第陸章 織田信忠…他家の子との比較と横死が招いた軽視

名前織田信忠(おだのぶただ)
家系尾張織田家嫡流(最初は庶流)
織田信長
吉乃(生駒氏・信長正室濃姫の付き人)
生没年弘治三(1557)年〜天正一〇(1582)年六月二日
極冠従三位左近衛中将
政敵徳川信康、明智光秀
見舞った不幸信長からのスパルタ教育、許婚実家との確執、本能寺の変
生涯
 日本史上の超有名人物にして、時に「戦国の風雲児」と讃えられ、時に「第六天魔王」と悪名を囁かれた織田信長の嫡男として生まれ、「奇妙な顔をしている」という信長の感想で、そのまんまに「奇妙丸」と命名された。
 ひどい親父である信長は。

 弘治三(1557)年、奇妙丸は尾張に生まれた。母は生駒氏とも、信長正室・濃姫の侍女とも云われるが、諸説紛々ではっきりしない。
 永禄一〇(1567)年、武田信玄の末娘・松姫と婚約したが、武田家との同盟関係はすぐに瓦解したため、二人は文通のみで終生会うことはなかったが、松姫は死ぬまで信忠だけを想い続けた。


 元亀三(1572)年、一六歳で元服し、初めは勘九郎信重と名乗ったが、後に信忠に改めた。
 初陣は江北にて飾るが、この初陣以後、長篠の戦いまで常に父・信長とともに各地に転戦した。

 天正二(1574)年四月に従五位下に叙され、天正三(1575)年二月に出羽介、六月に正五位下・出羽介如元、一一月秋田城介と昇進し、同月、初めて総大将として岩村城を攻め、これを陥落させ、武名を挙げた。

 天正四(1576)年、父・信長より織田家の家督と、美濃・尾張を譲られ岐阜城主となり、官位も一月に従四位下、八月に従四位上、一二月に左近衛少将を拝命した。

 天正五(1577)年には一月に正四位下となり、二月に雑賀攻めに従軍し、三月に雑賀孫一を降伏させ、八月には戦国最悪の梟雄・松永久秀討伐の総大将となり、明智光秀・羽柴秀吉を率いて一〇月一〇日に松永を大和信貴山城にて自害に追い込んだ(ちなみにこの日は松永が大仏を兵火にかけた日で、世の人々は松永に仏罰が当たった、と噂した)。
 そして信忠は五日後にこの功で従三位左近衛中将に昇進したことで、以後、信忠はこの官位と領地から、三位中将岐阜中将の通称で呼ばれることとなった。

 天正六(1578)年には信長の命で明智光秀、丹羽長秀、滝川一益等を率いて播磨上月城救援に向かい、途中、羽柴秀吉も合流した。
 だがこの戦いは膠着状態に陥り、信長の命で三木城攻略を重視したため、上月城の尼子勝久は見殺しにされた形となり、毛利元就に降伏した。

 天正一〇(1582)年二月三日、武田討伐に河尻秀隆、滝川一益以下五万の兵を率いて出陣。
 当初は婚約者・松姫との縁から武田家と戦うことの消極的だった信忠だったが、再起不能なまま誰かに滅ぼされるなら自分の手で決着をつけようとしたのか、伊那方面から進撃した信忠は飯田城・高遠城を落とし、父・信長の甲斐入りを待たずして三月一三日、天目山に武田勝頼・信勝父子を自害せしめ、武田一族や重臣達の多くを討ち取ったり、補殺したりした。
 武田家残党を徹底的に追い詰める一方で信忠は、高遠城攻めの折には松姫の同母兄・仁科五郎盛信(信玄五男)だけには降服勧告を行ったり、戦を避けて八王子に避難していた松姫に改めて妻に迎えたい旨の使者を送ったりしてもいた。

 三月二六日に甲斐に入った信長は、信忠の働きを大いに褒め、梨地蒔の腰物と「天下の儀も御与奪」という言葉を贈り、安土に凱旋後、征夷大将軍にも太政大臣にも関白にも任じる、という勅使に対して、自身の身分に対する回答は明らかにせず、信忠を征夷大将軍に任じればいい、という旨の回答をした。

