第壱頁 定恵院
俗名 不詳 出家名 定恵院(じょうけいいん) 生没年 永正一六(1519)年〜 天文一九(1550)年七月一五日 父 武田信虎 母 大井夫人 夫 今川義元 子 今川氏真・嶺松院(武田義信正室)・隆福院 婚姻時の背景 甲駿(武田・今川)同盟 妻としての立場 正室
略歴
永正一六(1519)年、甲斐国主・武田信虎(たけだのぶとら)の長女に生まれた。母は正室の大井夫人で、信玄・信繁・信廉の三兄弟は同母弟に当たる。昭和六三(1988)年放映のNHK大河ドラマ『武田信玄』では「於豊」(おとよ)とされていたが、実名は不明(ゆえに時系列に関わらず「定恵院」で統一します)。
定恵院が生まれた頃、父・信虎は骨肉の争い(相手は叔父)の果てに念願の甲斐統一を果たし、駿河の今川と和睦して間もない頃だった。母・大井夫人の実家・大井氏は今川の手先とも云える立場で、人質同然の政略結婚だったが、子供は幾人も生まれたから夫婦仲が悪かった訳でもないのだろう。
そしてすぐに生まれたのが定恵院だった。
天文六(1537)年二月一〇日、一九歳で駿河国主・今川義元に嫁いだ。父・信虎同様、義元も激動期を一段落した直後で、前年に花倉の乱を経て家督を奪取したばかりだった。
当然、この婚姻は武田家との甲駿同盟を固める政略結婚で、この婚姻に対しては武田家とは長く敵対関係にあった相模・北条氏綱(ほうじょううじつな)が激怒して駿河に侵攻する事態となった。
北条勢は興津辺りまでを焼き払い、信虎は義元救援の為に須走口まで出馬したが、富士川以東は北条の占領下に置かれ、今川と北条の敵対関係は一〇年近く続くことになった。
尚、義元の実母・寿桂尼(じゅけいに)は北条氏の出であった。
天文七(1538)年、嫡男・今川氏真を出産。その後、娘の嶺松院、隆福院、と三人の子に恵まれた。
天文一〇(1541)年六月、父・信虎が義元・定恵院と会う為に駿河を訪問した。が、弟・晴信(信玄)が国境を封鎖して帰国が出来なくなり、信虎は強制隠居に追いやられてしまった。
晴信の手回しもあり、信虎はその後「病気療養」の名目で娘婿である義元の元に居候することとなった。
天文一九(1550)年六月二日定恵院逝去。享年三二歳。法名は定恵院殿南室妙康大禅定尼。
定恵院の死後も武田と今川は天文二一(1552)年一一月に、娘・嶺松院と甥・武田義信の従兄妹同士を娶せ、政略結婚を続けて同盟関係を維持した。
後、これに加えて弟・晴信の娘・黄梅院(定恵院の姪)が北条氏政に、北条氏康の娘の早川殿が息子・氏真に嫁ぐことで、甲相駿三国同盟へと繋がっていった。
父親の溺愛
この時代、女性の名前及び言動は極めて史料に残りにくい。「幼き時は父に、嫁しては夫に、老いては子に従う」のが美徳とされた男尊女卑の時代、織田信長正室の濃姫や、徳川家康正室の築山殿(つきやまどの)の様な有名人でさえ謎が多く、様々な言動が詳細に残っている高台院(豊臣秀吉正室)や芳春院(前田利家正室)や崇源院(徳川秀忠正室)等は極めて稀有な例と云える。
その例に漏れず、定恵院もまた残された記録に乏しい女性である。では定恵院が長女として如何な愛され方をしていたのだろうか?
