局面捌 諸国鉄砲改め……全国規模の銃規制

出来事諸国鉄砲改め
内容士分以外の身分に対する銃没収・銃規制
年代貞享四(1687)年
キーパーソン徳川綱吉
影響武断政治から文治政治への方向転換
前史 現代の感覚では信じ難いことだが、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての日本は世界でも屈指の産鉄砲国だった。
 少し前まで全国の大名が血で血を洗う戦乱を繰り返していたのだから、国民の多くが武装していたことを考えると武器生産が盛んだったのは大いに納得出来る話である。しかしながら、中国では明が女真族(後の清)の侵攻に苦しみ、欧州列強は挙ってアジア・アフリカ・南北アメリカ大陸に侵出し、モンゴル帝国の末裔国家とイスラム国家が相争うなど、戦乱に明け暮れていたのは日本だけではなかった。
 つまりは世界中が武器を増産していた。そんな中、日本が世界で最も多く鉄砲を生産していたのは誠に意外である。

 というのも、鉄砲は弾丸・火薬がないと何の役にも立たないからである。
 当時火縄銃に使われた火薬の原料は木炭・硫黄・硝石だった。その内、硝石だけは輸入に頼らざるを得なかった。これは簡単な様で難しい。
 硝石そのものは中国や朝鮮半島でも算出していたが、明や李氏朝鮮は硝石が日本に渡って倭寇達の弾薬になることを恐れ、輸出に制限を掛けていた。となると更に遠隔地から求めなければならないのだが、当然そうなると入手の為の経費は高くつくことになる。
 長篠の戦い以前、一般に鉄砲は弾込めに時間が掛かるなどの問題を初めとする使い勝手の悪さから軽視されていた(と云い切るには語弊があるが)が、薩摩守個人的には火薬の問題もあったのではないかと思われる。

 だが、いざ有効活用されると周知の様に鉄砲は戦国の世を一変させた。
 剣術や槍術に比べれば、鉄砲を戦場で使えるようになるのは遥かに容易である。直接敵兵と干戈を交えることに抵抗のある臆病者や弱虫でも物陰に隠れて狙撃出来るだけでも充分使い様が有る。
 実際、武田勢を打ち破るのに鉄砲を有効活用した織田信長自身、対一向宗との戦いでは敵型の鉄砲攻撃で甚大な被害を被ったし、本能寺の変にて明智光秀から重囲射撃を受けると逃亡を諦めた(実際に逃亡を試みた織田有楽はまんまと逃げおおせた)。

 こうなると鉄砲にも様々な改良・開発が為された。
 火縄銃が四〜五kg程の重量だったのに対して、二〇sの重量とそれに見合う破壊力をもっと「大筒」が生まれ、大坂の陣においては「国崩し」との異名を取る大砲が実戦配備された(砲撃による直接的な戦果は大きくなかったが、淀殿を初めとする女性陣を完全にビビらせ、一時講和に向かわしめた)。

 そんな時代背景故、戦国末期から江戸初期の日本には鉄砲が溢れ返っていた。
 少し時代が戻るが、豊臣秀吉の朝鮮出兵初期にて日本軍が首都・漢陽を陥落させ、明との国境近くまで攻め寄せ、二王子を捕虜にする程の快進撃を為せたのも、鉄砲の差があった。
 勿論、鉄砲以外にも二〇〇年近い平和で李氏朝鮮に危機感が薄かったことや、それに伴う実戦経験の有無も大きかったが、鉄砲による日本軍の武装は朝鮮側のそれを質でも量でも大きく凌駕していた。

 だが、戦国の世が終わると鉄砲はその出番を大きく減らした。
 猟師などの一部の職種にある者は鉄砲を引き続き使用したが、兵農分離が進む中、一般ピープルが鉄砲を所持する必然性は皆無に近かった。何せ護身用の武器携行が許可される場合も、その目的上太刀は持てず、脇差止まりだった(時代劇『水戸黄門』で佐々木助三郎が振り回しているのも脇差)。
 まして権威・権力で民衆を統べる権力者サイドでは、本職の軍人でもない者にも容易に殺傷能力を持たせる鉄砲の存在は自らの権力基盤を脅かすものでしかなかった。実際、本頁で採り上げている諸国鉄砲改めにて一般ピープルから没収した鉄砲の数は多くの藩で、藩士所有の数よりも没収数の方が上回った。
 勿論時代を遡れば豊臣秀吉による刀狩があり、江戸幕府も士農工商と云った身分制度による兵農分離を進めていた訳で、それでも江戸幕府開府から八〇年を経て鉄砲は世に蔓延していたのは驚嘆に値しよう。



