局面陸 元和厭武……各種諸法度による身分厳格化と武装監視強化

出来事元和偃武(げんなえんぶ)
内容江戸幕府の大坂の陣後処置に伴う戦国時代の完全終息と大名弱体化
年代元和元(1615)年月七月一四日
キーパーソン徳川家康、徳川秀忠
影響法整備による大名家弱体化と武士以外の武装解除
前史 応仁の乱に端を発した戦国時代(←異論のある方も多いと思いますが)は大坂夏の陣の終結をもって完全に終息した。
 既に大坂夏の陣の二五年前に、豊臣秀吉によって天下が統一されたことで混迷極まりない群雄割拠の時代は終わっていたが、秀吉一代で築き上げた政権は秀吉死後の混乱で崩れ、徳川家康関ヶ原の戦いに勝利したことで徳川の世はほぼ内定していた。

 しかしながら、弱小大名の家に生まれ、隠忍自重を強いられ、戦乱の中で嫡男と正室を失い、その他数々の苦難を経て、豊臣政権下における大大名の地位を巧みに利用して天下人となったゆえ、家康は今川家、武田家、織田家、北条家と云った自らと縁の深かった、遥かに格上だった大名家が次々と滅亡したり、見る影もないほど弱体化したりしたのを嫌という程見ていた。
 まして、自身、主筋に当たる豊臣家から政権と領土を奪った身で、諸大名の中には面白からぬ感情を抱く者(例:秀吉子飼い出身の大名)、隙あらば徳川に取って代わろうと目論む者(例:かつて同格だった前田、島津、上杉、毛利、伊達の諸氏)もわんさかと存在したであろうことは誰の目にも明らかだった。

 それゆえ、関ヶ原の戦いに勝利し、その二年後に征夷大将軍に任ぜられて江戸に幕府を開府していく過程において、家康は徳川政権の盤石化に腐心した。
 勿論、諸大名が幕府に刃向かうのを防げればそれでいいのだが、「云うは易し。」である。一応、征夷大将軍に就任し、武家の棟梁となることで諸大名家に指図出来る大権は得たが、一世紀に及ぶ戦乱の時代を生き抜いて来た諸大名はそんな甘い存在ではない。ただ厳しく統制するだけでは反発する者、それに同調する者も現れかねない。
 それゆえ関ヶ原の戦い後の論功行賞では数多くの大名を改易し、西軍大大名を大減封し、一方で東軍諸将を厚く賞する中、豊臣恩顧の大大名を大幅加増し、譜代家臣はそれほどの大身には封じなかった。
 しかし、厚く報じた豊臣恩顧の大大名の多くは中国(福島正則、池田輝政)、四国(山内一豊、加藤嘉明)、九州(黒田長政、加藤清正、細川忠興)といった、江戸より遠い地に配置し、その中間となる要衝の地に一門や譜代を報じた。

 だが、火種は残った。
 諸大名に領土を宛がうことを理由に大幅に領土を削減したとはいえ、豊臣秀頼は六五万石の大大名で、秀吉への恩義からいざというときには秀頼の為に戦おうと云う者も(最初は)少なくなった。
 関ヶ原の戦いの前に兜を脱ぐことで屈服した前田利長は、それが為にかえって力を削げず、前田家は一〇〇万石の筆頭大名としてその力を残した。更に遠隔地にあって、精強な残存兵力を残した島津家は本領安堵せざるを得ず、前田家と島津家の助命嘆願を受けたが為に、関ヶ原の六年後に捕まった宇喜多秀家を江戸幕府は死刑にすることが出来なかった。

 勿論、武家の棟梁たる地位と権利を得たことは大きく、当初は豊臣家に気遣っていた大名家も、次第に徳川への随身を優先するようになり、結果的に大坂の陣においては大名として豊臣家に加担した者は一人もいなかった。
 その間にも幕府は諸大名に幕命で城普請を命じ、数々の工事や参勤交代を命ずることでその財力を削ぎ、徐々に徐々にその牙を抜いたり、鈍化させたりして行った。

