第参頁 五龍局

俗名不詳
出家名五龍局(ごりゅうのつぼね)
生没年生年不明〜天正二(1574)年七月一六日
毛利元就
妙玖(吉川氏)
宍戸隆家
宍戸元秀・長女(河野通宣室)・次女(吉川元長室)・三女(毛利輝元室)
婚姻時の背景元就による宍戸氏懐柔
妻としての立場正室
略歴
 安芸領主・毛利元就(もうりもとなり)とその正室・妙玖(みょうきゅう)の間に長女として生まれた。生年は不詳だが、毛利隆元(もうりたかもと)の同母妹で、吉川元春(きっかわもとはる)の同母姉であったと云われるので、両者の生年の間、つまり大永四(1524)年〜享禄二(1529)年の間に生まれたことが推測される。
 平成九(1997)年のNHK大河ドラマ『毛利元就』では「可愛」(えの)とされていたが、実名は不明。例によって本作では「五龍局」(ごりゅうのつぼね)で統一します。

 厳密には隆元の上に姉がいたので五龍局長女ではなかったが、姉は幼時に高橋氏の養女(と書いて「ひとじち」)となっていて、後に元就が高橋氏を滅ぼした際に殺害されたので、実質的な長女として、元就・妙玖夫婦に溺愛された。
 天文三(1534)年、安芸において永く毛利家と領土を隣接していたがために諍いの絶えなかった国人領主・宍戸氏を懐柔する際に、その当主にして五龍城主・宍戸隆家(ししどたかいえ)の正室となった。

 五龍局との婚姻で夫・隆家は父・元就、兄・隆元から深く信頼され、これを機に幕末まで宍戸家は毛利家の一門で在り続けた。
 隆家との間に生まれた子供達は、長女が伊予の河野通宣(こうのみちのぶ)に嫁いだ他は次女が吉川元春の長男元長(もとなが)に、三女は隆元の嫡男・毛利輝元(もうりてるもと)の正室に、というようにいずれも従兄弟に嫁ぎ、五龍局同様、婚家・宍戸家と実家・毛利家との血の繋がり強化に貢献した。政略結婚がここまで本来の目的通りに機能した例も珍しいのではないだろうか?

 室町幕府最後の将軍足利義昭が織田信長に京都を追放され、毛利家を頼って来た翌年の天正二(1574)年七月一六日、卒中で逝去。五龍局の享年は前述の生年推定から四六〜五一歳。法名は法光院殿栄室妙寿大姉


父親の溺愛
 「中国地方随一の謀将」というのが父・毛利元就の通称だった。同じ知略に長けていても同母弟・小早川隆景はのイメージが強かったが、元就は明らかにのイメージが強かった。
 だが数々の謀略は、大内と尼子という二大大名家に挟まれた状況下で、父(弘元)・兄(興元)・兄の子(幸松丸)に次々と死なれ、しばしば同じ安芸の国人領主達からの露骨な侮蔑を受けながら戦い抜いてきた元就の、生き残りを懸けた止むを得ぬ仕儀で、家庭での元就子煩悩な父だった。永禄六(1563)年に嫡男・隆元に先立たれた折には、冷徹な謀将が信じられないくらいに取り乱して号泣したと云われている。

 生涯に一〇男二女を為した元就だったが、妙玖生前は側室を持たず、彼女と彼女との間に生まれた子供達を深く愛した。悪い云い方をすれば妙玖没後に継室や側室達との間に生まれた五人の男児達は疎まれこそしなかったが、妙玖との子達ほどには愛されなかった。

 周知の通り元就は国人領主懐柔の為、五龍局宍戸隆家に嫁がせただけでなく、元春と隆景をそれぞれ吉川家・小早川家への養子に送り込んだが、弟達の場合はそもそもが「両家の乗っ取り」が目的だったから「毛利」の姓でなくなった子供達を以前同様「毛利の人間」として接した。
 勿論五龍局も「他家に嫁した人間」ではなく、「娘」として接し続けた訳だが、この場合は宍戸家が完全な一族待遇を得たと云っていいだろう。吉川・小早川は氏族としての名跡こそ残れど、その血統は完全に毛利に乗っ取られていたことに比べると、宍戸家の待遇は元就五龍局への溺愛無しには考えられない、と薩摩守は考える。

 前述した経歴から、元就は謀将としての自分が如何に嫌われているかを熟知していた。骨肉の争いや国人領主との謀略戦に明け暮れて来たが故に多くの人間の怨みや不信を買っていることは容易に想像が出来たのだろう。「当家のことをよかれ思うものは、他国はもとより、当国にもいない」とか「家中にも当家をよく思わない者もいる」等と書面に残しているぐらいなのだから。そしてその書面こそは子供達に兄弟力を合わせて我が家を盛り立てることを説いた『三子教訓状』で、信じられるものがなかなか得られない戦国の世に謀将が最も信じたのが「血の繋がり」という恐ろしく基本的な解答だった。
 だが、その基本的なことが生半可なことでは為せなかったのが戦国の世であったことを失念してはいけないだろう。
 その中でただ一人の女児だった五龍局元就に如何に溺愛されたか………これ以上の言及は野暮というものであろう。


女としての幸せ
 「三本の矢」の伝説や「毛利両川体制」という言葉から、毛利元就の子、毛利隆元・吉川元春・小早川隆景の三兄弟が仲のいい兄弟だった見る人は多いと思うが、当初からそうではなかった。
 嫡男隆元は自らが父や弟達に劣ると思い込む自己卑下の日々を送り、次男元春は血の気の多い武人で、三男隆景は早くに養子に出され、母の死に立ち会えなかったことから自らを兄弟扱いされていないように感じていた。
 だがそれを憂えた元就が兄弟を窘め、隆元死後とはいえ、一族一体体制を元春・隆景そして宍戸隆家が確立させたのは歴史的事実である。その基となったのが前述した元就『三子教訓状』であった。

 この様なサイトを見て下さる・歴史通・戦国マニアの方々の中には「三本の矢」の逸話を史実と思っている方はいないだろう(余りに常識なのでその理由は説明しません)。
 だが逸話が出来るだけの土壌があったことは間違いなく、『三子教訓状』元就は子供達のことを事細かに言及している。タイトルこそ「三子」で、宛先も隆元・元春・隆景の三人だったが、内容的には他の兄弟にも触れており、その中には五龍局と元春の妻・新庄局についても触れていた。

 ともに勝気な性格であったため、五龍局と新庄局は対立することもあったらしい。元就はその事を窘めていた。ついでをいうと五龍局は当初、元春とも仲が良くなかったらしい。
 そんな五龍局に対して、元就は第八条で「不憫」と記し、三兄弟と同じ待遇にするよう述べている。男尊女卑の時代に息子と娘を同格にするよう指示していたのだから、物凄い愛情である。現代でも息子と娘は同じように扱われないことの方が多い。

 そんな愛情の中、兄・隆元を急死で、父・元就を天寿で亡くすも、娘達は先ず安心出来る先に嫁ぎ、甥・輝元と弟・元春・隆景が実家を盤石化させ、夫・隆家もすっかり毛利家に馴染んだタイミングを見計らったように五龍局はこの世を去った。
 直後、毛利家は羽柴秀吉(豊臣秀吉)を司令官とする織田軍の侵攻を受け、朝鮮出兵関ヶ原の戦いの中で浮沈を繰り返し、息子の宍戸元秀(ししどもとひで)は病弱で廃嫡されたりしたのだが、それを見ずに済んだのは娘として、妻として、母としていいタイミングで死ねたと云えようか(余りいい表現じゃないが)。


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令和三(2021)年五月二六日 最終更新