第漆章 真田信之…父と兄と子と孫の為に生きた九三年

名前真田信之(さなだのぶゆき)
家系信濃海野氏傍流真田家の嫡流
真田昌幸
寒松院(宇喜多頼忠娘)
生没年永禄九(1566)年〜万治元(1658)年一〇月一七日
極冠従五位下伊豆守
見舞った不幸父弟との望まぬ対立、権力者からの白眼視
生涯
 武田信玄最後の弟子にして「表裏比興の者」と呼ばれた真田昌幸の嫡男として生まれた。幼名は源三郎
 父・昌幸は武田信玄に仕えて真田家を起こした真田幸隆の三男で、当初、真田家は源三郎の伯父である信綱が継いでいた。
 昌幸は信玄の命で、血統の途絶えていた甲斐源氏の名家・武藤氏の名跡を継いでおり、武藤喜兵衛と名乗っていたので、源三郎も、武藤源三郎として育てられた。
 真田家は元々が信濃の豪族だった為、昌幸も源三郎も公式な立場は人質だったのだが、信玄からは父子ともども多いに可愛がられた。

 しかし、天正年間に入ると真田家の不幸が始まった。
 新参者であり、外来者でもある真田家を深く信頼してくれた武田信玄が天正元(1573)年四月一二日に陣没すると、意気消沈した祖父・幸隆が信玄の後を追う様に一年と一カ月と一週間後の天正二(1574)年五月一九日に病没。
 その一年と二日後である天正三(1575)年五月二一日に、長篠の戦いで伯父・信綱と、同じく伯父・昌輝(幸隆次男)が共に織田・徳川軍との乱戦の中に果てた。(妙なタイミングで不幸が続くなあ…)
 そのため、期せずして父・昌幸が真田姓に復し、源三郎真田源三郎となった。


 天正七(1579)年に一四歳で元服。  この元服は武田勝頼の嫡男・武田信勝のそれと同時に行われたもので、信勝の「」の字と、真田家において頻繁に使われる「」の字を与えられ、真田信幸となったが、姓も名前も主君も落ち着かない人生は続いた。
 天正一〇(1582)年に滅亡間近の武田家において、父・昌幸は信濃にて勝頼父子を迎え入れようとしたが、周囲の家臣が信濃者である真田よりも、歴代の家臣である小山田氏が治める郡代への落ち延びを勧めた。
 しかしながらこの小山田家が(信茂本人の本意ではなかったのだが)裏切り、勝頼は三月一一日に天目山に自害し、勝頼から信濃の昌幸を頼ることを勧められた信勝も父と運命を共にすることを選んだ。


 武田家が滅亡すると、昌幸は織田氏に臣従し、本領を安堵されたが、それも束の間だった。
 僅か三ヶ月後の六月二日に織田信長も本能寺の変に死し、甲斐・信濃は織田、徳川、北条、上杉、武田家残党、信濃国人衆による群雄割拠状態となった。
 詳しく書くと長くなるので端折るが、織田が倒れると昌幸は北条氏直と結び、やがて徳川家康について沼田を支配した(この時信幸は八〇〇の兵で北条勢五〇〇〇が籠る手子丸城を一日で落とした)。
 だが、沼田を巡る諍いから今度は上杉景勝と結んで戸石城にて寡兵でもって徳川勢を破り、真田の武名を多いに挙げた(天正一三(1585)年閏八月二日)。

 これに前後して小牧・長久手の戦いが羽柴秀吉と徳川家康の間で勃発すると、真田は天正一三年に関白となった豊臣秀吉に臣従した。
 その後、豊臣と徳川で和睦が成立すると、秀吉の仲介で天正一七(1589)年に真田家は徳川の与力大名となり、真田家の立場に一時の安定がもたらされた。
 家康は自分達を苦戦させた真田家を高く評価し、信幸を自らが在住する駿河に出仕させ、後に重臣・本多平八郎忠勝の娘・小松姫を家康の養女として、信幸に娶せた。時に真田信幸二四歳。


 天正一八(1590)年の北条討伐では父・昌幸に従って上野から関東を攻めるルートを弟・幸村(本名は「信繁」だが、通称の方が余りにも有名なので本作では「幸村」で通す)、前田利家勢、上杉景勝勢と共に進んだ。
 この戦いで松井田城攻めに功のあった信幸は戦後、沼田城主の地位を保証され、文禄三(1594)年に従五位下・伊豆守の官位が与えられ、朝鮮出兵では秀吉に従って肥前名護屋城に駐屯したが、渡海はしなかった。


 やがて秀吉が没し、慶長五(1600)年、上洛命令に応じない上杉景勝討伐軍が編成され、徳川家康率いる討伐軍に昌幸、信幸、幸村も従軍したが、途中の下野小山で、石田三成が家康打倒の挙兵を行ったとの報がもたらされ、家康は諸大名にその去就を問うた。
 予め、黒田長政を通じて根回しされていた福島正則が家康への合力と三成への非難の声を挙げると、堰を切ったように同調の声が上がったが、これは現在に通じる日本人らしさに思えてならない(事の是非は別として)。
 だが、その裏で中小大名は親子が分かれて東西に味方し、どちらかが敗れてもどちらか生き残り、最悪でも御家を存続させるための苦肉の策を練った。勿論真田家も例外ではなかった。

