第参章 斎藤義龍…父と義弟が濃過ぎた故に

名前斎藤義龍(さいとうよしたつ)
家系美濃国主
斎藤道三(一説に土岐頼芸)
深芳野(一色氏 元・土岐頼芸室)
生没年大永七(1527)年七月八日〜永禄四(1561)年五月一一日
極冠治部大輔 美濃守
政敵斎藤道三、斎藤孫四郎、斎藤喜平次、織田信長
見舞った不幸父親からの冷遇、父・弟との戦い、夭折
生涯
 「美濃の蝮(まむし)」・「下剋上の典型」として、良くも悪くも名高い美濃国守護・斉藤道三の嫡男として生まれた。
 母の深芳野(みよしの)は道三が追放した美濃国守護・土岐頼芸(ときよりのり)の元・側室だった。そしてこの深芳野が道三に下渡された時期と、斎藤義龍の出生の日程から、一説に義龍は深芳野が道三に嫁してから七ヶ月で生まれた、と見られた。
 その為、周囲の人間は勿論、道三自身までが豊太丸と命名した赤子を「我が子ではないのでは?」との疑念を抱いていたが、豊太丸は道三の嫡男として育てられた。

 もっとも、戦国時代屈指の梟雄となるだけの機智も謀才も備えていた道三のこと、この疑念を逆手にとって土岐家の旧臣を取り込むのに成功するも、次第に道三は実子であることが確実な次男・孫四郎、三男・喜平次を可愛がるようになる。
 父子相克の根は早々と斎藤家の中に張り巡らされつつあった。


 天文一一(1542)年に道三は頼芸父子を美濃国外に追放し、事実上の美濃国主となった。
 一方で義龍は六尺五寸(約197p)の偉丈夫に成長した。この身長は現代の基準でも相当な高身長で、戦国時代当時には雲を突くような大男に見えただろう。
 かつて道場主は、義龍が馬に乗ると足が地面に届いた、という記述を何かの本で読んで、反射的に「嘘だろう?」と思ったが、当時の軍馬は現代の競走馬のような馬ではなく、力と耐久力に優れてもスピードの出ない小柄な農耕馬で、義龍程の高身長があれば在り得た話らしい。
 義龍の巨漢振りは織田信長が「六尺五寸殿」と渾名していたことからも、当時の人々の驚きが知れよう。
 そして皮肉なことにこの高身長もまた、道三をして「義龍は我が子にあらず」、と思わしめる要因の一つとなったと云われている。差し詰め、「親に似ぬ子は鬼子」と云ったところだろうか?


 ともあれ、頼芸が頼った織田信秀との戦いや、義龍の妹・濃姫の信長への嫁入りを経て、道三は天文二一(1552)年に美濃を完全に統一し、二年後の天文二三(1554)年に義龍は道三から家督を譲られた。
 義龍は稲葉山城城主となり、道三は鷺山城に隠居したが、親子仲は益々冷め、義龍義龍で家督の不安定さを憂い、道三は道三で孫四郎龍重・喜平次龍定を可愛がり続け、最終的に道三は義龍を廃嫡し、孫四郎・喜平次に家督を継がせることを画策し出した。


 道三が我が子であるかどうかを疑った存在である義龍は、皮肉にもこのとき、父に負けぬ謀略の才を見せた。
 弘治元(1555)年、叔父・長井道利を秘かに味方につけた義龍は、仮病を使って「最期の挨拶をしたい。」と偽って孫四郎と喜平次を呼び出すと、見舞いに来た二人に対して蒲団の中から太刀を持って不意討ち襲い掛かり、二人を殺害した。
 勿論道三は激怒し、父子の殺し合いは決定的となった。


 弘治二(1556)年四月、両者は長良川河畔にて衝突した。
 土岐氏の旧勢力も巧みに味方につけた斎藤義龍率いる手勢・一万七五〇〇に対して、斉藤道三率いる手勢は僅かに二五〇〇。
 文字通り多勢に無勢で、娘婿である信長の援軍も間に合わず四月二〇日、斉藤道三は激闘の果てに討ち死にした。
 このときになって、道三は自分が義龍の戦場で指揮を取る采配振り・旧勢力を味方につけた手腕を甘く見ていたことを痛感したと云う。