武装解除 前頁で採り上げた島原の乱から五〇年後となる。
 時の将軍は第五代徳川綱吉生類憐みの令が有名過ぎて「犬公方」と呼ばれた無茶振りに注目されがちで、自分に反対する者に容赦もなかったが、元々は学者肌で、武断よりも文治を重んじる人物だった。

 悪名高い生類憐みの令も敬虔な仏教徒だった母・桂昌院の影響を受けた動物愛護の精神に基づくもので、昨今では極端過ぎたこの法政が戦国以来の血腥い気風を刷新し、結果として人命が重んじられるようになったのではないか?との見解を示されることも多い。
 そんな綱吉だから生類憐みの令の一環としてこの年に諸国鉄砲改めを行った。

早い話、全国規模の銃規制である。
改めて武士以外の身分にある者の鉄砲は没収された。例外的に所有を認められたのは猟師が持つ鉄砲(←生類憐みの令も地方には徹底されてなかった)。そして農作物を荒らす鳥獣を追い払う為の威し鉄砲、そして特に護身用に認められたケースのみが例外とされ、その際も所持者以外に使わせないという条件が付いた。
殊に威し鉄砲は鳥獣の追い払いが目的で、殺傷が目的ではない故、実弾の使用を禁じた空砲だった(二年後の元禄二(1689)年に、空砲では追い払い効果が不充分として、実弾発射が許された)。

この政令を徹底すべく幕府は諸藩鉄砲の没収、その数の報告を義務付けた。この報告義務は綱吉の死後なくなったが、綱吉による銃統制の方針自体は受け継がれ、幕府・諸藩に許可された鉄砲以外は禁止するという制度は(一部で形骸化しつつも)幕末まで続いた。



後世への影響 個人的に注目するのは、江戸時代を通じて何千件も起こった百姓一揆打ちこわしにて鉄砲が用いられなかったということである。
 百姓一揆は比較的名君とされた八代徳川吉宗の在任中でさえ約三〇〇件勃発したと云われている。勿論一口に「一揆」と云ってもその目的・規模・暴れ振りは千差万別で、構成員が農民である以上、生業と生活が保障されれば矛を収めるには充分だった。

 それゆえ、元より武器を持たず、武術の心得のない農民達は鋤・鍬と云った農具を有り合わせ的に装備し、時代劇や歴史漫画でよく見る竹槍もイメージほど頻繁には装備していなかった。
 また領主側でも一揆が起きると云うこと自体藩政不行き届きとして幕府に睨まれる要因になりかねなかったので、穏便に済めばそれに越したことはなかった。それゆえ江戸時代に頻発した一揆は大飢饉時のそれを除けば現代のデモに近いレベルで済んだことも多かった(まあ、その場合でも首謀者は極刑だったのだが)。

 だが、そこに鉄砲があったらどうなっただろうか?

 いくら従来のイメージより暴動カラーが軽かったとはいえ、凶器に出来る農具を持って集団を形成しており、無理押ししようとしているのである。交渉の雰囲気次第では激昂する者が出てもおかしくない。
 集団狂気に陥ったら得物が何であろうと暴動は免れないが、冷静な人望ある人物が首謀者であれば、数人の跳ねっ返りは抑え得るが、ここ飛び道具があれば、一発発射された途端に収拾の着かない殺し合いになってもおかしくない。
 暴動でも戦争でも、殺し合いは「物の弾み」で始まり得るが、収めるのは並大抵ではない(たとえ表面上収まっても遺恨を引きずることも多い)。百姓一揆の現場に、激昂する農民側に鉄砲があれば?打ちこわしにて蔵や家屋を壊される豪商が用心棒やならず者のみならず鉄砲まで持ち出して抵抗したとしたら?

 徳川綱吉が半ば専制君主的であろうと改めて鉄砲を没収した「功績」は決して小さくないと考える。



キーパーソン概略
徳川綱吉………徳川幕府第五代将軍。兄家綱が嗣子無く没したため、堀田正俊・徳川光圀等の推挙を受けて将軍に就任。

 学者肌で、良くも悪くも凝り性な人物だったため、悪徳代官の更迭や命を重んじる賢政を布く一方で、生類憐みの令を初めとする極端な法令や自身の気に入らない人物への苛斂誅求から毀誉褒貶の激しい人物でもある。



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令和三(2021)年五月一二日 最終更新