 親子三人が下野犬伏で話し合った結果、家康養女を娶っている信幸は東軍につき、西軍の重鎮・大谷吉継の娘を娶っていた弟の幸村は父と共に西軍につくこととなって、昌幸と幸村は上田に引き返した。
 親子がわざと敵味方に分かれることで、どちらが勝っても家が残るのは保元の乱以来の武家の常套手段だが、これは同時に、どちらが勝っても御家から戦死、刑死、その他の処罰を受ける者を出すことが避けられないことも意味する。戦国の悲しい習いであった。

 小山会議の結果、本来討伐する予定だった上杉景勝には結城秀康、伊達政宗、最上義光を抑えに残し、東軍は東海道を進む家康隊と中山道を進む秀忠隊に分かれた。
 信幸は秀忠隊に従軍し、途中の上田にて父、弟の軍と戦うことになった訳だが、このとき昌幸・幸村父子の見事な采配に翻弄された秀忠が何日も上田に釘付けにされた揚句、とうとう城を落とせないままに関ヶ原に向かったが、天下分け目の戦いに見事に遅参してしまうことになったのは有名である。


 ともあれ、関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わった。
 戦後の論功行賞で信幸は沼田に三万石の加増を受けて上州上田藩九万六〇〇〇石の初代藩主となった。
 勿論信幸がまず行ったことは父と弟の助命嘆願で、加増辞退と子々孫々の徳川家への忠誠を誓って必死に二人の助命を懇願した。
 岳父・本多忠勝の口添えもあって、一応、助命の願いだけは聞き届けられ、加増分も安堵され、昌幸と幸村は紀州高野山・九度山への流罪となった。
 信幸は助命に対する感謝と徳川家への忠誠の証として、真田一族で頻繁に使われる「」の字を捨て、以後、「信之」と名乗った。


 昌幸・幸村父子は徳川家から難敵と見做され、慶長一六(1611)年に昌幸が配流先の九度山にて天寿を全うした後も監視の目は注ぎ続けられた。
 それでも幸村は上手く九度山を脱出し、大坂冬の陣夏の陣に家康の心胆寒からしめる大活躍の果てに華々しい戦死を遂げた様に、徳川の敵であり続けた。
 だが、それにより信之一家の立場がまずくなることもなく、戦後元和八(1622)年に、信之は松代藩一三万石への加増・移封となり、旧領の沼田三万石もそのまま安堵された。
 尚、信之は病気のために大坂の陣には参戦しなかったが、長男・信吉と次男・信政が従軍しており、大坂冬の陣では秀頼に味方しかねないと見られた福島正則、加藤義昭、黒田長政が江戸城の留守居(は名目で実は人質)を命じられたが、信之にはそのような指示はなかった(ちなみに正則一人だけ夏の陣の参戦も許されなかった)。
 豊臣恩顧系の中でも信之本人は江戸幕府から信頼されており、信之も今度は弟への懐柔も助命嘆願も行わなかった。


 明暦元(1656)年に信之は九一歳(!)で隠居。しかし当時としては驚異的に長く生きた為、嫡男・信吉と、そのまた嫡男で自身の嫡孫である熊之助に先立たれており、次男の信政が継いだ。
 だが、二年後の万治元(1658)年二月に信政にも六一歳で先立たれた。そのため家督は信吉の次男・信利と、信政の六男・幸道が幕府や縁戚大名を巻き込んだ騒動となり、結果、松代藩は幸道が松代藩一〇万石の第三代藩主となり、信利は独立した沼田藩三万石の藩主となった。
 信之は孫であり、二歳の幼主・幸道の後見人として藩政を執ることとなったが、長寿も限界がやって来て、同年一〇月一七日に逝去した。真田伊豆守信之、享年九三歳。世は既に四代将軍・家綱の御世だった。


 遺骸は後々真田家の菩提寺となる真田山長国寺(現:長野県長野市松代町)に葬られ、明治維新まで大名として存続(信之の血統そのものは途中で断絶)し、維新後は子爵(後に伯爵)となった真田家の歴代当主と共に眠っている。
 平成一〇(1998)年に道場主はこの長国寺を訪れており、真田家歴代当主の墓に詣で、現当主予約席が既に存在することに同行した親友と苦笑いした記憶がある。



嫡男たる立場
 御家存続の為に、立場上では親子・兄弟で戦い続けた真田信之だったが、心情では常に父と弟を想い続け、その想いは周囲も全く非難せず、昌幸・幸村を天敵とした徳川幕府さえ例外ではなかった。
 だがそれゆえに苦しい後半生を送ったことも間違いない。