 六月二日未明、中国地方にて毛利輝元と戦う羽柴秀吉の救援に向かう為、京都・妙覚寺に宿泊していたところへ明智光秀の謀反―所謂、本能寺の変−が起きたことを知り、信長自刃の知らせを受け、明智勢を迎え撃つ為、弟の源三郎勝長、京都所司代・村井貞勝とともに二条城に籠り、奮闘するも衆寡敵せず、城主であった皇太子・誠仁親王を脱出させた後に勝長と共に自害して果てた。織田信忠享年二六歳。

 八王子から美濃に向かおうとした松姫は、信忠の横死を知ると八王子に戻り、出家して兄・盛信の遺児の養育と、信忠と武田一族の菩提を弔う日々の中に人生を終えた。
 織田家の家督は明智光秀を討ち取った羽柴秀吉が主導し、信忠の嫡男・三法師(秀信)が継ぎ、秀吉がこれを後見したが、すぐに秀吉の方がその上風に立ち、関白として信忠の弟達の行く末を翻弄したのは周知の通りである。



嫡男たる立場
 織田信長の正室・濃姫(斎藤道三娘)は子供を産まなかった。この濃姫も有名な割には謎の多い女性でいつ死んだのかさえはっきりしないが、子供が産めない事が比較的早期にはっきりしていたらしく、側室・吉乃が産んだ奇妙丸は早い内に濃姫が養母となり、正確には「庶長子」であったが、奇妙丸は事実上の「嫡男」として育てられた。
 この辺り、三番目に生まれても母が正室だったことから、あっさりと兄・信広を差し置いて「嫡男」となった信長と対照的であった。

 奇妙丸、元服して信忠が他の兄弟達と比して、別格の扱いを受けていたのは様々な史実からも明らかである。
 勿論、必要とあれば誰に対しても冷酷非情になれる信長(←注:褒めているのである)のこと、嫡男だからと云って溺愛したり、甘やかしたりした訳ではなく、嫡男には嫡男の、弟には弟の辛さはあったのだが。

 信忠の弟と云えば、信長の次男・信雄、三男・信孝、四男・秀勝、五男・勝長、他多数がいるが、信長の生前に元服を済ませていたのは勝長までなので、彼等と比較すると二点、待遇に大きな違いがあった。
 一点は身の回りの整理整頓であった。
 信長は、信雄以降の息子達には身の回りの雑用を自分でさせたが、信忠にはさせなかった。
 例を挙げると、食後の膳の片付けにしても、信雄達は家来がいても「自分のことは自分で」させられたのだが、信忠の膳の後片付けは側近がやったのであった。
 現代で云えば、力士の世界で、幕内力士はちゃんこ鍋の後片付けを付き人がやるが、幕下力士は自分でやらなければいけないようなものかな?(←一回しかそういう風景を見たことがないので記憶が定かではない)
 芝居がかった台詞でいうなら、「雑用なるもの、織田家の後継者がわざわざやることにあらず。されども家臣に過ぎない弟達は自らの手でやるべし。」と云ったところであろうか。

 もう一点は養子縁組であった。
 周囲を敵に囲まれた信長は、徳川家康を初めとする周辺勢力との連合離間を余儀なくされ、戦国の常として、息子や娘達はその手駒とされ、養子縁組や政略結婚に利用された。
 冷酷非情の様に見えて信長は実は娘に甘く、実の娘は徳川信康に嫁いだ徳姫を例外として、すべて重臣達に嫁がせ、武田勝頼のようにいつ敵になるか分らない他の大名家には養女を嫁がせていた。信長の意外な一面であるが、息子には厳しかった(笑)。

 次男・信雄は伊勢南部・北畠具房(きたばたけともふさ)の、三男・信孝は伊勢北部・神戸具盛(かんべとももり)の、四男・秀勝は重臣・羽柴秀吉の、五男・勝長は武田信玄の養子となっている(もっとも、勝長の場合は落城の際に拉致された人質に近く、全く信長の本意ではなかったのだが)。
 勿論、信雄・信孝にはそれぞれの養家の乗っ取りが秘かに命じられており、一歩間違えばいつ殺されてもおかしくない立場に置かれたとも云え、勝長にしても生きて信長の元に帰れたのは奇跡に近かった(信忠の婚約者・松姫の口添えを、勝頼が聞き入れてくれた可能性が高い)。
 そして意外なことに、形式的なものとはいえ、信忠も実は養子入りしている。

