第拾章 徳川家重…跡取りでなければ悠々自適だった?

名前徳川家重(とくがわいえしげ)
家系紀伊徳川家嫡流
徳川吉宗
深徳院(お須磨 紀州藩士大久保氏娘)
生没年正徳元(1712)年一二月二一日〜宝暦一一(1761)年六月一二日
極冠征夷大将軍・右大臣
政敵田安宗武、一橋宗尹
見舞った不幸生まれついての言語障害、周囲からの統治能力に対する疑問視、
弟達との不仲
生涯
 徳川家重は、歴史上「米将軍」として、ドラマでは「暴れん坊将軍」として有名な江戸幕府第八代将軍である父・徳川吉宗が紀伊徳川家第五代目当主を務めているときに、側室・お須磨の方との間に生まれた(正徳元(1712)年一二月二一日)。
 母・お須磨の方は実家の身分から側室だったが、正室が子を成さぬまま夭折し、その後吉宗が継室を迎えなかったため、制度的には庶長子となるところを殆ど嫡男と変わりなく生まれ育ち、紀州藩主累代の幼名である「永福丸 (ながとみまる)」の命名を授けられた。

 江戸赤坂の紀州藩邸に生まれた永福丸が五歳のとき、正徳六(1716)年四月三〇日に時の将軍・徳川家継が八歳で夭折し、徳川秀忠直系の男児が絶える事態が起きた。
 御三家から八代目の将軍が選ばれることとなり、天英院(六代目・徳川家宣正室)の推挙もあって、家継逝去のその日に将軍後見役に就いた父・吉宗が、同年八月一三日に征夷大将軍・源氏長者に就任した。
 これに伴い、吉宗の嫡男である永福丸は八年後の享保九(1724)年一一月一五日に将軍後継者となた。時に永福丸一二歳。


 享保一〇(1725)年四月九日、永福丸は元服して徳川家重と名乗り、従二位権大納言に叙任された。
 享保一六(1731)年一二月に将軍世子として、伏見宮邦永親王の第四皇女・比宮増子(なみのみやますこ)を正室に迎えた。  増子は享保一八(1733)年懐妊し、家重の第一子を出産するも、早産で九月一一日に生まれた子供は間もなく死に、増子も産後の肥立ちが悪く、一ヶ月も経たない一〇月三日に二三歳の若さでこの世を去った。

 妻子をほぼ同時に失った家重の悲しみは深く、やがて増子への想いが、彼女が江戸に下る際に侍女として同行してきたお幸のもとに通うようになった。
 やがてお幸は家重の子を身籠り、元文二(1737)五月二二日に男児を出産した。
 本来なら庶長子だが、家重に継室がいなかったため、自動的に嫡男となり、嫡孫誕生を喜んだ吉宗は、徳川家後継者の御用達幼名である「竹千代」を名付け、この竹千代が後に一〇代将軍・徳川家治となった。


 さて、本頁の主役である徳川家重だが、彼は幼少の頃より言語不明瞭(脳性麻痺によるものとみられる)で、鷹狩に行く途中二〇回以上も小用を必要とする体質(排尿障害と思われる)、能楽に耽る行状ゆえに、吉宗後継者としての資質が危ぶまれていた。
 だが、吉宗は家康が尊重した「長幼の序」を守り、老中・松平乗邑(まつだいらのりさと)等の三男・田安宗武を推す声を抑えて家重を後継者とする決心を固めたが、それも一説には生来聡明だった竹千代=家治の将来を有望、と見た吉宗の期待によるものだったと云われている。

 家重は寛保元(1741)年八月七日に右近衛大将を兼任し、延享二(1745)年一一月二日に父・吉宗の隠居により、江戸幕府九代目の征夷大将軍に就任し、正二位内大臣と源氏長者を兼任したが、勿論実権は大御所となった父・吉宗が持ち続けた。時に徳川家重三四歳。
 それに先立つこと九ヶ月前、二月一五日に側室・お遊の方との間に次男・萬二郎が生まれ、この子が後に清水門に住んだことから、家重の弟である田安宗武・一ツ橋宗尹とともに御三卿の一人となった。


