第玖章 徳川家光…「生まれながらの将軍」は不幸か?生母と乳母との狭間で

名前徳川家光(とくがわいえみつ)
家系江戸幕府将軍家嫡流
徳川秀忠
崇源院(浅井長政娘・お江与)
生没年慶長九(1604)七月一七日年〜寛弘七(1651)年四月二〇日
極冠征夷大将軍・従一位左大臣・左近衛大将
政敵徳川忠長
見舞った不幸生涯病弱、両親からの冷遇、数々の同性異性問題、弟との確執
生涯
 徳川幕府第二代将軍徳川秀忠と、その正室で浅井三姉妹の末娘であお江与の方(お江・小督・達子とも呼ばれるが、諸説紛々。本作では以下、「お江与」で統一)の間に、第五子にして待望の嫡男として、慶長九(1604)年七月一七日に江戸城に生まれた。
 父・秀忠が征夷大将軍の位を祖父・家康より譲られたのは翌慶長一〇(1605)年のことだが、この時点で秀忠の将軍職世襲はほぼ内定しており、このことから徳川家光が将軍就任時に諸大名の前で自らを「生まれながらの将軍」と称して睥睨し、威厳を見せんとしたエピソードは余りにも有名である。
 実際、家光に与えられた幼名は祖父・家康と同じで、松平家・徳川家の嫡男の専売特許である「竹千代」だった。


 明智光秀の重臣・斉藤利三の娘・お福(後の春日局)が乳母となり、小姓にはお福の次男・稲葉正勝や、松平信綱といった者達が選ばれ、後々も家光の側近を務めることとなった。
 慶長一〇(1605)年に祖父・家康が在位二年で征夷大将軍の地位を父・秀忠に譲り、世に対して将軍位を徳川家が世襲することが告げられ、早くも竹千代が三代将軍候補と見られるようになった。

 慶長一一(1606)年に弟・国千代が生まれると、両親、取り分け母であるお江与は、生来病弱で人見知りの激しい竹千代より、自分の手元で育て、風邪一つひかない国千代を次第に偏愛するようになり、廃嫡の危機が迫った。
 これを見かねたお福は大御所となっていた家康に直訴し、江戸の赴いた家康は竹千代を膝元に招いて菓子を与えたが、同じように菓子を貰おうと近づいてきた国千代を怒鳴りつけて、長幼の序と、二人が家に在っては兄弟でも、将軍家に在っては君臣であることが宣言され、竹千代が秀忠の跡取りであることが確固たるものとされた。

 続いて家康は土井利勝・内藤清次・青山忠俊を竹千代の帝王学の師と定めた。家康自身は元和二(1616)年四月一七日に薨去したが、遺言は守られ、一ヶ月後に前述の三人は竹千代付きの年寄となり、元和三(1617)年に竹千代は西の丸に入ることで、第三代将軍であることが誰の目にも明らかにされた。


 元和四(1618)年に勅使を迎えることで初めて公式の場に立ち、元和六(1620)年一月五日に正三位に叙され、同年九月七日、元服して徳川家光と名乗ることとなり、同時に従二位・権大納言に叙された(同日、弟・国千代も元服して徳川忠長と名乗った)。

 元和九(1623)年三月五日に右近衛大将兼右馬寮御監となり、同年六月に父・秀忠と共に上洛し、七月二七日に伏見城で将軍宣下を受け、征夷大将軍に任命され、同時に正二位・内大臣・源氏長者となった。
 後水尾天皇や入内した妹・和子と対面した後に江戸へ戻り、将軍職を家光に譲って隠居した秀忠は大御所となって江戸城西の丸に移り、代わって家光が本丸へ入った。
 同年八月、摂家鷹司家から鷹司孝子を御台所として江戸に迎え、一二月には輿入れしたが、少年期より、ある事件がきっかけで男色に走っていた家光は孝子を丸で愛さなかった。