正直、ここからは推測でしかない。ただ一般に「残忍な人物」とされている武田信虎(俗説に関してはかなり疑わしいと思っているが)が定恵院を溺愛していた根拠として二つのことを薩摩守は考えている。
一つは定恵院が嫁いだ年齢である。信虎には八人の娘が記録に残っているが、その多くは嫁ぎ先ぐらいしか分からず、実名はおろか生没年も不詳の者が少なくない。
その中で参考となるのは定恵院の異母妹・禰々御寮人である。彼女は一三歳で信濃諏訪の国人領主・諏訪頼重(すわよりしげ)に嫁がされたが、それに対して長女である定恵院が今川義元に嫁いだのは一九歳の頃である。
他の娘達の詳細が分からないので何とも云い難いが、信虎の娘達の多くは甲斐・信濃の国人に嫁いでいるし、姉妹順を考えても恐らくは幼くして嫁いでいるのではないかと思われる(←細かく検証した訳ではなく、かなり大雑把な推論であることを白状しておきます)。
思うに、信虎は向背定かならぬ国人達を懐柔するのに次々と娘達を送りこみつつも、正室との間の子にして長女(それも最初の子)である定恵院は「手元に置いておきたい」という気持ちと、「嫁に出すにしても高い身分の家柄に出したい。」と思い続けた結果、当時としては行き遅れとも云える一九歳まで側に居させたのではないか?という推論である。
その点、足利将軍家の氏族でもある今川家は甲斐・信濃の国人達とは明らかに家格も実力も違った。
もう一点は、信虎が駿河に出向いたことである。武田信虎という男、戦に強かっただけではなく、謀略戦にも強かで、それは信玄によって甲斐を追放された後も変わらなかった(その詳細は拙サイト『没落者達の流浪』参照)。
娘達を甲斐・信濃の国人領主に嫁がせ、嫡男・晴信の正室には左大臣・三条公頼の娘を迎えた関係から、娘婿とは戦略上の事もあって度々顔を合わせ、甲斐追放後も度々上洛しては公家達と顔を合わせていた。
そんな信虎が義元に会いに行ったとしても一向におかしくないように見えるかもしれないが、時系列を見ると信虎が駿河に行ったのには他とはチョット違う匂いを感じるのである。
まず甲斐や信濃の国人領主である婿達に会っていた頃の信虎は甲斐国主であった。そして公家達と会っていた頃の信虎は追放後の身だった。つまり義元に会いに駿河まで出向いた頃の信虎は甲斐と南信濃がある程度安定していた時期で、その後の北信濃、上野、相模、駿河との関係を考えると、今川が寿桂尼の縁で北条に寝返ればその身を拘束されることもあり得た。
それでも駿河まで信虎が出向いたのは、姻族最大勢力である今川義元と今後のことをよくよく打ち合わせる為でありつつも、溺愛する定恵院の顔を見に行きたくなったから………………………やっぱ深読みかなあ(苦笑)。
女としての幸せ
何と云っても定恵院の言行が残されていないから確かなことはなかなか云い難い。そこで定恵院の「女としての幸せ」を「娘」・「妻」・「母」の各面で無理矢理ピックアップして見た。
まず「娘」としてだが、彼女が息を引き取るとき、枕元に父・武田信虎がいた。若くして両親に先立ったのは不幸だった訳だが、「嫁ぐ」=「親との永遠の別れ」が珍しくなかった時代に親に最期を看取られるのはなかなか無い話で、甲斐に留まった母・大井夫人は枕元に居ようがなかったが、父・夫・息子と共に過ごす時間を過ごせたのは夭折した彼女にとってのささやかな幸せにはなり得なかっただろうか?
続いて「妻」としてだが、夫・今川義元は定恵院以外に側室を持たなかった。乳児の死亡率が高く、何をおいても子孫を残すことが重要だったこの時代、側室を多く持つことで血筋を絶やす危険性を少しでも低くしていたのが常識なのに義元はそうしなかった。
義元が何故側室を持たなかったか、その意図を示したものを薩摩守は探知し得ていないが、嫉妬深くて、独占欲の強い道場主という本体を持つ薩摩守は愛する人が自分以外の異性を愛さなかったことを定恵院が喜んだであろうことは容易に想像がつく。
最後に「母」として。一男二女を生んだ定恵院の息子は云うまでもなく今川氏真である。
桶狭間の戦いで義元がまさかの、呆気ない戦死を遂げ、その後今川家が惨めな凋落を辿ったことから氏真は馬鹿殿様の代表選手みたいに云われているが、全くの無能者という訳ではないことを薩摩守は『菜根版名誉挽回していませんか』、『隠棲の楽しみ方』、『没落者達の流浪』で記している。
まして義元存命中は軍事に邁進する氏真を見ることも無かったので、定恵院は駿河・遠江・三河に覇を唱える夫の頼もしさと、それをいずれ受け継ぐであろう氏真の成長に期待を馳せながらこの世を去ったのではないかと思われる。その後の夫の敗死や息子の駄目武将振りを知る由もなく……。
まあ、早い話、今川家絶頂期に早世した事で後々の今川家の不幸を見ずに済んだ、という消極的な物の見方ではあるが、「知らずに済むことの幸せ」も確かにこの世には存在する。
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令和三(2021)年五月二六日 最終更新