 信忠の養家は斯波氏である。
 話が逸れるが、そもそも、織田家は、天下人はおろか守護大名にさえほど遠い家系だった。尾張は室町幕府管領家にして越前守護を兼ねる斯波氏が守護だった。
 しかしながら戦国のお約束で斯波氏の力が衰えると、守護代で尾張上四郡を収める織田伊勢守家と下四郡を治める織田大和守家が勢力争いを繰り広げるようになり、大和守の家臣である三奉行の一人が信長の父・信秀だった。
 そして下剋上で持って信秀が尾張統一の地盤を築き、信長の代にそれは達成したのだが、形式の上では主従関係は続いており、信長は、主君の主君である斯波義銀(しばよしかね)を傀儡として、大義名分の旗頭として利用しまくった。

 そして時を経て、信長が足利義昭を奉じて上洛し、義昭が第一五代征夷大将軍に就任すると、義昭は信長に斯波氏の家督を与えた。
 つまり、将軍就任を深く感謝していた義昭(←後々の両者の関係からは想像し難いが事実である)は、信長の織田家を主君の主君の家格に昇格させようとしたのである。
 信長はそれを辞退したが、実態はなくとも昇格の事実はつかんでおきたかったのか、嫡男・信忠に斯波家の家督を継がせた。

 実際に信忠が「斯波信忠」と名乗った訳ではないが、弟達の養家とは別格の家格を継がされていたのである。嫡男でなくては決して在り得なかった話である。

 このこと以外にも、信忠は岐阜城主となる前年になるまでは総大将の任を与えられず、常に信長の側で総大将としての心構えは学ばされ、前述した様に、形の上では織田家の家督を譲られ、岐阜と尾張の支配も行っていた。
 そして天正九(1581)年に信長が京都にて御馬揃え(閲兵式)を行った際は、信忠を織田一門の序列一位に置き、誰の目にも信忠が織田家嫡男であることは明らかだった。

 勿論、信長・信忠父子が本能寺の変で横死したことが、清州会議(信長後継者と遺領分配が重臣達の間で話し合われた)を紛糾させたのも信忠の立場と無関係ではない。
 信忠が生きていれば会議そのものが必要なかったし、信雄・信孝が明らかに信忠よりも格下の扱いだったために羽柴秀吉・柴田勝家は大きな発言権を持ち得、信長嫡孫にして信忠嫡男である三法師が継ぐこととなった。
 本能寺の変後に信長の仇を討った秀吉の発言権の大きさが勝家による信孝擁立を封じたのも事実だが、「血統から三法師が継ぐべきである」との論は全くの正論で、これも信忠の立場があってのことだった訳である。


 最後に余談。
 戦国時代、武将達は元服の際に父親・主君・土岐の将軍の偏諱を受けた名を名乗ることが珍しくなかった。信忠の父・信長にしても、息子以外に丹羽長秀・黒田長政・奥平信昌・前田利長・金森長近等に自らの名乗りの一字を与えているが、これは「父親」か「主君」という立場がないと出来ないことだが、細川忠興が信忠より偏諱を受けている。
 これなども信忠が織田家の主人という立場を(形式上とは云え)持っていたことを示すものと云えよう。



同情すべき悲運
 まあ、あの信長を父に持っただけでも「大変だな……。」との同情は即座に生まれる(笑)。幸・不幸は別問題だが。

 織田家の、信長の跡取りとして、織田信忠は当然のように厳しく育てられた。
 明確な記述を観た訳ではないが、あの信長のこと、信忠に至らざる面がれば殴る蹴るの制裁を加えていたとしてもおかしくない。
 現代では親に殴られたことのない子供も増えたようだが、昭和四十年代に生まれた道場主の世代には親に殴られたことのない子の方が珍しかった。
 勿論道場主も父上に殴られたことは何度もあるし、ひどく怒られた際には蹴りも入れられた。しかしながら、「万一を考えて決して拳骨では殴らない。」、「息子を殴らざるを得ない落ち度と、息子の痛みを忘れない為に、どんなに痛くても必ず自分の手で殴り、道具は使わない。」を守り通したのは父上らしかったのだが。

