第伍章 徳川信康…跡取り比較で謀殺?謎の多い嫡男切腹令

名前徳川信康(とくがわのぶやす)
家系三河松平家嫡流
徳川家康
築山殿(関口氏・今川義元姪)
生没年永禄二(1559)年三月六日〜天正七(1579)年九月一五日
極冠不詳
政敵織田信長、織田信忠、武田勝頼
見舞った不幸両親不仲による心痛、謀反の濡れ衣、父からの切腹命令
生涯
 戦国時代最後の覇者にして、最後の勝利者・徳川家康となった松平元康と、その正室にして関口親永の娘にして今川義元の姪である築山殿(名前は「瀬名」、通称「鶴姫」)の間に嫡男として、駿府で生まれ、松平家嫡男御用達の幼名である「竹千代」を命名された(「竹千代」の名は曾祖父・松平清康、祖父・松平広忠、父・家康の幼名でもあり、江戸時代も家光・家綱・家治がその幼名を与えられた)。

 竹千代が生まれた時とき、父・元康は居城を持たない今川家の人質で、永禄三(1560)年に今川義元の上洛に従軍した際には駿府に留め置かれ、父子二代で人質の役目を課せられた。
 だがその上洛戦の過程で義元は桶狭間の戦いにて織田勢の奇襲に遭い、まさかの討ち死にを遂げ、父・元康は故郷三河の岡崎城に篭った。
 表向きは織田勢強勢の前に岡崎城にいた城代が逃走したので、織田勢に備える、というものだったが、勿論元康に氏真の元に帰る気はなかった。
 このとき、竹千代は元康背信に対する連座で人質として殺される恐れもあった(実際、後に母方の祖父・関口親永は氏真に切腹させられた)が、元康が逆に攻めて人質とした鵜殿長照一族との人質交換の形で父の待つ岡崎に母・瀬名、妹・亀姫とともに送られた。


 元康は今川氏真を見限ると名を「家康」に、しばらくして姓も「徳川」に改めると織田信長に接近し、永禄五(1562)年に信長の居城・清洲城にて両雄は会し、清洲同盟が締結され、その証に永禄一〇(1567)年五月に竹千代は九歳で信長の娘・徳姫と結婚した。
 そして一ヵ月後には家康が浜松城に移ったことで岡崎城の城主となり、更に一ヵ月後に元服し、岳父・信長の「」の字と、実父・家康の「」の字を取って徳川三郎信康と名乗り、通称は父と同じ「次郎三郎」、自称は祖父・清康と同じ「岡崎三郎」を名乗った。

 岡崎では家康によってつけられた三河三奉行である「鬼の作左」(本多作左衛門重次)、「仏高力」(高力清長)、「どちへんなしの天野三平」(天野景康)といったバランスの取れた重臣の補佐を受け、初陣は天正三(1575)年の長篠の戦いで飾った。時に徳川信康一七歳。


 その後も武田家との戦いで活躍し、天正五(1577)年の遠江横須賀での戦いでは見事な殿軍(しんがり)を務め、武田軍に大井川を越させなかった。
 家康の息子達は、跡を継いだ三男・秀忠のような律儀な温厚タイプは寧ろ少数派で、次男・結城秀康、四男・松平忠吉、六男・松平忠輝、九男・尾張義直、一〇男・頼宣、一一男・水戸頼房、と多くは血の気の多い、勇猛果敢なタイプであり、信康は名実ともにその筆頭だった(最も、弟達の多くは彼の死後に生まれたのだが)。
 だがその血の気の多さから乱暴な行状も見られ、殊に徳姫が二人目の子供を産んだ際に、一人目に続き二人目も娘だったことに腹を立てて柱に斬り付けたり、些細なことから徳姫付きの小侍従を手討ちにしたりした。
 そのため、日頃から姑である築山殿が織田家後を嫌って徳姫に辛く当たっていたことも手伝って、徳姫は一二ヶ条に及ぶ不服の手紙を父・信長に宛てて書いた。

 天正七(1579)年に岐阜城にて信長に引見した酒井忠次は信康が徳姫と不仲であることや、その生母である築山殿が伯父・義元の仇である織田家を敵視して武田勝頼と内通していることや、信康の乱暴な行状についてそれらが真実であるかを詰問され、あろうことか忠次は断固たる否定をしなかった。
 これにより信長は家康に信康と築山殿の切腹を要請した。

 勿論徳川家中は騒然となった。
 同盟相手で勢力も絶大とはいえ、主君でもない信長が徳川家の世継ぎとその生母の切腹を命じてくる態度に「同盟破棄!」や「一戦交えるべき!」との声も上がり、いまだに今川義元の姪であるプライドに固執して織田家を敵視して災難を招いた築山殿への非難も叫ばれた。
 だが、家康は信長と事を構えない道を選び、信康の代わりに自らの首を差し出すように求めた平岩親吉(信康傅役)の進言も退け、八月三日に岡崎城を訪れると信康を捕らえさせて三河大浜に幽閉させ、築山殿もまた軟禁状態に置かれた。