 寛永三(1626)年七月、後水尾天皇の二条行幸の為に大御所・秀忠、弟・忠長と上洛。二条城にて後水尾天皇に拝謁した家光は従一位・左大臣に、秀忠は太政大臣に、忠長は従二位・権大納言に昇格した。
 この時、秀忠は伊達政宗・佐竹義宣と云った戦国の生き残りとも云える勇将を伴い、官位も家光の上を行き、隠居の身とはいえ、まだまだ隠然たる力を保持していることがうかがえて興味深い。

 そしてこの在京中、母・お江与が危篤に陥ったとの報が入った。
 母が危篤とは云え、(一応は)将軍家よりも格上の朝廷の行事のために上洛している秀忠父子達はすぐに江戸に戻る訳にはいかなかった。
 取り敢えずは忠長一人が江戸に戻れることとなり、脱兎のごとく江戸に向かったが、お江与は九月一五日に息を引き取り、秀忠・家光は勿論、忠長もその死に目には立ち会えなかった。
 そしてこれより家光・忠長兄弟の悲劇は本格化した。


 寛永六(1629)年、家光と忠長は秀忠が唯一度浮気をしてもうけた御落胤にして、自分達の異母弟である保科正之と秀忠との父子対面を実現させた。
 秀忠は正之の母・お静が正之を身籠った時からその存在を知っていたが、戦国時代でも名うての恐妻家であった彼はお江与を憚って、生前の父子対面は叶い様がなかった。
 これによって兄弟仲は親密になるかと思われたが、寛永八(1631)五月、忠長は数々の将軍・家光に対する不遜な行状や乱行(些細な落ち度で家臣を手討にしたりした)を咎められて、甲府に蟄居・謹慎を命じられた。
 忠長の不行状には謎が多く、豊臣秀次・松平忠直と同じ匂いを感じるが、これはまだ秀忠が存命中のことで、少なくとも秀忠が家光に対して、忠長への重罰を止められない、つまりは重罰に匹敵する落ち度があったのは間違いなさそうである。


 寛永九(1632)年一月、大御所・徳川秀忠が危篤に陥り、それ以前から金地院崇伝を通じて赦免を願い出ていた忠長は秀忠の死に目に立ち会うことを願ったが、却下された。  そして同年同月二四日に徳川秀忠がお江与と同じ享年五四歳で薨去すると、忠長の運命も決した。
 大御所・将軍の二元政治の解消に伴い、思う存分辣腕が振るえるようになった家光は手始めに同年五月、叔父・頼宣の義兄(正室の兄)である肥後の加藤忠広(加藤清正の息子)を改易とし、身内や縁者であっても容赦しない処分を断行する姿勢を見せつけた。
 そして同年一〇月二〇日に忠長の領国である駿河・遠江・甲斐五五万石をすべて没収して公式に改易として上野に流した。
 そして翌寛永一〇(1633)年一二月六日、徳川忠長は幕命により切腹を命じられた。徳川忠長享年二八歳。

 骨肉の争いに決着をつけた家光は幕藩体制の固めに着手した。
 幼少の頃は文武に見込みを見せなかった家光も周囲の助けもあってか、それなりに政治家として、将軍として、家長としての成長を遂げていた。
 寛永一二(1635)年に武家諸法度を改定して大名の参勤交代を義務付け、キリスト教弾圧、保護貿易の統制を強め、寛永一四(1637)年の島原の乱に側近・松平信綱(通称「知恵伊豆」)を派してこれを鎮定させ、寛永一八(1641)年までには鎖国体制を確立させた。


 一方で家長としては、女性に興味を示さなかった家光も乳母・春日局や、叔父にして悪友である水戸頼房(ちなみに家光とは一年しか年が変わらない)の遊郭通い唆し尽力もあって、寛永一四(1637)年閏三月五日にして長女・千代姫をもうけたのを皮切りに、幕藩体制を確立させた寛永一八(1641)年八月三日には嫡男が生まれた。
 家光は即座に三河松平時代以来よりの嫡男の御用達ネームである「竹千代」と命名した。勿論、この竹千代が後に四代将軍・徳川家綱となったのである。
 女性に興味を示さず、正室を思い切り冷遇し、女性問題・後継者問題で周囲をやきもきさせた家光だったが、最終的には八人の側室を持ち、内、六人が子を産み、生涯に五男一女を得た(内、二人は夭折)。


