第弐頁 黄梅院

俗名不詳
出家名黄梅院(おうばいいん)
生没年天文一二(1543)年〜永禄一二(1569)年六月一七日
武田信玄
三条夫人
北条氏政
北条氏直・北条氏房・北条直重・北条直定・他に男女児一名ずつ
婚姻時の背景甲相駿(武田・北条・今川)三国同盟
妻としての立場正室
略歴
 天文一二(1543)年、甲斐国主・武田晴信 (信玄)とその正室・三条夫人の長女に誕生。本来家督を継ぐ筈だった太郎義信、盲目ゆえに僧籍に入った次郎信親は同母兄で、夭折した三郎信之は同母弟、穴山梅雪正室・保科正之育ての母となった見性院(けんしょういん)は同母妹である。実名は不詳で、有名な新田次郎氏の小説では「時姫」、NHK大河ドラマ『武田信玄』では「お梅」、大映テレビで放映された『おんな風林火山』では「波瑠姫」とされていた(勿論、院号でもある「黄梅院」は出家後についた名前だが、このページでは「黄梅院」で通します)。
 ともあれ、故新田次郎氏が著した小説の影響で悪妻のイメージが強い三条夫人だが、妻の中で信玄の子供を一番多く産んでいる。決して愛されていなかった訳ではないのが分かる。

 天文二三(1554)年一二月、今川義元の軍師・雪斎禅師の主導で今川義元・武田信玄・北条氏康の三巨頭が顔を揃え、甲相駿三国同盟が締結された。既に武田家と今川家の間では信玄の嫡男・義信(黄梅院の同母兄)と義元の娘が婚姻しており、武田家と北条家を結ぶ為、一二歳の黄梅院が北条氏康の嫡男・北条氏政の元に嫁ぐこととなった。同時に北条氏康の娘が今川氏真に嫁ぎ、同盟を固める政略結婚のトライアングルも成立した。

 夫婦仲は至って睦まじく、弘治元(1555)年に初めて出産した男子には夭折されたが、翌弘治二(1556)年末に女子を産んだのを皮切りに、永禄五(1562)年、嫡男氏直を出産。その後も氏房・直重・直定を産むなど子宝にも恵まれた。

 しかし、氏直出産の二年前、永禄三(1560)年五月一九日に今川義元が桶狭間の戦いでまさかの戦死を遂げると三国同盟に翳りが差した。
 父・信玄は上洛への道筋・駿河湾の海産物・安倍金山を狙って、落ち目となっていた、義元亡き後の駿河侵攻を企むようになった。しかし三国同盟の一翼を担っていた同母兄の義信は同盟破棄を断固として反対した。
 父と兄の対立は永禄七(1564)年に義信事件となり、義信の師傅・飯富虎昌(おぶとらまさ)が切腹を命じられ、義信は東光寺に幽閉された。
 更に三年後、義信は東光寺にて切腹(病死説もある)。義信の妻(義信や黄梅院にとって従姉妹でもある)は実家・今川家に戻された。

 そして永禄一一(1568)年一二月一三日、信玄が駿河に侵攻したことでとうとう三国同盟は破綻した。今川との同盟堅持を訴えてこれに激怒した舅・氏康は氏政と離縁させ、黄梅院を甲斐に送り返した。

 離縁により夫・氏政、五人の子供と離れ離れになることを余儀なくされた黄梅院はしばらく鬱々とした日々を送っていたと思われるが、甲府の大泉寺の安之玄穏住職を導師に、出家。だが精神が身体をも憔悴させたものか、永禄一二(1569)年六月一七日、父母に先立って逝去した。黄梅院享年二七歳という夭折だった。

 信玄は夭折した長女のために、巨摩郡竜地(現:山梨県甲斐市竜地)に菩提寺黄梅院を建立。元亀元(1570)年一二月二〇日に、妻・三条夫人と娘・黄梅院両方の回向を行い、大泉寺に黄梅院領として南湖郷(現:山梨県南アルプス市)を寄進。
 元夫・氏政は武田との同盟を回復させた後の、元亀二(1571)年一二月二七日に、早雲寺の塔頭に同じく黄梅院を建立し、彼女の分骨を埋葬して手篤く弔った。


父親の溺愛
 黄梅院の嫁入りは、武田信玄にとって「初めて娘を他家に嫁がせた」という出来事だった。国境を越えて嫁いだ娘と父親の再会は現代でもそう頻繁に行えることではない。まして集合離散が恒常化していた戦国の世では「嫁入り」と「今生の別れ」がイコールであった例など枚挙に暇がない。
 そんな背景もあってか信玄黄梅院の嫁入りに際して輿入れ行列に一万人ものお供の者を動員し、物凄く豪華にしたという親バカ振りだったと伝えられている。
 また、信玄は彼女が、最初の子に夭折されたためか、弘治三(1557)年一一月には、安産の神である富士御室浅間神社に安産祈願をしており、その後も黄梅院が懐妊する度に同神社に詣で続けた。黄梅院に対する尋常ならざる溺愛振りが覗える。

 前述したように、黄梅院は実家にて夭折した。昭和六三(1988)年の大河ドラマ『武田信玄』では死の床に就いた黄梅院 (演:岡本舞)は父・信玄(演:中井貴一)に赤子の頃の様に抱いてくれることを懇願し、幼き日の安らぎに抱かれながら逝去するシーンがあった。
 史実としてこういうシーンがあったかどうかまでは分からないが、この様なシーンを用意されたこと自体が、黄梅院が如何に信玄に溺愛されていたかが窺えると云うものである。