 将軍に就任した家重は父・吉宗が残してくれた政治上の遺産ともいえる享保の改革の余波の中で政治を執り続けた(いい意味でも悪い意味でも)。
 「米将軍」と呼ばれるほど農産と米価に心を砕き続けてきた父・吉宗にしても将軍在職中に三〇〇件を超えて勃発した百姓一揆に悩まされた。そして折悪しく、宝暦五(1755)年の凶作を受け、享保の改革時代の増税もあって、家重も一揆の続発に悩まされた。

 そしてこの頃になると大御所・吉宗も健康を害し、政治に口を挟まなくなり、家重は将軍として、五代将軍・綱吉が創設した勘定吟味役を充実させた。
 現在の会計検査院に近い制度を確立する等、独自の経済政策を行うようになり、言語不明瞭な彼の言葉唯一人聞き分けることの出来た側用人・大岡忠光(かの有名な大岡越前守忠相の甥)の助けも得て、可もなく、不可もない政治を行った。

 柳沢吉保、間部詮房の例もあって、側用人は(周囲の嫉妬も含めて)「君側の奸」的に見られがちだが、大岡忠光は君主の寵愛を傘に着たり、転がり込んだ権力を暴走させたりすることもなく、何だかんだいって、徳川家重在職中に政治上の大過はなかった。


 寛延四(1755)年六月二〇日に大御所・徳川吉宗が世を去り、実権を握るも、家重にとって、弟達との身分さが確固たるものとなっていたこともあって、実権掌握はさしたる重大事でもなかった。
 そして元々体が丈夫でなかったこともあり、宝暦一〇(1760)年二月四日に右大臣に昇進するも、同年四月一日に征夷大将軍を辞し、その折に忠光を通じて、家治に田沼意次を重用するよう伝えた。
 余談だが、忠光はそれから一ヶ月も経たない四月二六日に没し、これが家重の事実上の遺言となった(他に理解出来る者がいなかったので)。

 同年五月一三日に家重は大御所となり、九月二日に徳川家治が将軍宣下を受け、源氏長者となるともはや歴史の表舞台に出てくることはなく、宝暦一一年(1761)六月一二日徳川家重は享年五一歳で薨去した。



嫡男たる立場
 徳川家重の父・徳川吉宗は、紀伊徳川家二代藩主・徳川光貞の四男に生まれ、将軍どころか、紀伊藩主になれる可能性さえ始めは皆無に等しく、部屋住みの松平頼方で終わってもおかしくなかった。
 しかし、紀州藩邸に下向した五代将軍・徳川綱吉の好意で越前鯖江藩主(実際には入領していない)となり、長兄・綱教(第三代藩主)、次兄・頼職(よりもと。第四代藩主)が相次いで子を成さぬままに死去し、第五代紀州藩主となり、綱吉との謁見の際に「吉」の字を与えられ、「徳川吉宗」となった。弟として、複雑なものもあっただろうけれど、それは奇跡に近かった。

 そんな父・吉宗は三人の兄と、三人の姉と、一人の妹を全員若くして失っており、兄弟というものをよくよく考えさせられた一生を送った人物である(それ故に叔父・松平頼純を始祖とする西条藩松平家とも仲が良かった)。
 そして、家重を始めとする吉宗の子供達は何の因果か、全員母親が違った。
 家重の母・お須磨の方は家重の弟も生んでいたが、この時の難産が元で、母と弟は共に命を落としていた。家重の弟である、小次郎(宗武)と小五郎(宗尹)は家重と異腹で、各々の母親達も若死にし、家重達には同腹の兄弟がいなかった。
 そして吉宗には吉宗が死ぬまで添い遂げ、吉宗の死に水を取った側室・お久免の方がいたが、彼女は唯一人出産した女児を幼くしてなくし、以後子供を産むことはなかった。
 兄弟全員が産みの母を幼くして亡くし、義理の母も実子を幼くして亡くしていた境遇に、嫡男として、家重は何を想っただろうか?