 話が逸れたので戻すが、折檻の具体的描写はともかく、信長・信忠父子にも親子喧嘩は見られる。
 そしてそれは信忠が嫡男であればこそ、のもので占められる。
 何せあの短気でいつブチ切れるか分らない信長が親父なので、二六歳の若さで世を去り、史上の活躍が目立ち辛い信忠はワンマン主君でありワンマン親父だった信長に忠実だったイメージが強いが、どうしてどうして、そんな柔なタマではなく、さすがに信長の血を引いた独断専行ぶりを見せている。

 播磨三木城攻めでは信長の督戦に従わず、信長に面と向かって抗弁し、武田征伐でも「深入りは避けよ。」との信長の命に逆らって、信長の甲斐到着の前に武田一族と主だった重臣達を徹底殲滅した。
 が、一方で信長はそんな信忠を褒めている。まあ、並の親子ではないな、やはり(苦笑)。
 余談だが、この親子、能の趣味を巡って口論し、信長が信忠の能の道具を取り上げたなんて話もある。「子供のおもちゃを取り上げる父親」という現代にも通じる構図が微笑ましい(←そうか?)。


 何せ「信長の嫡男」であったがために信忠は様々な意味で「普通の男」であることが許されなかった。
 ある日、信長が重臣達に信忠の後継者としての器量を問うたところ、重臣達は信忠の文武・政治の才を褒め称え、信忠を評して「我々の期待通りに動いて下さる有り難い方」としたが、信長は苦虫を噛み潰したような顔をした。

 信忠に対する前述の二つの家臣評は、信長に云わせると、決して褒めるに値するものではなかった。
 前者の才能に関しては、「見た目だけの器用者など、愚か者と同じ。」ということになり、後者は「家臣に簡単に考えや行動を読まれるようでは自分の覇業は継げない。」ということになる。
 随分な云われ様だし、そう云われてしまう信忠の立場には同情を感じる。
 ただ信長の云っていることは暴論でもなんでもなく、「信長の跡取り」として見られた信忠に対する意見であることを見落としてはならない。
 恐らく、只の武将や大名の跡取りなら信忠も家臣の評価通りの名君でよかったのだろう。
 後継ぎ息子とは、必然的に父親から自分を上回る存在になることを求められるが、信忠の父・織田信長は、日本史はおろか、世界史上でも才能的にも人物的にも稀有な存在で、それを超えなくてはならないとは一筋縄ではいかず、それこそ天下統一より難しいことかも知れなかった。
 徳川秀忠が早々に「自分は父には遠く及ばない。」と断じて守成の業に入った話も無理からぬことで、もっと長生きしていれば信忠の晩節も、歴史上の評価も違ったものとなっていただろうけれど、それは歴史に禁物である「if」の話となり、いずれにしても信忠への同情の一大要因として信長を父に持ったことがいの一番に挙げられる。
 勿論、信長の息子に生まれたがゆえに恵まれたことも多数あったことを考慮から外してはいけないが。


 織田信忠の悲劇の一つに、松姫との婚約破棄がある。
 前述したが、信忠と松姫は織田家と武田家の断交により婚約と文通のみで一度も対面していない。しかし、両者の間には文通のみの交際や政略婚約とは思えない程の精神的に強い結びつきが生まれていた。
 武田義信程ではなかったが、信忠は武田と事を構えることに対し、事あるごとに信長に異論を唱えたが、信長が聞き入れる訳はなかった(苦笑)。
 信忠と松姫の純愛振りは見ている方も辛かったのか、松姫の同母兄・勝頼・盛信も多いに同情し、岩村城陥落の折に捕らえた織田勝長を一応は信玄の「養子」とし、義理の姉弟として松姫と勝長は骨肉の争いの渦中にある武田家の中で互いを励まし合った。

 最終的には武田家殲滅を避けられないとの覚悟を固めたのか、信忠は「他の者の手に掛けさせるよりは自らの手で。」と考えたものか、武田討伐の先陣を切り、信忠の意を知ってから知らずか、非戦から好戦に転じた信忠を信長も大いに喜んだ。
 これは昭和六一(1986)年〜昭和六二(1987)年にかけて大映テレビで放映された『おんな風林火山』をリアルタイムで観ていた道場主の記憶によった推測だが、例え外れていたとしても、大きく外れたりしてはいないと思っている。