 信長に対して、家康もその家中も信康助命の道が模索されたとも、家康が信康の幽閉先からの脱走(または家臣がそれを幇助すること)を望んだとも云われるが、結果として家康は野中重政に命じて八月二九日に築山殿を殺害させ、服部半蔵正成に信康切腹の折の介錯を命じた。
 九月一五日、二俣城にて徳川信康は自刃して果てた。享年二一歳。

 信康自刃より二一年の時を経た慶長五(1600)年、関ヶ原にて中山道から進撃してくる筈の三男・秀忠の軍が到着しないことに苛立った家康が、「倅(信康)が生きていればこんな苦労はしなかっただろうに…。」と云って嘆き、亡き信康を偲んだ逸話を知る人は多いが、果たして何人の歴史ファンが関ヶ原の戦いがあった慶長五年九月一五日が信康の命日であり、信康の生きた時間と信康が死んでからこの関ヶ原までの時間が同じ二一年であることをご存知だろうか?(←偉そうに云っていますが、薩摩守はこの作品を作る為に調査して初めて気付きました)
 この時家康の胸中に飛来した想いは半端なものじゃなかった筈である。



嫡男たる立場
 徳川信康の切腹には謎が多く、同時にそのことが信康の人物像を不鮮明なものとしている。
 何せ、徳川家康は後に天下を取っているのだから、徳川家にとって不名誉な記述は伏せられたり、無視されたり、場合によっては改竄されることだってあり得る。
 第一、いくら織田信長の方が、勢力が強勢だったとは云え、友好国当主の嫡男に切腹を命じるなんて尋常ではない。
 信長も明確に「斬れ!」と命じた訳ではなく、「処分を家康に一任する。」という曖昧なものに終始しており、不平の手紙を出した徳姫も父・信長への夫・信康の助命嘆願の為に信長の元へ行く許可を家康に求めていた。
 それにも関わらず信康は切腹する羽目となったのである。薩摩守の中でも、昭和五八(1983)年の大河ドラマ『徳川家康』で宅間伸氏演じる信康切腹のシーンを見てから四半世紀以上を経て尚、いまだに釈然としていない。
 まあ、この謎自体は今回のテーマと直接は関係ないのだが。


 ともあれ、家康が信康を憎んでいた訳はなく、純粋に息子として可愛がり、嫡男として将来を嘱望していたのは明白である。
 桶狭間の戦いで今川家を離れた当初、当然のように信康は生母・築山殿と共に氏真の人質とされ、前述したように家康は鵜殿一族を襲い、人質交換にこぎつけると云う手段を駆使してまで妻子を奪還している。
 義元によって押し付けられた政略結婚とは云え、家康が築山殿・信康に愛情を抱いていなければ、見殺しにして完全に今川と縁を切ることも出来たが、家康はそうはしなかった。


 その後も、武田信玄と組んで遠江を奪取した後は当然のことながら武田家に備えなくてはならず、その為に浜松城に移った家康は御家にとっての本拠地とも云える岡崎を信康に託しているのである。勿論これは信長との同盟を重んじた上で、自分に万一のことがあっても信康に徳川家を率いさせるためだろう。
 その証拠と云えるかは分からないが、天正元(1573)年の三方ヶ原の戦いの折、家康は信康を救援に呼び寄せず、浜松城よりも岡崎城で武田勢を迎え撃っては?という信長の勧めも無視している。
 このことを指しても家康が嫡男として信康のことを色々と考えていたことは想像に難くない。


 話はガラッと変わるが、最終的には一一男五女を設けた艶福家の徳川家康だったが、信康が切腹した天正七(1579)年の時点では、男児は三人しかおらず、次男・於義丸(秀康)は六歳、三男・長松丸(秀忠)は生まれたばかりだった。
 しかも於義丸は母が築山殿の侍女・お万で、家康がある偶然から立った一度手をつけた際に出来た子で、築山殿の嫉妬や武田家との戦いの渦中で家康は母子を冷遇し、於義丸は二歳の時に初めて父・家康に対面したのだが、その手引きをしたのは信康であった。
 母・築山殿と、異母弟・於義丸との狭間で、息子として、兄として嫡男たる信康はこのとき何を思っただろう?

