛にしたところで、真面目な学僧迄巻き添えにした徹底殲滅に反対しただけで、比叡山と事を構えること自体を反対した訳ではなかった。
 だが信長は許さなかった。

 事の始まりは信長が比叡山領を横領したことにあり、永禄一二(1569)年、天台座主応胤法親王が朝廷に働きかけた結果、朝廷は寺領回復を求める綸旨を下した。
 しかし信長はこれに従わなかった。とはいえ、近江にて浅井長政・朝倉義景と事を構え、苦戦中の信長は正親町天皇の調停により和睦という手法を取った。

 だが、対浅井戦は続き、浅井軍には朝倉のみならず、六角義賢(近江南部・甲賀)、三好三人衆(摂津・河内)が合力し、石山本願寺の顕如も摂津・河内・近江・伊勢・尾張の門徒衆にも号令を発していた。
 これに対して信長は、元亀二(1571)年一月二日に、木下藤吉郎秀吉に大坂から越前に通じる海路、陸路を封鎖させ、石山本願寺と浅井・朝倉連合軍、六角義賢との連絡を遮断した。その際に信長は不審者をすべて殺害するよう命じたとされている。

 その後、佐和山城を落とし、長島一向一揆にも一撃を与えた信長は同年八月に浅井長政の居城・小谷城を攻めるに至り、翌九月には周辺諸城も次々と落城せしめた。
 そして同年九月一一日、坂本、三井寺周辺に進軍し、三井寺山内の山岡景猶の屋敷に本陣を置いた信長は、翌一二日に比叡山総攻撃を命じた。

 比叡山は北陸路と東国路の交差点になっており、山上には数多い坊舎があって、数万の兵を擁することが可能で、戦略的にも重要な拠点となっていた。更に当時の比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕法親王であった。
 数万の兵を擁し、要害の地に立て籠もり、朝廷や信長と敵対する勢力との結び付きも強い比叡山は、信長にとって何としてもその勢力を削いでおかねばならない存在だったのは疑いない。

 信長は逃亡者を懸念する池田恒興の進言を容れ、一一日夜中には三万の兵でもって比叡山を包囲し、早朝には攻撃を開始した。
 この動きに対して比叡山では初めは金銭でもって攻撃中止を嘆願せんとしたが、信長は容れず、戦いは避けられないと考え、坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵、その妻子も山中に逃げ込んでいた。

 かくして始まった織田軍による攻撃は焼き討ちだった。
 坂本、堅田の放火に始まり、焼き出された者達は身分、老若男女問わず次々と捕えられたり、斬られたりした。
 犠牲者は『信長公記』には数千人と、ルイス・フロイスの書簡には一五〇〇人と、山科言継の『言継卿記』には三〇〇〇〜四〇〇〇人と記されている。

 延暦寺サイドでは正覚院豪盛等が猛火の中、辛うじて難を逃れ、甲斐の武田信玄を頼った。信玄は信長比叡山焼き討ちを非難し、比叡山再興を上洛における大義名分の一つとした。
 そして比叡山を焼き払った信長は翌朝には上洛の途に着き、明智光秀、佐久間信盛、中川重正、柴田勝家、丹羽長秀等に現地での戦後処理を任せ、寺院領は彼等に配分された。
 中でも焼き討ちに反対した筈の光秀は、皮肉にも戦中の功績を高く評価され、近江坂本城主となり、信長配下で最初の城持ち大名となった。

 主や数々の寺院を失った比叡山はすっかり力を落とし、天正七(1579)年に正親町天皇が百八社再興の綸旨を出すも、信長によって綸旨が押さえられ、その動きは止められてしまった。
 結局、生き残った僧侶達が比叡山に戻れたのは本能寺の変山崎の戦い信長と光秀が相次いで倒れるのを待たなければならなかったし、その後の天下を握った羽柴秀吉も山門復興を許さなかった。
 ただ、賢珍・詮舜という兄弟僧侶が秀吉に気に入られ、秀吉から陣営の出入りを許され、軍政や政務について相談に応じたことにより徐々に秀吉の心を噛むに至り、終に天正一二(1584)年五月一日、「僧兵を置かないこと。」を条件に正覚院豪盛と徳雲軒全宗に対して山門再興判物が発せられ、造営費用として青銅一万貫が寄進された。
 実に焼き討ちから一三年後のことであった。