 ともあれ、家重は将軍世子となったことで、一個人の目では見られなくなった。こうなると家重の言語不明瞭はかなりの災難だった。
 詳細は後述するが、薩摩守は決して家重を馬鹿だとも、無能だとも思っていない。もっとも、家重が当初国政に消極的だったのは確かで、猿楽に興じ、髪もぼさぼさ、髭も無精髭だらけで、頻尿体質からも、松平乗邑を始め、家重廃嫡し、宗武を後継者に推す声は数多く寄せられた。
 一説には天英院もそれを望み、家宣存命中は夫の寵愛を巡ってライバル関係にあったが後に仲直りした月光院(七代将軍・家継生母)もその遺志を継ごうとしていた、とされている。
 ある意味、政治に無頓着だった家重廃嫡されていた方が楽だったかもしれなかった。だが嫡男の身から派生する二つの事柄が家重を権力の座に座らせ続けた。


 一つは、徳川将軍家始祖・家康に忠実であり続けた父・吉宗の信念だった。
 幼少の頃から聡明で荷田在満や賀茂真淵に国学・歌学・万葉学び、文武に優れていた宗武の方を一時は後継者に考えた程だったが、最終的には家康が家光に将軍位を継がせた例からも「長幼の序」を重視し、家重世子を取り消さなかった。
 前述した様に、一説には、家重の嫡男・家治の聡明さに賭けた、とも云われているが、いざ決断すると吉宗の断行力は強力で、延享四(1745)年に家重を将軍に就任させると、宗武擁立を強く訴えていた乗邑は罷免され、宗武・宗尹も登城禁止となった(詳細後述)。
 一応は、「将軍・家重の命令」だが、あからさまな報復人事で、実権を持っていた「大御所・吉宗」の黙認なくして行えることではなかった。
 幼くしてすべての兄弟を失い、歴代将軍の中でも家族というものを強く考えていたであろう吉宗でも、強引な人事を行わざるを得ないほど、徳川家嫡男の立場は重かったということだろうか?


 もう一つは家重の兄としての矜持だろう。
 家重と次弟・宗武は四歳しか違わなかった。家重と宗武の兄弟仲を示す明確な史実は家重就任時の登城停止処分しか薩摩守は把握していないが、状況的に宗武が家重を尊敬していたとは思えない。
 宗武は、「文武に消極的で、会話にも健康にも難のある兄」と、「四男に生まれながら、藩主を継ぎ、将軍にまで登りつめた父」を見て育った。加えて松平乗邑、天英院、月光院といった後ろ盾まで得た宗武が家重に取って代わろうとの野心を抱く様になっていったとしてもおかしくなかった。
 自らの判断によるものか、父・吉宗の入れ知恵か、とにかく家重は自分に取って代わる恐れのある宗武・宗尹を登城禁止処分とし、一時は二人の嫡男も他家に養子に出され、田安家・一ツ橋家を認めないところだった。

 二人の弟の登城禁止は月光院の取り成しもあって三年で解かれた。
 月光院は家重達にとって、父・吉宗の養父となった家継の生母だから、形式上は曾祖母に当たる。さすがに家重も処分を解かざるを得なかったが、処分取り消し後も、家重は生涯、宗武と顔を合わせることはなかったと云う。
 特に政治に覇気を見せることもなかった家重がここまで弟達に過酷だったのは長兄として、自分の能力や体質を馬鹿にする(様に見えた)宗武・宗尹達の態度が許せなかったからではあるまいか?
 穿った物の見方だが、次男・重好を宝暦八(1758)年に清水門に与えた邸宅に済ませ、御三卿の一人としたのも、田安家・一ツ橋家に対抗させんとしたと見えてしまう。
 同じ「次男」として、重好は何を思っただろうか?