 嫡男としての信康を失った後の、「嫡男」や「後継者」を命題とした際の家康の言動にも注目すべきものがあり、そこには信康に対する想いも見え隠れしている。
 関ヶ原の戦いに勝利した後に家康は、重臣達に自分の後継者に誰が相応しいかを問うたとき、本多(弥八郎)正信・本多(平八郎)忠勝のダブル本多は長幼の序と勇猛さから次男・秀康を、大久保忠隣と榊原康政は徳川の姓と律義さから三男・秀忠を、井伊直政は娘婿である四男・松平忠吉を推した。
 周知の通り、結果として秀忠が徳川家を継いだ訳だが、家康に忠実な重臣達でさえ信康亡き後の後継者に一致した意見を出せなかったのである。

 また、関ヶ原の戦いを遡ること一〇年前、豊臣秀吉の天下統一によって関八州を治めることになった家康は井伊直政に一二万石、本多忠勝・榊原康政に一〇万石をあてがったが、人質時代から苦楽を共にし、信長・秀吉にも一目を置かれた股肱の重臣・酒井忠次の嫡男・家次には三万石しか与えなかった。
 このとき既に隠居していた忠次が家康に抗議すると、家康は忠次に「お前も我が子が可愛いか?!」と辛辣極まる皮肉で返した。
 この話が本当なら、忠次が信康を庇い切れなかったことに対する、あからさまな報復人事である。

 最後に家康が介入した、秀忠→家光の後継問題がある。
 生来病弱で内気だった徳川家光が廃嫡の危機を迎えた際に、家光の乳母・春日局から直訴された家康は江戸城に赴き、秀忠、お江与(秀忠正室)、家光、国千代(秀忠次男)と引見して、家光には膝元に呼び寄せて手ずから菓子を与えたが、国千代には「家光の家来となる身」として膝元に来ることを許さず、「長幼の序」を示すことで、家光後継を確固たるものとしたが、これを自分の嫡男である信康に家を継がせることが出来なかった罪滅ぼしの意識から来た行為、と見るのは穿った物の見方だろうか?

 信康が夭折し、家康が長生きしたために、家康の言動の方に嫡男としての信康を見てしまうが、彼が嫡男過ぎる程嫡男であったことに疑いはないだろう。
 そう、悲しいまでに彼は嫡男だった………。
 大河ドラマにて、滝田栄氏演じる家康は、極めて苦しそうな表情で、「信長殿の命ではなく、自らの意志で嫡男である信康を罰する!」と云い切る姿は演技と分かっていても痛ましいものがあった。



同情すべき悲運
 繰り返すが、徳川信康の切腹には謎が多い。
 疑いの目で見れば信長、家康、築山殿、徳姫、と信康に関連する人物がすべて怪しく見えるし、信康自身、本当に武田勝頼に内通して、信長・家康に反旗を翻そうとしていた、と見る説さえある(鬼の作左や平岩親吉の様な剛直者が近侍していることを思えば、信康が父に反旗を翻そうとしていたなど有り得ない気がするが)。

 何せ生まれた時点で人質要員にされ、時には今川家、時には織田家の矢面に立って苦しい立場に置かれる人生を送ったのが徳川信康と云う人物なのである。
 父・家康も家対家の関係では同等かそれ以上の苦労をしているが、少なくとも戦国の魔王・織田信長と自らの意志で付き合っていたが、信康には自らの意志で交際を選べなかった。生まれた順と云えばそれまでだったが…。
 そして最後に父・家康が天下を取ったものだから、信康には「本来なら将軍となって家康の後を継いでいた悲劇の真・嫡男」との見方と、「素行不良で信長につけ込まれて親より先に死んだ親不孝者」との見方がほぼ同時に投げ掛けられたのである。
 実父と義父が共に偉大過ぎたために、信康の死は単純な自害で片づけてもらえなかったことこそ最大の悲劇かも知れない。


 何せ、信康を死に至らしめた最大のキーパーソンが信長なら、「嫡男・信忠の手強い対抗馬とならないように抹殺された。」と見られ、同じくキーパーソンが家康なら「信長への忠誠を試す為の人柱にされた」と見られ、これが築山殿なら「母が勝手に企んだ武田への内通に巻き込まれた。」と見られ、徳姫がそうなら「女房の嫉妬で殺された」と見られ、それ以外にも切腹せざるを得なかった理由に「領内で流行った亡国の踊りに現を抜かした。」だの、「鷹狩りに獲物が獲れなかった腹癒せに通りすがりの僧侶を殺した。」だの、と乱行と呼ぶには「如何にも」な話まで付随しているのである。

 こんなネタ塗れに死因を囁かれる存在が他にあるだろうか?

 父・家康が今川と断交し、織田についたために、父は今川に血縁を持つ母との夫婦仲を冷え込ませ、織田の姫を娶らされた為にその織田絡みで信康は命を落とすこととなった。
 だが、信康の死後、三年もしない内に信長も本能寺の変にて命を落とし、その後二年を経ずして織田家は天下を取る覇者としての家格を失った。
 信康が父と対面させた次弟・秀康も徳川家を継げず、最終的に秀忠が継いだところで『将軍家』となった徳川家に在って、信康はそれ以前の人間として、墓も質素なものしか造って貰えなかった(手前は切腹を賜った罪人ということもある)。

 家康に勘当された六男・松平忠輝が、平成の世になって徳川宗家から勘当を解かれた様に、そろそろ信康も「切腹させられた罪人」としての立場を解かれ、上野寛永寺か、芝増上寺にて弔えないものだろうか?


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令和三(2021)年五月二一日 最終更新