後世への影響 事の是非は置くとして、織田信長が一向宗に対してその勢力を徹底的に削いだことの影響はとてつもなく大きい。

 前述したが、比叡山は何も織田信長とだけ争った訳ではない。僧兵が生まれた頃には比叡山も強力な僧兵隊を擁し、強訴を繰り返し、白河法皇を初めとする院政の実力者すら手を焼いた。
 源平合戦に前後して、数多くの僧兵による戦闘が歴史の随所に散見されている。

 僧兵は悪僧とも呼ばれ、神仏を大義名分としているだけに戦場での傍若無人振りは下手な悪党、傭兵顔負けで、とても御仏に仕える者のすることとは思えなかった。
 それもこれも「法敵には何をしても良い。」という思い込みに起因するものだろう。世界史を少し齧っただけでも十字軍が聖地奪還の大義名分の下で戦地に低下に残虐なことを行って来たかは容易に垣間見れるし、イスラム国(ISIS)やタリバーンといったイスラム過激派によるテロは悪魔の所業にしか見えない。彼奴等を庇う気は更々ないが、そんな彼奴等も恐らく自分達と同じ価値観のコミュニティーの中では「普通の人」なのだろう。
 そこに宗教、特に狂信・盲信の持つ恐ろしさがある

 とはいえ、(信仰しているかどうかは別にしても)宗教と完全に無縁の人間もそうそう存在し得ない。個人として無神論者でも、自らが統べる配下や領民の多くは何らかの宗教を信仰しているのである。
 秀吉が「僧兵を置かない」ことを条件に比叡山再興を許可したのも、「力さえ持たさなければ、権威ある宗教は残しておいた方がいい。」との計算もあったことだろう。

 これら一連の流れを見ると、後々刀狩り寺社諸法度の制定をもって宗教勢力の武装を禁じた豊臣秀吉・徳川家康と云った天下人も、織田信長が悪名を背負ってまで大鉈を振るった宗教勢力武装解除の素地を踏襲し、その恩恵に預かっていると云える
 些か皮肉ではあるが、信長嫌いの薩摩守も、信長の大鉈が戦国自体の急速な終息を促し、同時に宗教勢力を非武装勢力ならしめる嚆矢となったことは彼の歴史的功績として認めなくてはならないと思っている。

 信長との戦いで落命した僧侶達も、後々の仏教が武器で人の血を流すことが亡くなったことで多くの命が失われることが亡くなったことに少しは浮かばれると思いたいところではある。



キーパーソン概略
織田信長‥‥……超有名人物に付き、概略すら大幅に省略(笑)。この頁では一向宗との戦いをメインに信長の在り様と歴史的影響を述べていますが、捕捉しますと、信長と宗教の関係は決して単純ではありません。
 信長は、自分を諫めて切腹した平手政秀の供養に寺(政秀寺)を建立し、桶狭間の戦い前に熱田神宮に詣で(←戦勝後に御礼も行っている)、キリスト教の教義に干渉せず布教を許し、安土城にて浄土宗と法華宗の討論を開催して、両派の醜い争いを鎮め(安土宗論)、最後は寺である本能寺(←決して防備に優れた造りではない)にて波乱の生涯を閉じた様に、敵対的宗教勢力殲滅しても、宗教自体を弾圧した訳ではなく、保護や交流を持った例も数多くあります(教義や個人的な信仰に干渉した例は皆無と云って良い)。

 ただ、熱田神宮詣でには、「一大決戦に真剣に集まる者を見極めるのに利用した。」、キリスト教容認には、「交易や西洋の技術を取り入れるのに利用する下心があった。」、本能寺との交流には「鉄砲伝来の地・種子島家が菩提寺にしていたので、鉄砲・火薬輸入のコネクションに利用した。」との見方もありますが、それが真実だったとしても、それを非とは思いません。

 親しい付き合いが、「金の切れ目が縁の切れ目」的に崩れるのは良くないことだが、互いの利益が伴うのは悪い話ではない。逆に利害の一致する関係が続く中で相互理解が深まった結果、真の友情が築かれることもあるだろう。
 まして信長程の男、親しい仲から互いの利が生れることを図ったり、相互利益を生める関係だからこそ友情を深めたりするのは普通に行うことだろう。

 それゆえ、改めて申しますが、織田信長と宗教勢力の関係は単純ではない。


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令和三(2021)年五月一二日 最終更新