局面漆 島原の乱……乱後のキリシタン取り締まりと武器没収

出来事島原の乱(しまばらのらん)
内容島原・天草地方の領民による反圧政・反キリシタン弾圧に抵抗した動乱
年代寛永一四(1637)年一〇月二五日〜寛永一五(1638)二月二八日
キーパーソン徳川家光、松平信綱
影響キリスト教弾圧と浪人対策の見直し推進
前史 「織田がつき 羽柴が捏ねし天下餅 座りしままに食うは徳川」という有名な狂歌がある。織田信長の過剰ともいえる武力行使によって戦国の世は急速に終息に向かい、それを継いだ羽柴=豊臣秀吉が天下を統一した。そしてその偉業達成による旨味を最終的に味わい、天下(餅=持ち)を我が物としたのが徳川家康という訳である。

 確かに戦国の世はこの狂歌の様な展開を経て終結した。勿論だからと云って武器によって人の命が失われることが無くなった訳ではないが、それを云い出せばキリは無い。少なくとも戦国の世を天下泰平に導いた三英傑の歴史的功績を否定する者はいないだろう(好き嫌いは別として)。

 そして最終的に天下を我が物とした徳川家康とその後継者徳川秀忠は天下泰平の維持に尽力した。治を乱に向かわしめない為に有効なのは、乱の元となる存在の牙を抜くことである。
 それゆえ、前頁にて触れたように、家康と秀忠は数々の法度をもって元和偃武を為し、少なくとも大名・朝廷・寺社といった勢力はその後二百数十年に渡って組織だった騒乱を起こすことは無かった(←幕末の倒幕運動に端を発する騒乱は除いています)。
 江戸幕府第三代将軍に就任した徳川家光は最初の挨拶で諸大名に対し、自らを「生まれながらの将軍」として、これに不服のある者はすぐに国元に帰って戦準備をするよう告げた。それに対して諸大名は畏れ入って平伏した。

 かかる過程を経て、かつては同格だった諸大名の反逆意識を完全に断ち切った江戸幕府にとって、乱を乱すものと云えば、諸国にあぶれた浪人達と、弾圧されて尚、隠然たる勢力を持ちかねなかったキリシタン達だった。
 実際、元和偃武直前の、最後の大戦争となった大坂の陣における豊臣軍の構成員となっていたのは、徳川の治世下に暮らしにくい浪人達や、キリシタン達だった。しかも大御所・徳川秀忠による大名統制によって数多くの大名家が改易され、大名達の牙は折られたが、それによって巷には大量の浪人が溢れていた。

 そして大御所・秀忠の死後、浪人衆とキリシタンが幕府への反逆の烽火を上げたのが(と云い切るにはいささか語弊もあるが)、島原の乱だった。
 この事件の詳細自体は過去作「凄絶!島原の乱」をご参考頂きたい。直接的な原因は領主・松倉勝家による苛政(苛烈な年貢取り立てとキリシタン弾圧、それに伴う残酷な刑罰)に反発したもので、島原・天草の領民達に幕政にて取り潰されたキリシタン浪人達が合流し、原城に立て籠もった。
 一揆勢は討伐の司令官だった板倉重昌をも討ち取り、これに危機感を覚えた将軍家光は自らの側近で、「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守信綱を現地に派遣した(厳密には一揆勢の手強さに家光信綱を派し、これに危機感を覚えてゴリ押し攻めを行ったことで重昌は戦死した)。

 信綱は兵糧攻め作戦を取り、食料や弾薬が尽きた四ヶ月後に原城総攻撃が行われ、一揆勢は殲滅された。殉教による来世での降伏を信じた一揆勢に「降伏」の二文字は無く、それゆえに最終戦闘は一人残さず殺戮する殲滅戦となってしまった。
 余りに凄惨な戦いとなってしまった事を受けて、乱後、幕府ではかかる反乱の再発を防止する為に数々の手を打つこととなった。そしてそれは上にも下にも厳しいものとなった。


武装解除 島原の乱は江戸時代の約二六〇年を通じても最大の国内反乱だった。  それゆえ、かかる乱を再発せしめないことは乱鎮圧以上に重要だった。徳川家光ならずともその必要性は大いに感じるところだろうし、各方面に打てる手を打った。

 まず上、つまり大名に対してだが、領民の反乱を招いた島原領主・松倉勝家は打ち首となった。勿論島原藩は改易である。
 武士の処刑は通常切腹で、これを認められずに打ち首となるのは相当恥ずべき事であった。実際、江戸時代を通じて処刑された大名の中で切腹を許されずに打ち首となったのは松倉勝家唯一人である。

 また外に対しては一年半の詮議を経て、ポルトガルとの国交が断絶された。江戸幕府の国是のように云われる鎖国政策だが、始祖徳川家康を初め、本来交易は大いに望むところだった。
 偏にキリスト教への禁教が交易以上に重んじられたため、貿易は清・朝鮮、そしてキリスト教国に在っては布教に熱心ではないと見られたオランダのみが長崎出島限定で認められた。
 江戸自体初期を見れば、上記の国以外にも東南アジア各国、イギリス、ポルトガル等が盛んに交易を行っていた。特に鉄砲伝来以来の付き合いとなるポルトガルと縁を切るのは断腸の想いだったことだろう。
 戦国末期以来、キリスト教の伝播が時に権力にどう危険視されてきたかの詳細は割愛するが、東南アジアを初めとする諸国が欧州列強の植民地化していくことと、その前に宣教師が訪れていたことに時の権力は着目した。
 要はキリスト教布教活動を侵略の尖兵と見做した訳だが、南蛮人・紅毛人の来日は鉄砲(及び火薬原料)の伝来とも密接だったので、南蛮・紅毛と如何にして付き合うかは重要且つ頭の痛い問題だったことだろう。