 寛永一九(1642)に寛永の大飢饉が起こるも、幕府の体制が揺らぐこともなく(この寛永の飢饉は「江戸時代三大飢饉」にカウントされていない)、慶安二(1649)には有名な慶安の御触書を発布して、農政の基礎も固めた。
 全然関係ないが、これと同じ年、イギリスではピューリタン革命で革命軍が勝利し、国王チャールズT世が処刑されており、専制君主体制が確立した日本と専制君主体制が崩れたイギリスとの対比が興味深い。

 将軍としての手腕を振るえるようになった家光だったが、生来の病弱までは如何ともし難く、慶安三(1650)年にはいると病気で伏しがちとなり、将軍職こそ退かなかったものの、まだ一〇歳の家綱に将軍職を代行させるようになった(云い換えれば、一〇歳の幼主に代行が務まる程に幕閣体制が固まっていたのである)。
 そして慶安四(1651)年四月二〇日、徳川家光は江戸城にて薨去した。享年四八歳。家光の死に際して、堀田正盛・阿部重次等が殉死し、朝廷からは生前家光が辞退した正一位・太政大臣の官位が追贈された。



嫡男たる立場
 徳川家光が生まれた時、母のお江与は秀忠の子を四人産んでいたが、全員女児だった(上から順に、千姫、珠姫、勝姫、初姫)。家康からもお江与が嫡男を産むことは失望視されており、さしものお江与も恐妻家・秀忠に側室を勧めかけた矢先に待望の嫡男として生まれたのが家光だった。

 待望も、待望、待ちに待ち焦がれた嫡男誕生に秀忠・お江与は勿論、祖父・家康も狂喜し、徳川家が三河松平時代から嫡男に名付け続けてきた「竹千代」の名が与えられたのは前述した通りである。
 優秀な乳母として春日局が選ばれ、竹千代誕生の翌年である慶長一〇(1605)年には父・秀忠が征夷大将軍の位を譲られ、竹千代を見る周囲の目は尋常なものとなり得なかった。
 そしてこの特殊な身分での嫡男、という立場が竹千代徳川家光の人生に少なからず暗い影を落としたのである。


 何度も触れている様に、竹千代は嫡男に生まれ、乳母・春日局が養育した。その竹千代誕生の二年後に次弟・国千代が生まれたが、こちらはお江与たっての願いもあり、乳母に預けず、お江与本人の手による養育が許された。
 お江与は竹千代の前に四人の女児を出産していたが、戦国の定め、長女・千姫は豊臣秀頼に嫁いだのを初めとして、次女の珠姫は僅か三歳で前田家に嫁ぎ(悲惨なことに二四歳の若さで世を去るまで二度と父母に会うことはなかった…)、四女の初姫に至っては生まれてすぐに姉・常光院の養女となっていた(ちなみに「初姫」の名は常光院と同名)。
 後継者たる竹千代は手元に置けずとも、せめて次男の国千代は手元に置きたい、と願ったお江与の願いは分からないでもないが、結果、この情けが兄弟不和の遠因となった。


 お江与にとって、竹千代も国千代も腹を痛めて産んだ愛しい我が子である。二人とも可愛くない筈はなかった(大河ドラマを見ていても、お江与の子煩悩ぶりは顕著である)。だが、乳母に預けられ、実母よりも乳母に懐く竹千代と、常に一緒に居て才気煥発・健康優良児に育った国千代とで、愛おしさに差が出たことも無理のないことで、この辺りの関係は伊達政宗・小次郎兄弟と母・保春院の関係と似ている。
 後年、家光が伊達政宗と気が合ったのも母子関係・兄弟を巡る境遇が似ていたからだろうか?