 その証拠として、天目山の戦いの折には降伏してきた武田信廉、武田信豊、小山田信茂達を騙し打ち同然に殺している信忠が、松姫の同母兄で、何かと彼女を気遣った仁科五郎盛信だけはその命を助けようとして、五万の兵を率いて高遠城を包囲した際に僧侶を降服勧告の使者として城内に送っている。
 対する盛信率いる城兵は三〇〇〇に満たず、緒戦を飾るには手頃な相手だったが、盛信は勧告状を破り捨て(ドラマでは描かれなかったが、史書では盛信は使僧の耳を削いで追い返している)、家臣達と水杯を交わして無勢に関わらず多勢相手に最後の最後まで奮戦し、自害して果てた。
 穴山梅雪、木曽義昌、武田信廉、武田信豊といった親類達の多くが頼りにならなかった中、盛信と旗下の将兵だけが華々しい最期を飾り、脆い滅亡を見せた武田家の屈辱を僅かに慰めた、と云えよう。

 全然関係ないが、仁科盛信の官職名は「薩摩守」で(笑)、前述の『おんな風林火山』で盛信を演じた俳優は岡野進一郎氏は、現在では失礼ながら小太りな体格もあってTBSの『水戸黄門』『怒れ!求馬』では小心だが人のいい役柄を良く見かけるが、この時の岡野氏が演じた盛信は最初から最後まで非常にカッコ良かったのを覚えている。

 武田家滅亡後も信忠の松姫への愛は変わらず、八王子に避難していた松姫を迎える為の使者を出していた。
 このとき信忠は父・信長の命で妻子持ちとなっていたが、正室は迎えておらず、松姫も実家滅亡の悲しみは別個のものとして、信忠と晴れて夫婦となることに胸を躍らせたが、直後に悲惨の一言では片付けられない悲運が信忠を襲った。
 早い話、本能寺の変である。
 歴史の結果を既に知っている後世の立場から信忠に対して云いたくなるのは、「逃げればよかったのに。」である。
 実際、突然の謀反で、信長の不意を突くことが出来たのは事実だが、明智光秀は京都の封鎖までは手が回らず、織田有楽・前田玄以は脱出に成功し、堺見物に来ていた徳川家康が伊賀越えで畿内を脱出するのを止めることも出来なかった。
 だが、この変勃発の段階で明智勢がどこまで京を制圧しているかは信長にも信忠にも分からず、「光秀は女子供や公家までは殺さないが、奴が手配したなら逃げ道はあるまい。」との予測から信長も信忠も早期に脱出を諦めている。

 確かに信長に逃げる道はなかった。
 だが、信忠は妙覚寺から本能寺へ向かうか、引き返して二条城に籠るまでには逃走の好機は充分に有った。
 だが、結論として信忠は戦いの中に果てることを選び、結果、松姫とも添い遂げられず、自らが生き残れなかったことで、変後の織田家の天下人としての家格を完全になくしてしまう一因となってしまった。
 そしてこのことが織田信忠の後世の人物評を不当に貶めることともなった。

 二六歳の若さで世を去り、家督はともかく、権力者としては信長の後継者としての手腕を振るえなかった信忠は、長く信長の後継者たり得なかった凡将のように云われ、織田家の力を無くさせた元凶のように云われ、「信長が盟友・徳川家康に嫡男・信康に武田内通の濡れ衣を着せて切腹させたのも、信忠が信康に劣る器量だった為に、信長が信忠の将来を憂えてここまでした。」との説まで囁かれた。
 確かに信長と比較されては堪ったものじゃないが、信忠がそれなりの才と人望を持っていたことはここまでこのサイトを読んで下さった方々には容易に想像出来ることと思うし、織田信忠評は近年、確実にまともなものになりつつある。

 信忠以上に馬鹿息子扱いされている弟・信雄や、本能寺の変の逃げっぷりから京童達に「人ではない」と揶揄されながらもしぶとく生き残り、子孫を残した叔父・織田有楽の余生を、草葉の陰で信忠はどんな気持ちで見ていただろうか?


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令和三(2021)年五月二一日 最終更新