第肆章 武田義信…仁義に固執し過ぎた嫡男

名前武田義信(たけだよしのぶ)
家系甲斐源氏である武田家の嫡流
武田晴信
三条夫人(三条公頼娘)
生没年天文七(1538)年〜永禄一〇(1567)年一〇月一九日
極冠不明
政敵織田信長
見舞った不幸正室実家との断交、父との確執、幽閉・自害(一説に病死)
生涯
 戦国最強と名高い武田家(←異論のある方もいると思うが)で最も名高い「甲斐の虎」・「戦国の巨獣」と呼ばれた武田晴信(信玄)と、その正室・三条夫人の間に、立場的にも兄弟順的にもれっきとした嫡男として生まれた。
 幼名は太郎。同母弟に次郎信親(盲目のため、出家して竜芳)、三郎信之(夭折)が、同母妹に黄梅院(北条氏政正室)、見性院(穴山梅雪正室)がいる。

 父・晴信が祖父・信虎を追放した悲劇もあってか、太郎は武田家の跡取りとして大切に育てられ、養育係には知勇兼備の勇将・飯富虎昌(おぶとらまさ)が任命された(この詳細は過去作・『師弟が通る日本史』参照)。

 天文一九(1550)年に一三歳で元服し、武田家代々の諱である「」の字と、時の室町幕府第一三代将軍足利義輝の偏諱である「」の字を受けて、武田太郎義信と名乗った。
 二年後の天文二一(1552)年に、今川義元の軍師・雪斎禅師プロデュースの元、駿河善徳寺にて、武田晴信、今川義元、北条氏康の三巨頭が一堂に会し、甲駿相三国同盟が成立し、それに伴う政略結婚で義信は今川義元の娘・嶺松院を娶った。
 義信は同盟への信義と、妻への愛から嶺松院以外に側室を持つことはなかった。


 天文二三(1554)年に一七歳で信濃知久氏攻めに出陣して初陣を飾ると、永禄四(1561)年の第四回川中島の戦いでも八幡原に奮戦し、虎昌の教育もあって、文武に優れた若大将として父・晴信、母・三条夫人、家臣達の期待に応える成長を見せた。

 しかし、川中島の戦いの前年、永禄三(1560)年に桶狭間の戦いにて岳父・今川義元がまさかの討ち死にを遂げると運命が暗転し始めた。
 父・信玄(弘治三(1557)年頃に出家)は、義元亡き後の今川家を見限り、織田信長・徳川家康と結ぶことを画策した。
 義元の跡を継いだ氏真は母が信玄の姉で、信玄にとっては実の甥で、義信にとっては実の従兄にして義兄でもあった。更に、当時今川家には信玄が追放した先代・信虎が「病気療養」の名目で預けられていた(信玄は預かり賃を今川家に払っていた)。
 勿論、信虎は氏真にとっても、義信にとっても実の祖父である。
 義信は同盟破棄を「信義に悖る行為」として信玄に猛反対の意を示した。


 だが、信玄は嫡男の声に応えず、永禄八(1565)年に義信の異母弟である諏訪四郎神勝頼の正室に織田信長の養女・雪姫(遠山友勝娘)を迎え、正式に織田と同盟し、徳川家康とも、武田が駿河を、徳川が遠江を取る旨を取り交わし始めた。
 勿論これは義信の同意せざることで、武田家二代に渡る悲劇はこの前年・永禄七(1564)年に始まっていた。

 永禄七(1564)年に義信の師傅である飯富虎昌が側近の長坂長五郎、曽根周防等と謀反の密談をしている、との密告が虎昌の実弟・飯富三郎兵衛昌景(事件後、「山県」に改姓)によって信玄の元にもたらされ、虎昌達は逮捕された。
 尋問を受けた虎昌は、義信擁立の為に信玄を討ち果たそうとしたことは認めたが、「義信が謀反の首謀者では?」との問いには頑として否定し続けた。
 その為に信玄も虎昌に切腹を命じざるを得ず(永禄八年一〇月一九日、飯富虎昌切腹)、時を同じくして義信も捕らえられて尋問されたが、こちらはこちらで自らが首謀者であることを云い張り、東光寺に幽閉された(永禄八年九月幽閉)。
 これに伴って、正室・嶺松院も離縁となり、今川家に強制送還され、武田義信廃嫡が決定した。

 世にいう義信事件は武田家をあわや二分するところだったが、最悪の事態が避けられたとはいえ、信虎の代からの功臣である飯富虎昌を始め、義信に連座して八〇名以上の者が切腹・追放となったり、謀反の過程で斬り死にしたりした。