 だが、それでも最終決戦となる大坂の陣勃発は防げなかった。残った火種は豊臣家と大坂城とその財力と、諸国に溢れた浪人達だった。
 日本史上屈指の黄金好きとも云える豊臣秀吉が蓄えた金銀は諸説あるが、十数万人もの浪人を数年食わせて有り余る軍資金に相当したらしい(そこまでは無かったとの説もある)。何より、関ヶ原の戦いで一〇〇近い大名家が改易されたことで巷間には浪人が溢れ、生活の為に仕官の口を求める彼等にとって、「元は徳川家の主筋に当たった豊臣家」という看板と、難攻不落の居城・大坂城は浪人達にとって返り咲きを狙うのに都合の良い材料だった。何せ、「有利な徳川方よりも、不利な豊臣方に入った方が活躍が目立つ!」として、嬉々として入城した塙団右衛門の様な奴もいたのだから(笑)。

 豊臣家中も馬鹿だった訳ではなく、既に大きな力を持った徳川家に豊臣家は抗し得ないと見て戦を避けようとする者も少なくは無かった。
 だが、過程はどうあれ大坂の陣を最後の返り咲きの機会と狙う浪人衆は豊臣方の首脳陣が戦いを望まなかったとしても抑えようがなかったらしく、家康秀忠もその真意は詳らかではないが、最終的に大名家としての豊臣家は完全に叩き潰すつもりでいた。
 奇しくも徳川家康は豊臣家滅亡から一年を経ずしてこの世を去っている。既に馬にも乗れなくなっていたらしく、「人生五〇年」と云われた時代、いつ自分の死が訪れるやもしれない状況下で、自分の寿命がある内に豊臣家という最後の抵抗勢力を潰しておきたかったのだろう。

 そして慶長二〇(1615)年五月八日、豊臣秀頼、淀殿、大野治長以下近臣達が自害し、豊臣家は滅亡した。
 目の上の瘤を落とした家康秀忠は平和と徳川政権を盤石ならしむるために政治的強権を振るいに走った。



武装解除 第二、第三の豊臣家を出さない為に江戸幕府が大名の武力を殺ぎに掛かった代表的な施策は一国一城令武家諸法度の制定であろう。
 前者は名前の通り、大名家の持つ城は居城一城のみとし、諸大名が軍事拠点を持つことを防いだ。同時に後者において城郭の勝手な増築を禁じ、老朽化に伴う改築にも幕府の許可を必要とさせた。

 余談だが、武家諸法度違反による改易第一号となった福島正則は、広島城の無断改築を咎められてのものだった。正則は事前に老中・本多正純に申し出ていたのだが、正純はそれを無かったとして福島家取り潰しを断行したのだから、正則は潰されるべくして潰されたとしか云い様がない(過去作でも触れているが、厳密には正則は改易されたのではなく、川中島四万五〇〇〇石に大減封されたのみで、正式な改易はその次代の事である)。

 武家諸法度は他にも罪人を匿うことを禁じ、大名の正室・嫡男を人質として江戸に留めおくことを命じ、大名同士の勝手な婚姻を禁じてその連携を封じた。
 武家諸法度はその後も改訂・追加を繰り返し、後々多くの大名家がこれに反したとして改易の憂き目に遭った。特に二代将軍・徳川秀忠による改易攻勢は家康のそれをも上回り、諸大名は恐怖した。

 掛かる施策をもって、諸大名の武力を殺ぎ、叛意を抑え込んだ家康秀忠だったが、勿論油断ならないのは武家だけではなかった。
 朝廷に対しては禁中並公家諸法度を、寺社に対しては寺院諸法度(←そういう名前の法度があるのではなく、様々な大寺院に対して制定された法度を総称して呼んだもの)を制定して、前者は学問に向かわしめ、後者は本来の仏道修行に向かわしめ、前者が勅命や摂関家の名分で諸大名を裏で糸引くのを、後者が強訴や一揆を煽動する僧兵集団となるのを防ぎに掛かった。

 かくして、大坂夏の陣後のこれらの諸政策による戦乱の終息・安定は、大坂夏の陣から二ヶ月後の慶長二〇(1615)年月七月一三日に「元和」と改元されたこと、中国の『書経』にある「王来自商、至于豊。乃偃武修文(王 商自り来たり、豊に至る。乃ち武を偃(ふ)せて文を修む)。」の文とを併せて、「元和厭武」と称され、戦国時代の完全な終了を意味すると見られるようになった。



