局面伍 刀狩……兵農分離と宗教勢力の武装解除

出来事刀狩(かたながり)
内容関白豊臣秀吉による農民・寺社からの刀剣類没収
年代天正一六(1588)年八月二九日
キーパーソン豊臣秀吉
影響武士以外の武装解除
前史 権力者とは己が権勢を下から脅かされることに神経を尖らせるものである。  つまり反抗されたくない訳で、余りにも有名な豊臣秀吉刀狩以前にも民衆の武装を禁じた権力者は古今東西枚挙に暇なく存在した。
 極端な例を挙げれば、ブラジルを植民地にしたポルトガル人は、ブラジル人に伝統格闘技カポエラを禁じた程である。つまり、素手による武力抵抗すら恐れたのである。

 別段、国家に限らず、高い地位にあるのを下位の者に覆されるのは誰だって面白い筈がない。それゆえ、上に対しても下に対しても力など持ってくれないのが望ましい。
 そこを行くと忠誠以前の日本社会では、皮肉にも平安貴族が軍事・警察を高位な者程放棄したために、下位の者程、中央から遠い者程、自衛の為の武力・武装を必要とした。
 そもそも武士の始まりは武装農民で、それは諍いの多くが土地争いに在ったからに他ならない(「一生懸命」の語源が武士の「一所懸命」なのは有名ですよね)。

 そして武家政権も鎌倉幕府が元寇後に御家人の土地に関する要望に応じられなかったことで権威・統治力を失墜させ、各地に悪党の蔓延を許した。続く室町幕府も創成期に力となってくれた有力大名の統制が出来ず、棟梁としての責任を放棄する将軍まで出て来たことで、中央における権力闘争(←応仁の乱のこと)を皮切りに各地における武力闘争や下剋上に歯止めがかからず戦国時代が幕を開けた。

 だが戦国時代も終盤になると織田信長が専業武士・傭兵集団を活用したことで、農繁期の出陣も可能となり、鉄砲を活用とすることで大きく軍事力を延ばした(当初は守るべき土地を持たない専業武士よりも、守るべき土地を持つ武装農民の方が強かった)。
 やがて信長の勢力が拡大すると、占領地の国人衆(地侍・半農半兵)は牙を抜いておきたい存在でしかなかった。まして信長は石山本願寺、比叡山延暦寺、長島一向衆といった宗教勢力及び、それ等に後押しされた民衆の反抗にも手を焼いた。

 勿論、このことは信長に限った話ではない。ただ、戦乱の時代に在っては、如何なる勢力でも利用出来る武力集団は何とか懐柔して、我が力に加えたいところを、平和が訪れればそれ等の武力は段々治安や己が権力安定にとっての障害でしかなくなる。
 北条家を滅ぼして天下を統一したとき、信長の苦闘を見て来た豊臣秀吉が武士以外の武装を解除しようとしたのは当然の成り行きと云えた。



武装解除 表題にもあるし、豊臣秀吉が施行した政治として、検地と並んで有名な刀狩が、そのものずばりの武装解除である。
 北条家を降し、天下統一を成し遂げる二年前の天正一六(1588)年八月二九日に、既に秀吉は関白の名で刀狩令を発していた。その三年前に関白に就任していた秀吉は関白の権限で惣無事令と云う私闘を禁じる法令を出し、これをたてに地方の諸大名を懐柔したり、臣従せしめたりし、討伐する際には、この法令違反を罰する形を取った。
 それゆえ秀吉惣無事令刀狩令の他にも海上賊船停止令喧嘩停止令といった法令も出している。

 そして関白就任の五年後に、日本全国から大名による武力抵抗を一掃した秀吉は内政と治安に努め、民衆・僧侶からの武器没収=刀狩を行った。
 武器だって立派な財産で、これらを(同時に武装蜂起手段を)奪われるのは誰しもが面白くなかっただろうけれど、戦争がなくなり、専門職の武士すら勝手な闘争を禁じられた以上、民衆が自衛の為に武器を持つ理由は無い。

 秀吉は、

一、百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の云う事を聞かない者は罰する。

一、取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、かすがいにする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。

一、百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。

 との云い分で武器を没収した。
 当初、この法令対象は九州、畿内の地侍(半農半兵)、主要寺社に限られていた。
 だが、北条討伐後における奥州仕置にて、石田三成あて朱印状によるとその後全国に波及し続けたことが分る。

 ただ、刀狩の目的は一揆の防止で、その為に基本、没収対象は名前の通り「刀」だった。その他の槍、弓矢、害獣駆除の為の鉄砲や祭祀に用いる武具などは所持を許可され、完全な武装解除には程遠かった。
 財産であり、いざというときの抵抗手段である武装を没収されることを厭う者が多いのは容易に想像の付くことで、実際に没収に応じる際も、一人当たり大小一腰を差し出せばそれで終わり、正式な許可を得れば再所持も決して不可能ではなかった。


後世への影響 日本史において、一般に「刀狩」と云えば、豊臣秀吉によるそれを指す。だが広義における武装解除としての刀狩なら、鎌倉時代には北条泰時が高野山の僧侶に対して帯刀を禁じる命令を出している。
 北条時頼も一般ピープルの武装を禁じたし、半農半兵の地侍を率いる戦国大名も必要に応じて武装解除を命じたりした。
 そして北陸方面の攻略司令官の任を織田信長より賜り、越前一向一揆に苦戦した柴田勝家は一揆勢を降す度に武装解除を行ったと云う。
 だが、それ等の多くは特定の地域や組織を対象としたもので、全国的な施策として大々的に実施し、完全な兵農分離を為したという意味では秀吉の右に出る者はいないだろう。

 確かに、前述した様に、秀吉刀狩は不徹底なものだった。  理由を付けて没収を逃れたり、没収される前に隠匿したり、没収後に再度所有したり、といったケースは普通に有り得ただろう。  ただ、統治手段とはいえ、抵抗勢力押さえつけのためとはいえ、この刀狩を初めとする秀吉の政策は、日本が戦国時代に逆戻りするのを止め、武家政権による二百数十年に及ぶ平和確立の礎になった、と薩摩守は見ている。

 確かに天下統一後も、朝鮮出兵が強行され、秀吉死後には関ヶ原の戦い大坂の陣と云った武力闘争が起き、江戸時代においても島原の乱百姓一揆と云った武装蜂起は続発し、日本社会は完全に武力闘争と無縁になれた訳ではなかった、
 しかし、この刀狩から、建前だけでも「武士しか刀を持たない。」、「農民に武器は不要。」との概念が確立したことで、後々の騒乱は被害規模が軽減されたと薩摩守は見ている。
 次頁以降でも触れるが、秀吉以後も時の権力は民衆の武装を没収し、その武力を抑圧する道を踏襲した。勿論それ自体は権力者が配下に反抗されないようにする意味では自然な成り行きである。
 しかし、いつの時代でも自衛を理由とした限定的な武装は認められるし、必要に駆られればそこいらにある農具や工具や棒状の物を駆使してでも人は武装する。極端な話、いきなり暴漢や猛獣に襲われれば武装も非武装も無いのである。
 ただそれでも、「武装するのが当たり前」の概念と、「本来武装は必要ない」の概念のどちらが通常概念となっているかの差は大きく、天下統一を機会にそれに先鞭を付けた豊臣秀吉の後世に残した影響は多大であると薩摩守は見る次第である。



キーパーソン概略
豊臣秀吉………超有名人物に付き、省略(笑)。


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令和三(2021)年五月一二日 最終更新