 島原の乱に際しても、原城に立て籠もる一揆勢に対して一時幕府軍はオランダ船から大砲による砲撃を行ったことがあった。この攻撃は国内反乱に対して外国の能力を借りることに幕内でも問題とする声が上がってすぐに中止されたが、交易を重視するなら軍事政権である江戸幕府はまだまだ海外の最新鋭武器を入手したいことだっただろう。
 何せ当時の欧州は南蛮(旧教派)と紅毛(新教派)がキリスト教の教義を巡って対立・抗争を繰り返しており、輸入・輸出のいずれにおいても武器市場として食指動かされる存在だった筈である。
 だが、それでも幕府は交易による利益よりも、キリシタン勢力拡大への懸念の方を重視し、海外との交流は鎖国が幕府の祖法と思い込まれる程の限定されたものとなった。
 ただ、これは穿った物の見方をすれば、大反乱を鎮圧することに成功した幕府が以後において最新鋭武力を求める必要性を感じなくなったとも取れる。

 そして下に対してだが、幕府は一般ピープルに対しては必ず寺社の門下に入ることを義務付け(前々頁・前頁で触れた経過を経て、この時点での寺社勢力は既に武力を失くしていた)、巷に溢れる浪人達に対しては締め付けを強化した。
 島原の乱における一揆軍の構成員にキリシタンと浪人者が多かった故であろう。それでなくても浪人達は自分達が失業軍人となった幕府の政策(←戦争を含む)を怨み、武器と武術を保持しており、生活への困窮から犯罪に手を染める者も続出していた。

 浪人問題は社会問題と云っても良かった。だからといって浪人から武器を取り上げる訳にも行かない。生活苦から武器を手放してくれるのは権力者サイドとしては歓迎したいところだが、軍事政権である幕府が軍人=武士のアイデンティティを否定しては本末転倒だったことだろう。

 となると幕府に採れる策は、浪人や農民達を新たな武装に近づけないことで、島原の乱そのものはれっきとした内戦ながら、乱を巡る背景への考察及び乱後の処置は多くの人々を武器・武装・武力と距離を取らせる嚆矢となった。勿論兵農分離に始まる武器没収も強化された。



後世への影響 些か飛躍的な物の見方になるが、以後の江戸幕藩体制における騒乱を矮小化せしめたと薩摩守は見ている。

 徳川家光が逝去した直後の慶安四(1651)年、後継者の家綱が幼くして第四代征夷大将軍となったのを好機と見たかのように、由比正雪を首魁とした幕府転覆計画が練られた。所謂、慶安の変で、もし計画が実行に移され、成功していれば、江戸城が焼かれ、幕閣重鎮達は殺され、家綱も拉致されるところだった。
 しかしながら、密告者が現れたことで計画は事前に漏れ、内戦どころか、暴動らしい暴動も起きず、事件は未遂で終わった。 とはいえ、時代が時代なので、未遂でも政権の反逆は大量厳罰を伴った。一時関与を疑われた紀伊藩主徳川頼宣は公式に無関係と認められたものの、以後一〇年に渡って和歌山への帰国を許されない程、幕閣は神経を尖らせた。
 ただ、浪人問題には真剣に取り組み、末期養子が認められる等、第二代秀忠時代には乱発した諸大名への改易が極力行われない、つまり新たな浪人の発生が抑えられるように手が打たれた(改易は幕府への叛意によるものより、後継者が生まれなかったことによるものの方が多かった)。

 由比等の計画も徳川幕府を壊滅させるような内乱的なものではなく、要人暗殺・組織トップを人質にしての脅迫といった犯罪に近いもので、これは彼等が充分な武力を保持していなかったゆえだろう。
 そして変後、幕閣が事件関係者や背後関係を徹底的に洗い出し、調査したのは勿論だが、それでも由比達が変を起こす目的とした「浪人救済」は本来とは異なった形ながら少しは叶うこととなった。
 幕閣が変を未然に収めながら、その要因となった施策の不備に目を向けたのは、島原の乱を最後に大規模な武力内乱を収めたことに自信を持った幕閣が事後に対して、直接的な武備取り締まりよりも内省を重視出来るようになっていたと考えるのは穿った物の見方だろうか?



キーパーソン概略
徳川家光………徳川幕府三代将軍。父・秀忠と母・お江にとって第五子にして待望の嫡男に生まれるも幼少字は内向的で病弱故に廃嫡の憂き目を見ることもあった。

 祖父・家康の後押しと乳母・春日局を初めとする良き教育係に恵まれて次第に将軍後継者としての成長を遂げ、第三代征夷大将軍に就任。
 諸大名の前で「生まれながらの将軍」と名乗ることで格の違いを見せつけ、政治的にも制度的にも良くも悪くも以後の幕藩体制を固めた。


松平信綱………江戸幕府において三代将軍家光・四代将軍家綱を老中として補佐。元は大河内氏の生まれだが、養父となった叔父が(徳川家の数ある士族である)松平家の養子となったため、自身も松平を名乗る。

 幼少時より才知の片鱗を見せ、家光の小姓となり、以後家光の成長に伴って出世した。その知恵者振りと、養家の慣例で「伊豆守」を名乗ったことから「知恵伊豆」とあだ名され、島原の乱鎮圧、慶安の変未然阻止、明暦の大火事後処理に尽力。

 家光の深い信頼を受ける一方で、色々と癖のあった家光に諫言することもあった。



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令和三(2021)年五月一二日 最終更新