 長じるにつれて、お江与の偏愛は顕著になり、幕府の重臣や諸大名の中にも、年次の挨拶の折に竹千代を差し置いて国千代への挨拶を優先する状況となった(←諸大名、セコイのう……)。
 これに対して、春日局が大御所・徳川家康に直訴し、それを受けた家康が秀忠・お江与の前で長幼の序を示して、竹千代後継を断言したのも前述の通りである。
 ちなみに大河ドラマでは、家康を温厚な人物とした『徳川家康』では滝田栄氏演じる家康が国千代を優しく諭しているが、特に家康が主人公ともしていない『春日局』では丹波哲郎氏演じる家康が、『葵−徳川三代』では津川雅彦氏演じる家康がかなり強い口調で兄に習って菓子を貰おうとした国千代を無礼者として咎めている。
 嫡男でも、将軍家という他に殆ど例を見ない家格における嫡男でもなければこうも大きな話となって史書に残ることもなかっただろう。


 さて、立場を家光に転じて見てみると、子供心にも両親に愛されていないと思い込んだ面が少なからず見られたようで、家光は両親を憎むまでには至らなかったものの、反動的に祖父・家康、乳母・春日局を愛し、異母弟・保科正之に同情し、同母弟・忠長に対して嫉妬を通り越して憎んだ。
 家光は三歳の時に病気で死にかけたのを、家康調合の薬で一命を取り留め、その家康が危うく嫡男を死なせかけた両親を激しく叱責したことや、自らの将軍家後継者としての立場を守ってくれたことから、身内であることを越えた敬意と恩義を感じ、家康を祀る日光東照宮に生涯で一〇回も詣でている。
 回数が歴代将軍の中で一位なのも当然だが、後世の将軍達にとって、東照宮参詣は将軍就任の儀式の様なもので、家光に次いで多い家綱ですら二回でしかなかったから、家光の参詣回数は尋常ではない。

 また家光は身につけていた御守り袋の中に「二世権現、二世将軍」と記載した紙片を入れていた。
 「権現」とは、死後に「東照大権現」の神号を送られた家康の尊号で、当然この場合の「一世」となり、家光にとって秀忠は「父ではない」と断言しているとも取られかねない内容である。
 家光は、「徳川家にとっての嫡男」ではあっても、「秀忠にとっての嫡男」と自認出来てなかったのだったとしたら悲しい父子関係である。
 ちなみに、秀忠は生前、正一位・太政大臣が極冠だったが、家光は自らが太政大臣に任じられようとしたときにこれを固辞した。死後に改めて追贈されているが、ここにも父に対する対抗心があったと見るのは云い過ぎだろうか?


 ただ、親子の距離の遠近差による愛情差はあっても、律儀者・徳川秀忠は嫡男としての家光を愛し、その立場を尊重してもいた。
 それを示す有名なエピソードに鴨汁の話がある。
 ある日、秀忠の夕食の膳に鴨肉を入れた汁物が供された。お江与から忠長が鉄砲でもって撃ち取った鴨を父親の膳に供したもの、と聞かされて喜んで食そうした秀忠だったが、忠長が鴨を撃った場所が西の丸の堀であることを聞くと烈火のごとく怒って、箸を付けぬまま膳を下げさせた。
 当時、家光は元服し、将軍世子として江戸城西の丸に住んでいた。つまり秀忠に云わせると、「西の丸の堀に鉄砲を撃ちこむ」と云う行為は「将軍に対する反逆」を意味する、と云うのである。
 勿論、秀忠とて忠長が本気で家光に反逆しようとしていたとは思っていなかっただろう。しかし忠義に問題のある行為の戦果として得た鴨肉を食せば、謀反を認めたことになる。
 長兄・信康、次兄・秀康を差し置いて将軍になった秀忠は終生そのことに負い目を感じていた律儀者で、そんな秀忠にとって、忠長の軽挙は罰せずとも、叱らずにはいられなかったのだろう。
 これまた只の大名家の嫡男ではあり得なかった話だろう。