 義龍は道三を討ち取った後、救援に駆けつけた信長勢とも一戦を交え、これを退けている(道三の死を知った信長が早期に退いたためでもあるが)。


 戦後、義龍は貫高に関する安堵状を発給して、長く戦乱に明け暮れた美濃国人衆の経済的安定に努め、「宿老」と呼ばれた重臣達の意見をよく聞き、合議制を取り入れることで、ワンマンだった道三のやり方に倦んでいた家臣の気持ちを掌握した。
 また軍事面でも、「父親殺しを討つ」との大義名分を振りかざして美濃に攻め入って来た信長軍を何度も撃退し、その手腕を認めた室町幕府第一三代将軍・足利義輝より永禄元(1558)年に治部大輔、永禄二(1159)年に幕府相伴衆に任じられた。
 一方で、骨肉の争いが珍しくなかったとはいえ、「父親殺し」のインパクトは大きく、その悪名に苦しんだ義龍は母・深芳野が足利氏の支族である一色氏の出だったことから、「一色左京大夫」と称したり、自らを「土岐頼芸の忘れ形見」と大々的に喧伝することで旧土岐家家臣団との結びつきを強めたりした。

 また、中国唐代の人物で、止むを得ない事情で父親を殺してしまった人物にあやかることで父親殺しの罪悪感を払拭したかったのか、書状などにその人物の名である「范可 (はんか)」の名を署名してもいる。

 信長に対抗する為、南近江の六角義賢と結んで浅井久政とも戦いながら勢力拡大に努めたが、その最中に永禄四(1561)年五月一一日に急死した。斎藤義龍享年三五歳。
 家督は嫡男・龍興が継いだが、この龍興の代に斎藤家は信長に滅ぼされた。
 義龍の死因は巨体に関連する持病の悪化とも、ハンセン病とも云われているが、若くして世を去ったことから、「親殺しを祟られた…。」との噂も人口に膾炙した。



嫡男たる立場
 出生に謎のある斎藤義龍だが、公式には早々と嫡男とされ、実際に家督も継いだ。否、正確には嫡男とせざるを得なかったのだろう。
 義龍の母・深芳野の立場は側室である。本来の義龍の立場は「庶長子」の筈だった。道三が深芳野以外の女性との間に子を為さなければ「庶長子=嫡男」との図式も成り立つが、実際に正室となった小見の方が孫四郎・喜平次を産んでいた。
 つまり、道三は義龍が正室の子ではないことを理由に家督を継がせず、孫四郎を嫡男としても非難される要素はなかったのである。

 それでも出生に疑念の残る義龍が家督を継いだのは何故か?
 それは美濃国内の国人勢力が斎藤道三の元にまだまだ一枚岩とは云い難かったからだろう。

 一介の油売りから身を起こし、土岐家家臣・長井長弘に取り行って士分になるも、恩人である長井家を讒訴して乗っ取り、遂には国主・土岐頼芸まで追放して美濃を乗っ取った手腕は「蝮(マムシ)」と渾名された斎藤道三の手腕は確かに優れていたが、同時に多くの人々の恨みを買うものでもあった。
 そしてそのことは道三自身の深く自覚しており、道三は旧土岐家家臣団の懐柔に時に飴を、時に鞭を振るった。
 つまり、義龍への家督委譲は道三に美濃を統一されたものの、土岐時代を懐かしむ勢力を取り込むのに、義龍血統疑惑を逆手に取った方便だったが、皮肉にもそれは最後の最後で自らの身を滅ぼした。

 上記にある様に、道三が実質的な美濃国主となったのが頼芸を追放した天文一一(1542)年で、完全に制圧したのが天文二一(1552)年で、念願の身の統一から僅か二年で義龍に家督を譲っている。
 表向きだけで判断するなら、美濃制圧を自身の役目とし、それを終えた上は美濃の地場固めを義龍に委託したように見える。
 似た例として、関ヶ原の戦いで我が勢力を絶大なものとした上で征夷大将軍に就任した二年後に、将軍位世襲を示し、重臣達の対立の種となりかねない後継者争いを鎮める為に三男・秀忠に将軍位を譲って大御所となった徳川家康の姿が被る。