同情すべき悲運
 徳川家重の悲惨な境遇を語るなら、まずは言語不明瞭や排尿障害の根本原因となった脳性麻痺が挙げられる。
 戦後間もない頃、芝増上寺の改修工事の折に、家重の遺骨が調査されたが、この折に、家重が歴代将軍の中で最も整った顔立ちだったことが判明した。
 諸大名達が「気品ある面」と褒めていたという『徳川実紀』の記述が正しかったことが証明されたのだが、肖像画に描かれた家重の顔は妙に歪んでいる。どうやらこれは脳性麻痺に伴う顔面麻痺の影響ではないかと見られている。
 そして、この脳性麻痺のために歪められたのは肖像画だけではなかった。

 前述の調査で、家重の歯には四五度もの角度の磨耗が見られた。
 これは家重が四六時中歯軋りしていたことが原因で、アテトーゼタイプの脳性麻痺の典型的症状としても見られるもので、さすがにここまで脳性麻痺の影響が大きくては彼が聡明な若殿様と見られることは皆無に近かっただろう。

 だが、脳性麻痺は家重の運動神経や排尿機能を著しく低下させたが、頭脳まで低下させた訳ではなかった。前述で少し触れたが、薩摩守は、家重はそれなりに有能だったと見ている。
 まず、第一に家重には人を見る眼があった
 大岡忠光も田沼意次も家重が抜擢して重用した人物だが、長く賄賂政治家の代表選手のように悪し様に云われ続けてきた田沼の有能性は拙作・『菜根版名誉挽回してみませんか』でも触れたが、昨今ようやく見直されつつある。
 田沼がもっと早くから正当に評価されていれば、それを推挙した家重に対する評価も高いものとなっていただろう。となると、田沼への不当な評価も家重の不幸といえようか?

 もう一人の大岡忠光も前述したように能力的にも人物的にも大過なく、宝暦年間を治め切った優秀な人物だった。
 特に当時、オランダ商館の館長を務めていたイサーク・チチングは、著書・『将軍列伝』にて、家重と忠光の仲を「真実の友」と記述していた。
 更には忠光のことを、

 「誠に寛大な人物で、他人の過失を咎めなかった。
 あらゆる点で大岡は吉宗お気に入りの三人の家来(加納久通・小笠原胤次・渋谷和泉守)をお手本にしていた。
 それで死後、大岡には次のような歌ができた。

 『大方は出雲のほかにかみはなし』

 その意味は、「出雲(忠光の官職名は出雲守)のような神はいない」という意味で、詠み人は忠光の人柄と業績を良く見て、その思い出に感謝を捧げているのだ。」

 と記述していた。


 幾ら吉宗が洋書の禁輸を少し緩めていたからといっても、鎖国体制化の時代で当時の日本人がここまで外国人にべた褒めされる例は珍しい。
 大岡忠光が単純に家重の言葉を理解出来ただけで腰巾着的に出世した訳でないのがよく分かる。
 否、真に有能且つ家重への忠勤が半端なかったからこそ、彼の言を解し得たのかも知れない。
 そして、その出世が周囲の妬みを買うのに充分であることを理解し、それゆえに忠光は慎み深い行動を取っていたのかも知れない。
 いずれにしても忠光は叔父・忠相と並んで只者ではなかった。


 政治上では一部の経済政策以外に見るべきもなく、有能な家臣に上手く任せていた、家重だったが、本当に興味ある分野では有能だった。その一つに親・子・孫で得意だった将棋がある。
 父・吉宗も、嫡男・家治も将棋を趣味とし、強かったことが有名だが、家重もそれに劣らず、将棋の指導書『御撰象棊攻格』(ごせんしょうぎこうかく)なるものを著している。
 道場主は、世間では一応名の通った大学を卒業し、それに至る学業上の成績を収める能力を持っていたが、これはペーパーテストの能力に優れていただけで、知識にない、知力を尽くすことでは常人よりかなり劣る人間である。その証拠として、道場主は鬼のように将棋が弱いことがある。それゆえに薩摩守は家重が将棋に強かった、というだけで彼に対する認識を改めてしまった(苦笑)。
 また、家重は草花が好きで、名造花師の七朗兵衛を度々呼び出し、その細工を楽しんだという。

 徳川家重という男、もし次男か、三男に生まれていれば、長兄の矜持に固執することなく、言語能力からは意外なほど優れた能力と、気楽な立場から趣味の世界に没頭する悠々自適な生涯が送れたのではなかっただろうか?
 実際、松平忠輝、松平忠直、徳川光圀、徳川慶喜、その他、権力の座を降りた後に悠々自適の生活を送った家重の身内は少なくない。


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令和三(2021)年五月二一日 最終更新