 余談だが、徳川将軍一五代の内、正室が生んだのは家康・家光・慶喜の三人のみで、家康・慶喜の母は、「正室」ではあっても「御代所」ではなかった。
 将軍の多くが側室から生まれたのも、多くの将軍達がその身分故に性的に未熟な年代で義務的に持たされた正室よりも、性的に円熟してから自らの好みで選んだ側室の方を愛したことに起因するが、そんな背景も、生まれながらの将軍家嫡男たる家光の立場を際立たせていると云えよう。



同情すべき悲運
 徳川家光の生涯に同情すべき要因は数多く存在する。
 まずは生来の病弱が挙げられる。
 食も細く、生まれつき青黒い体の色で血のめぐりも良くなかった様で、生涯に麻疹、瘧(おこり。マラリアのこと)、眼疾、脚気、中風、疱瘡、霍乱(日射病)、癰(よう。皮膚が赤く腫れて、疼痛を伴う細菌感染症)等を患った。四八年の生涯は長いと云えないが、よくその年齢まで生きて子孫を残せたものだとの感心をしないでもない。
 だが、この病弱が同母弟・忠長との対比から周囲に後継者問題を膾炙させ、家光は少年期に一度切腹しようとさえしていた。健康問題は常に家光の生命を、様々な形で脅かし続けた。


 また、家光の生涯を見るときに、将軍家後継者である故に周囲が彼を異常に気遣ったことも見逃せない。
 大河ドラマ『葵−徳川三代』で見た話だが、少年時代、家光は女中の一人に手をつけ、その女性が妊娠する、という事件があり、筋を通すならこの女性を側室とし、生まれた子を認知して然るべき身分を与えるか、それが出来ないなら他家に養子に出す、などの処置を取らなければならなかった。
 ところが小姓の一人が家光の行為を自分がしでかしたこと、と名乗りで、理不尽且つ恐ろしいことに小姓は切腹半ば強姦の被害者であった筈の女中は磔となった!!(勿論、胎児の犠牲も痛ましい………)

 これが実話ならとんでもない話だが、その虚実と是非については本題とは関係ないので割愛するが、事の成り行きに激しい罪悪感を抱いた家光は以後女色に耽ることに恐怖を感じるようになった、とのことだった。
 だが家光程の身分と立場がなければ周囲がここまでけったいな尽力をしたり、被害者の方がスケープゴート的に消されたりするれることもなかっただろう。
 妥当な処分なら家光も女色に恐怖を感じることもなかっただろう。


 ちなみに薩摩守自身は余りこの徳川家光という男を買ってはいない。
 家光の代に江戸幕府の体制が固まったのは史実だが、そのレールは政治体制的にも、人員配置的にも父・秀忠が基盤をしっかり固めてくれていたものであると見ている。
 むしろ家光島原の乱やその後のキリスト教弾圧や鎖国政策は失策面が強かったとも見ている(←全く肯定しない訳ではない)。
 それでも「生まれながらの将軍様」の権威は周囲の者達によって守られ、「徳川家光」の名は歴代将軍の中でも燦然と光輝いている。
 だが、これは家光の望んだことだったのだろうか?
 勿論家光家光なりに成長を遂げ、数々の政策を打ち立て、成功もさせた。薩摩守の独断と偏見と云えばそれまでだが、薩摩守は徳川家光の人生が幸せだったとは思えない(全くの不幸でもなかっただろうけれど)し、歴史上の正当な評価(いい面も悪い面も)が為されていない気もする。

 だがやはり家光の不幸を真っ先に思うのは、祖父・家康、乳母・春日局の史に号泣した彼が実の両親である秀忠・お江与の死には涙を流さなかった、という伝承である。
 秀忠もお江与も決して家光を愛していなかった訳ではないし、忠長を死に追いやった家光も保科正之への接し方を見れば兄弟愛が無い人物だった訳ではない故にその悲しき人生に物思わずにはいられないのである。


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令和三(2021)年五月二一日 最終更新