 本来の嫡男である信康亡き徳川家でも、本多忠勝は兄弟順から結城秀康(次男)を、榊原康政・大久保忠隣は律義さから徳川秀忠(三男)を、井伊直政は娘婿である松平忠吉を推し、結果として家康が秀忠に将軍職を譲ったことで、後継者への想いの相違が家臣団分裂には至らずに済んだ。
 斎藤家でも、嫡男は嫡男でも、「疑惑の嫡男」だった故に義龍は家督と旧臣を得ることで、異腹の子供達に家督を手にさせるまでの油断を進める策謀兼時間稼ぎだったのだろう。

 道三に可愛がられなかったこともあったのだろうけれど、状況的に義龍自身、自らの出生には疑問を持っていたようで、彼は状況に応じて、「斎藤」とも、「土岐」とも、「一色」とも称した。
 ただはっきりしていることは二点ある。
 それは、「土岐」であろうと、「斎藤」であろうと、「一色」であろうと、彼は紛れもなく、『美濃の嫡男』だった、ということである。
 だが、血統への疑惑はどうあれ、彼は「道三に育てられた」という意味でも嫡男だった。最終的な道三への想いはどうあれ、道三戦死後の義龍には「親殺し」の汚名を避けんとのもがきは確かに存在している。



同情すべき悲運
 道場主が小学生の時、生まれて初めて読んだ日本史に登場する人物の伝記が『織田信長』だったのだが、当時、道場主は斎藤義龍に対して異様なものを感じた。
 それは、義龍が騙し打ちで弟を殺したこともさることながら、「自分は道三の子ではない。道三が追放した土岐頼芸の忘れ形見だ!」と云ったこと、その直後の、「彼自身が云った様に、彼が本当は誰の子だったかはっきりしません。しかし道三に息子として二人の弟と共に育てられたのは確かなのです。」という記述を見たからであった。
 当時九歳だった、道場主は子供が出来るメカニズムを知らず(その割には、雄と雌が交尾をして雛や卵が生まれる事は幼稚園児の時から知っていた)、記述内容も不可解なら、そんな事を云い出す、云われる義龍に激しい違和感を感じたのだった。

 それから四半世紀ほどの時間を経て、如何に当時の道場主が信長偏重の見方をしていたかを思い知っている。
 前述の、義龍が仮病を使って見舞いに来た弟に不意を突いて殺害した方法がその伝記では卑劣な話として紹介されていたが、信長も弟・信行に対して行っている(もっとも、これは一度逆らって許されたのに、また信長に反旗を翻した信行の非の方が大きいのだが)。
 また、義龍が夭折したことに対して「(道三に)祟られたのか」と表現されていたが、恐らく、義龍を祟りたい奴と道三を祟りたい奴では後者の方が圧倒的に多かっただろう。

 では、何故に斎藤義龍は数多くいる肉親殺しの中でもここまでこき下ろされるのだろうか?
 下記に義龍の悲劇的要因を検証したい。

 要因は三つある。
 一つは土岐家と斎藤家の争いに巻き込まれたこと。
 一つは織田信長を義弟とし、何かと比較されたこと。
 一つは骨肉の争いに、意外と「親殺し」が少ないことである。

 第一の、「土岐家と斎藤家の争いに巻き込まれたこと」だが、義龍の実の父親がはっきりしないことがまずは義龍の人生を端から狂わしている。
 土岐頼芸が父親であっても、斎藤道三が父親であっても、「悪い父親を持った。」との感が拭えない。
 あくまで現代の視点だが、夫婦が離婚した場合、女性は半年間再婚が出来ないのも、次に生まれる子供が誰の子か後になって混乱しない為、との配慮もあるが、何時命を落とすかも知れない戦国の世では、妻妾を得たならまずは胤を植えない訳にはいかなかったのだろうけれど、もう少し何とかならなかったものだろうか?
 いずれにしても、土岐と斎藤に諍いがなければ、義龍が道三の後を継げなかった場合でも土岐家に戻るなり、早い内に僧籍に入るなりして、権利栄達はともかく、骨肉の争いは避けられ、道三にしても実子かどうかの疑いのある嫡男の手で明らかに実子であることに間違いない二男・三男を殺されることもなかっただろう。