 一方の東光寺に幽閉された義信は家臣による助命嘆願や、義兄・氏真が甲斐への塩止めをしてくれる等、その命を救う為に尽力した者達もいたが、事件より二年後の永禄一〇(1567)年一〇月一九日に切腹して果てた。武田義信享年三〇歳。
 この義信事件には謎が多く、義信の死因にしても病死であるとの異説もあるし、切腹にしても、信玄が命じたという説もあれば、幽閉生活と廃嫡を絶望した義信が自ら命を断ったとの説もあるが、彼が切腹した一〇月一九日が彼の師傅である飯富虎昌が切腹した日と同日であることは偶然ではなかろう



嫡男たる立場
 武田義信の父・武田信玄とは、人に恵まれ、人に悩まされた人物、と薩摩守は見ている。「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」とは有名な信玄の名言だが、この言葉通り、信玄は生涯城を築くことなく、親子・夫婦・主従といった人間関係に細心し続けた。

 実父信虎追放劇は今更云うに及ばずだが、幸いにして彼は弟と重臣に恵まれた。
 信虎に可愛がられた弟・信繁が信玄を立て、板垣信方、飯富虎昌、甘利虎泰といった信虎を支えて来た重臣達が信虎に忠実過ぎたら武田晴信が武田信玄になることはなかっただろう。
 それゆえに信玄は義信の嫡男としての立場を明確なものとし、傅役にも飯富虎昌といった家中でも特に万事に優れた者を任じた。
 大河ドラマや新田次郎氏の小説の影響で、義信の母・三条夫人は長く信玄に愛されなかった、実家である公家の家柄を鼻にかける嫌な悪妻のイメージが持たれ続けたが、実際には信玄との間に五人の子を設けていることや、子供達への遇し方を見ても三条夫人は並みの正室以上に愛されていた可能性は高く、その第一子である義信が可愛がられなかった筈がなかった。


 信玄が親子の情愛としても、嫡男としても義信に格別の心配りをしていたことは元服時の偏諱にも見られる。
 前述したように、「義信」の名は、将軍・足利義輝の「」と、父・晴信の「」である。
 大名が時の将軍の偏諱を受けることは珍しくないが、足利義輝の例を見ても、伊達輝宗、毛利輝元、上杉輝虎と、将軍家代々の「義」の字ではなく、下の字を授けられる例の方が多く、「義」の字を受けるためには勢力と多額の献金が必要で、朝倉義景・今川義元・尼子義久・島津義久も力と献金が認められればこそで、父・晴信にしても一二代将軍足利義晴の下の字である「晴」の偏諱を受けている。
 母方である三条氏の影響もあると思われるが、義信が如何に嫡男として遇されたかを語るエピソードと云える。

 はっきり云って、今川家との同盟を巡る義信と信玄の意見対立さえなければ、二人は別段おかしな親子でもなければ、嫡男としての武田義信の立場も決して特殊なものではなかったのである。



同情すべき悲運
 簡単に一言で括るなら「今川義元、まさかの戦死」がすべての始まりであった。
 岳父・義元戦死に伴う今川家の弱体化と、その今川家を実父・信玄が見限ったことから始まった甲駿同盟の瓦解が武田義信の運命を狂わせた。
 それ以前は何の過不足もない武田家嫡男・武田義信でいられたのである。

 義信死後の話になるので直接は関係ないが、義信の死の影響は信玄死後になって現れた。
 兄弟順もあって、異母弟の諏訪四郎神勝頼が武田家を継いだ(正式には勝頼の嫡男である信勝が継ぎ、勝頼はその後見人となった)が、勝頼が本来は諏訪家を継ぐ筈だった経緯や、甲斐国人と信濃国人の対立とも協調ともいえない微妙な関係もあって、義信こそ本来の後継者と見てきた穴山梅雪等は肝心なところで勝頼に従わなかったし、勝頼後継に微妙な不満を抱く御親類衆も土壇場で勝頼に味方しなかった。
 この微妙さは、信玄や武田家には絶対の忠誠を誓っても、信玄死後の武田家に以前と同じ忠誠を抱いていなかったことにあり、幼少より嫡男として目されてきた義信が誕生から信玄の死に至るまでの(生きていたとして)三六年間に後継者としての確固たる立場が築かれていれば、他の御親類衆も義信第一とし、例え武田家と袂を分かつ国人や、宗家を裏切る御親類衆が現れたにしてももっとはっきりしたものとなっていただろう。
 義信の死は決して義信一人の悲劇ではなかった。

 甲駿同盟の瓦解だけなら戦国によくある事例だったのだが、義信の最大の悲劇要因は同盟と二代に渡る今川家との血縁に固執し過ぎたところにあった(くどいが、この辺りのくだりも『師弟が通る日本史』を参考にして欲しい)。
 師弟ともに優秀過ぎた故に、退くに退けなかった訳だが、嫡男故に父との方針相違が全面対決にならざるを得なかったこともまた、義信及び信玄の悲劇だった。


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令和三(2021)年五月二一日 最終更新