女としての幸せ
 武田信玄の娘達は概して幸せとは云い難かった。
 前述した「おんな風林火山」は政略結婚の狭間で愛蔵に翻弄された武田家五姉妹の末娘・松姫を主人公としたもので、椎名恵さんが歌う主題歌のイントロで、名ナレーターとして名高かった故芥川隆行氏による、

 「人の世の定めとは何であろうか? この物語は、戦国の世に生を受け、骨肉の争いを余儀なくされた武田家五姉妹の、その中にあって敵将との純愛を貫き通した松姫の数奇な運命を描く壮大なロマンである。」

 というナレーションが印象的だったのだが、父に可愛がられ、夫に愛され、子供に慕われる筈の女の幸せが骨肉の争いと背中合わせであったことを深く教えられた番組だった。

 それは取りも直さず、武田信玄・勝頼父子が今川・北条・上杉・織田・甲斐周辺国人とひっついては離れ、離れてはひっつくのを繰り返したためで、その都度犠牲となったのが五姉妹だった。
 黄梅院の悲劇は前述通りだが、次女・見性院と三女・真龍院はそれぞれの夫である穴山梅雪・木曽義昌が土壇場で武田を裏切った為、「夫が実家滅亡に加担した」という悲哀を味わうこととなった。
 しかも梅雪と義昌は両者とも、ロクな死に方をせず、彼女達は未亡人として実家滅亡と夫死後の長く寂しい時間を生きなければならなかった。
 四女の菊姫は長島一向一揆の首魁・法栄と婚約したが、結ばれる前に長島は壊滅し、法栄も命を落とした。その御結婚した上杉景勝はそれなりに大切にしてくれたが、武田家滅亡を回避するには至らず、五女の松姫は織田信長の嫡男・奇妙丸(信忠)と婚約したが、その後の双方の御家が対立したため、婚約は破談。それでも松姫は信忠だけを終生の夫として慕い、逢うことの無かった許嫁に操を立て、他の縁談には終生応じなかった。
 そして武田家はその信忠を急先鋒とした織田軍に滅ぼされた。信忠自身はそれでも松姫を妻として迎えるつもりでいたが、三ヶ月後に本能寺の変に斃れた………。

 書いていて気が滅入るような五姉妹の不幸振りだが、そこは武田信玄の娘達、只運命に翻弄されるだけではなく、不幸の中にもささやかな幸せはしっかりと掴んでもいた
 見性院は後に徳川秀忠の信頼を得て、保科正之の養育を任され、それなりに充実した余生を送った。真龍院は実家を裏切った夫の元を去り、木曽の山奥に隠遁しつつも九八歳まで生きた。何がしかの生甲斐も無しにそこまでは生きられるものではない。
 松姫は同母兄・仁科五郎盛信の娘二人を連れて八王子に逃れ、その地で出家し、信松尼と号して逢うことの無かった信忠と武田家の人々の菩提を弔う日々の中、地元の人々の敬意を得ていたと云う(八王子市には「松姫通り」という道が残されている)。

 そんな妹達と比して、黄梅院の最期はともかく、北条氏政との夫婦の日々は紛れもなく幸せなもので、六人の子を生み、五人が無事育った。
 当時、側室を数多く持ち、子供沢山作ることで御家を滅ぼさぬよう、政略結婚の手駒となる女児を沢山産ませるよう努めるのが常識だった時代、二桁の子を為すことも珍しくなかったが、一人で六人も生むケースはそうそう多い訳ではない。
 だが氏政黄梅院と離縁するまでの間側室を持つことなく、黄梅院だけを妻として愛した。

 その幸せな日々は実父による同盟破綻と、舅の怒りで、謂わば二人の父によって奪われた訳だが、それでも信玄氏政の愛が消えることは無かった。
 云うまでも無く政略結婚で嫁いだ女性は婚家における人質の役割を担わされてもいた。同盟破綻時の人質の運命は「死」が基本である。しかもその処刑は見せしめを目的として磔や串刺しと云った酷刑が珍しくなかった。
 だが黄梅院はそうはならなかった。氏政が離縁に最後の最後まで抵抗したのもそうだし、次々期当主・氏直を初め、五人の孫の母親とあっては氏康も手に掛けることは考えられなかった。
 勿論黄梅院ももはや北条の人間であることを訴えて夫や子供と供にあることを懇願したが、今川家との同盟もあってそれは叶わなかった。そして夫から離縁を突き付けられたら黙って受け入れるしかなかった時代に氏政は堪忍分として一六貫文余を黄梅院に与えた。

 黄梅院が世を去り、舅・北条氏康が世を去るとき、氏康は氏政に武田との同盟を復活させることを遺言。氏政の弟達はこぞって反対したが、氏政は遺言を遵守。再同盟の折、前述したように黄梅院の遺骨を分骨してもらい受け、早雲寺にて弔った。
 幼くして嫁ぐ事が珍しくなかったこの時代、女性は実家よりも婚家での人生の方が遥かに長いことが多かった。氏政黄梅院の遺骨を早雲寺に改葬したのも、北条の人間として夫や子供達と共に眠ることが出来なかった黄梅院の無念に少しでも応えようとしての事であろうか。
 いずれにせよ、父・武田信玄と夫・北条氏政にこれほどまでに愛された黄梅院の人生が全くの不幸とは云えず、女としての幸せも一通りは満喫出来ていると云えなくもない。余りに唐突過ぎた終わりさえ除けばだが。


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令和三(2021)年五月二六日 最終更新