後世への影響 幕府とは云うまでもなく武家政権である。その構成員は上から下まで武器を持つ軍人である。その何が厄介かというと、その枠から外れた者達(改易・減封による浪人)が武器を持ち続けたことである。

 江戸幕府を開き、大坂夏の陣の勝利で徳川の世を確固たるものにした徳川家康に対し、その後を継いだ徳川秀忠は、到底父に及ばないと自認し、二代目に徹した。
 臨終が迫った時、家康秀忠に、「儂が死んだら世の中はどうなると思う?」と尋ね、それに対して秀忠「乱れると思います。」と答えた。
 秀忠の回答に対して、家康は「それを聞けば安心して死ねる。」と呟いた。同時に家康は譜代大名には秀忠に敵対する者が現れたら即座に討て。」と命じ、見舞いに来た外様大名には秀忠が将軍の器にあらざればそちが天下を取れ。」と告げたと云う。
 恐らくは、自分の死後に秀吉死後と同じ展開を辿るなら早目の方が良いと見ていたのだろう。

 そして元和二(1616)年四月一七日、徳川家康は世を去り、後を継いだ秀忠(勿論将軍位はとっくに継いでいたが、例によって実権は家康に掌握されていた(苦笑))は家康の固めた幕藩体制を更に固めることに徹した。
 前述した様に諸大名を次々に改易した。また、自らの世継ぎ制定に当たっても、当初は病弱な家光よりも、闊達に育っていた次男・忠長をと考えないでもなかったが、いざ家光を三代目と決めると、忠長には兄に対する僅かな無礼も許さなかった。

 話は逸れるが、中国において、隋の二代目煬帝は暴政で国を滅ぼし、続く唐の二代目太宗(李世民)は唐朝の支配を盤石なものとし、一般に「太宗」と云えば「唐の太宗」を指すぐらい、優秀な二代目の代表選手となり、同じ二代目にして時代の近い煬帝とは対照的な存在となった(勿論、隋を滅ぼして成立した唐の立場を差っ引いて見る必要はあるが)。
 それだけ、「守成」は「創設」以上に難しく、二代目の存在は重要で、二代目次第で国は滅びもするし、安定もする。滅亡せずとも二代目の時代に国が傾きかけた例(秦・蜀・晋・趙・明・李氏朝鮮)も多い。そこをいくと、自らを唐の太宗ならんとした徳川秀忠の守成振りは、事の是非を別にして、見事とすら云える。
 家康と家光の間で影の薄く見られがちな秀忠だが、六代将軍となった徳川家宣は歴代将軍の中で秀忠を最も尊敬していたと云う。叔父である綱吉の後を継いだとはいえ、当初は叔父やその母(桂昌院)から疎まれ、将軍就任に前後して子供達に次々と夭逝されていた家宣は守成の大切さを秀忠に学んでいたのかも知れない。

 結論、徳川秀忠はその影の薄さに反して、イメージ以上の辣腕家にして、自らを知ることの大切さと、そんな人物が発揮する能力の恐ろしさを教えてくれる人物と云えよう。



キーパーソン概略
徳川家康………超有名人物に付き、省略(笑)。


徳川秀忠………徳川幕府二代将軍。家康の三男として浜松に生まれ、二人の兄の夭折・養子行きから成り行き的に家康後継者となった。

 初陣となる関ヶ原の戦いに、真田勢の抵抗で遅参したことから、武将としては凡将と見られたり、後継者としての資質を危ぶまれたりしたが、榊原康政・大久保忠隣等の補佐を受け、徳川家の政権世襲を世に示す意味でも、幕府開府から僅か二年で第二代目征夷大将軍に就任し、以後終生江戸に住んだ。

 武将としての失態に加え、恐妻家で、大人しめの人物と見られたことが多いが、控え目で律儀な性格はそれなりに一目を置かれ、平和到来に伴う守成期には武に優れた兄弟達よりも将軍に相応しい人物と見られた。
 しかしながら、家康の二代目に徹する一方で、家康以上に厳しい大名統制を行い、末娘を朝廷に嫁がせて皇位に対する発言力を得るなど、一筋縄ではいかない人物でもあった。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新