 豊臣秀吉による天下統一までの真田家の立場も武田、織田、徳川、北条、上杉の狭間で複雑な外交と知謀の限りを尽くさなければならない苦難の日々だったが、まだ一族は一つだった。
 信之は幼少の頃から父・昌幸同様に武田家の人質となったが、その実態は主君の側での現地常駐の様なもので、むしろ厚遇されていたとさえ云えるものだった。
 武田家滅亡後、信之は真田家の大事な跡取りとして苦難のときにも人質となることはなく、弟・幸村が上杉景勝や豊臣秀吉の人質となっていた。
 この嫡男と次男の立場が後々真田家の存続を図ってクローズアップされ、利用されたがために一族が共にあれなかったのは皮肉である。


 関ヶ原の戦いの為に、徳川追従の立場から父・弟と袂を分かった信之だったが、彼の妻・小松姫も夫の苦しい立場をよく理解し、夫と苦楽を共にした。
 関ヶ原の戦いの直前、昌幸が下野から上田に戻る途中で信之の居城である沼田城に立ち寄って、信之の子供達=昌幸の孫達に会おうとしたが、小松姫は武装して門の上に立ちこれを拒絶した。
 勿論意地悪でやったのではない。立場を重んじたもので、小松姫は夫の留守を預かる身として、敵となった義父を城内に入れられない旨を強く訴えた(流石、平八郎忠勝の娘である)。
 だが、直後に小松姫は城外で義父と子供達が面会することを許可した。
 流石の昌幸も驚き、従う他なかったが、立場は立場として守るべきを守り、それでも一族の信頼と情愛を損ねなかったのだから見事なものである。

 また、この直後に信之が秀忠の先方として信濃に進撃した際、戸石城を守っていた幸村は兄と戦うのを避けて上田に退いている。
 敵味方に分かれても、身内として出来るせめてもの配慮だったのだろうが、これまた切ない。


 かように信之も軍事や政治ではどこまでも徳川家への、江戸幕府への忠誠を貫いた
 だが、前述した様に関ヶ原の戦い直後には父・昌幸と弟・幸村の助命嘆願(両者は一度死罪を宣告されていた)を必死になって行った。
 九度山流罪後も、配流先で苦しい生活を送っていた父に物資を送って援助したり、一年おきに人を遣わして様子を見させたり、昌幸死後に、最後まで昌幸の面倒を見てくれた直臣達を真田家に帰参させたりした。
 公式にはともかく、家中にあっては立派な嫡男であり、明治維新まで続く真田家の起訴を磐石に築き上げたのであった。



同情すべき悲運
 何と云っても、真田信之の悲運は戦国の常で親子・兄弟で敵対する立場に立たざるを得なかったことに尽きる。それでも最低限父の命は守ることが出来、立場はともかく、心情的には互いを想い続けたのだから、まだマシかも知れない。

 別視点で語るなら、実弟・幸村の方が戦国最後の戦に華々し過ぎる活躍をしたことや、軍人としての活躍が能力の割には目立たないことや、日本人独特の判官贔屓もあって、能力的には決して、祖父・幸隆、父・昌幸、弟・幸村に劣らないのに信之の影は薄い。
 殊に御家を確実に出世させながら父の命を守り通し、晩年の改易になってもおかしくない御家騒動を一歩手前で防ぎ切った御年九三歳の奮闘は卓抜している。
 しかし幸村の反則なまでの目立ち方 (苦笑)の前に信之の名は影の薄いものとなっているが、これは信之にとっては瑣末な問題だろう。寧ろ幸村が歴史に燦然たる武名を残す人生を送らざるを得なかったことに対する悲しみの方が深かったのではあるまいか?


 そして、その父や弟に絡む苦難も信之への同情として挙げられる大きな要因である。
 豊臣秀吉をして「表裏比興の物」と云わしめ、家康をも恐れさせた傑物・真田安房守昌幸も寄る年波と、困窮極める流人生活に疲れ果てたものか、信之の援助に対する礼状の中で、幕府重鎮・本多正信への赦免取り成しを依頼していた(←流石年を取っても見る眼は確かだ)。
 だが、信之が具体的に動いた形跡はない(見えないだけかも知れないが)。
 実際、信之は自らの子々孫々と、今度こそ父・弟を死なせない為に、徹底的に幕府に気遣う必要があり、名前を「信幸」から「信之」に改めたのもその表れだった。
 だが、昌幸・幸村の為に関ヶ原の戦いに遅参する羽目になり、一時は後継者の立場を失いかけた徳川秀忠の真田一族に対する嫌悪感は大きく、秀忠は終生信之と眼を合わそうとしなかった、と伝えられている。
 また、昌幸が没した際に信之は遺骸を引き取って葬儀を行う許可を幕府に求めたが、許されなかった。
 まあそれでありながら大坂の陣直後の豊臣恩顧の大名家に対する粛清の嵐の中を危なげなく生き延びたのだから、やはり信之は大したものである。


 この作品で取り上げる人物の中で、骨肉の争い、という意味での不幸度は小さいが、立場的な問題では嫡男として最も苦しんだのがこの真田信之ではないだろうか?と薩摩守は見ている。
 となると、能力に比して史上でその名が小さく扱われていることもまだ信之の人生の不幸色を薄めているのかも知れない。薩摩守は歴史に名前を残す野望を持っているが、戦国大名の様な残し方はしたくないものである。


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令和三(2021)年五月二一日 最終更新