 第二の「織田信長を義弟とし、何かと比較されたこと」だが、道三が娘婿となった信長と初めて対面した折に、道中異装だった信長を見て略服で会見に臨んだところ、会見の場では完璧な正装に変じていた信長に度肝を抜かれ、「やっぱり信長は『うつけ者』だった。」と嘲笑う家臣に対し、「いや、儂の子や孫はあの『うつけ者』の門に馬を繋ぐだろう。」と云ったのは有名な話である。
 そして後に孫四郎と喜平次を殺され、義龍と長良川に戦うことになった道三は敗色濃厚となった時点で美濃を信長に託す旨を使者として信長に送ったが、間に合わなかったとはいえ、信長は信長で本気で道三を助けるつもりだった。
 そんな舅と婿のやりとりに、義理の親子である筈の道三と信長にこそ実の親子のような匂いを感じた人も多いだろう。類は友を呼んだのだろうか?
 そんなエピソードも手伝って、後年、天下を掌中に収める一歩手前まで行った織田信長を義弟とした斎藤義龍には英傑に比して単純な『親殺し』になり下がってしまった感が拭えない。
 実の親子より義理の親子の方が、馬が合ったのは悲劇だが、その義理の息子が英名を馳せたのも義兄の名を貶めた要因なら、前述の「悪い父親を持った。」とは別の意味で、「悪い義弟を持った」と云いたくはなる。

 最後の、「骨肉の争いに、意外に親殺しが少ないこと」だが、チョット下記の表を参考にして欲しい。

 主な有名武将と骨肉の争い。
織田信長 → 弟・信之を殺害
織田信雄 → 弟(実は兄)・信孝を切腹させる。
豊臣秀吉 → 養子にして甥・秀次を切腹させ、妻子を族滅。
徳川家康 → 嫡男・信康を切腹させる。
徳川家光 → 弟・忠長を幽閉(忠長は後に切腹)。
伊達政宗 → 弟・小次郎を斬り、母・保春院を追放(後に和解して迎え入れ)
最上義光 → 父・義守を強制隠居、弟・義時と嫡男・義康を殺害。
武田信玄 → 父・信虎を追放、嫡男・義信を幽閉(義信は後に切腹)。
毛利元就 → 弟・相合元綱を殺害(その子供は許して家を継がせている)。
尼子晴久 → 叔父・国久一家を族滅。

 いずれも有名な事例で、明らかに血の繋がった例だけを取り上げ、親子でも義理であるものや、血の繋がらない夫婦の例は除いているが、骨肉の争いが珍しくない戦国の世でも、意外と相手を死に至らしめた例は少なく、死に至らしめた例でも幽閉後に相手が悲観した果ての切腹であることもあり、更には直系の殺し合いはかなり少ない。
 一家族滅の様な目を覆いたくなる例もあるが、それも傍系である。はっきり云って、平安末期の源氏や鎌倉時代の北条氏の方が戦国武将達より遙かに罪深い身内殺しを重ねていると云いたい。

 別の視点で見ると、殺害例には「父→子」、「兄→弟」、「伯父→甥」といった、目上が目下を殺める例が多く、そこには力の関係もあるだろうけれど、主殺し・親殺しを究極の悪行とした儒教の影響も大きいだろう。
 殊にこの日本では古くは大宝律令から現行刑法が改正されるまで尊属殺は卑属に対するそれよりも罪を大きな物とされ、改正前の刑法では殺人罪が「人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ三年以上ノ懲役ニ処ス(第一九九条)」だったのに対し、尊属殺は「自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス(第二〇〇条)」と、明らかに厳しいもので、情状酌量の際にもその運用度合いは罪科に比例した。

 この刑法二〇〇条は道場主がこの世に生を受けて間もない頃に、最高裁がある悲惨な事件を受け、「憲法の法の下の平等に反し、違憲。」とするまで厳然たる影響力を持ち、平成七(1995)年の刑法改正でようやく削除されたのである。
 それほどまでに尊属を殺す、ということは赤の他人や卑属を殺すことより罪深いこととされたのである。

 となると斎藤義龍の(実父かの疑惑はあるにしても)道三に対する弑逆は他の武将達の例に比しても誠に悪名を大きくしてしまったものがある。
 追放に留めた武田信玄や伊達政宗ですら後々その悪名はあからさまに喧伝されているのである(勿論敵対勢力による殊更に貶められた背景を考慮する必要はある)。

 他の武将達よりもかなり偏重した義龍に対する同情に終始してしまったが、別の見方をするなら、骨肉の争いが珍しくなかった戦国の世にも人を殺すことに対する罪悪感は充分にあったことを信じたい、とも思う次第である。



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令和三(2021)年五月二一日 最終更新