第肆頁 加納殿

俗名亀姫(かめひめ)
出家名盛徳院(せいとくいん)
生没年永禄三(1560)年六月四日〜寛永二(1625)年五月二七日
徳川家康
築山殿(関口氏)
奥平信昌
奥平家昌・奥平家治・奥平忠政・松平忠明・娘(大久保忠常室)
婚姻時の背景奥平家の武田家離反、徳川追従
妻としての立場継室(正室は武田勝頼により皆殺しに)
略歴
 永禄三(1560)年六月四日、松平元康(徳川家康)を父に、今川義元の姪・築山殿を母に駿府で生まれた。元康の嫡男・竹千代(信康)は同母兄。
 「鶴姫」との通称を持っていた母・築山殿には、姉妹同然の仲だった親友がいた。その親友・吉良御前は「亀姫」の通称を持っていて、両者は築山殿に娘が生まれたら「亀姫」、吉良御前に娘が生まれたら「鶴姫」と名付けることを約束していた。
 その約束に即して元康と築山殿の長女は「亀姫」と命名された。

 だが誕生の直前に大伯父でもある義元が桶狭間の戦いでまさかの討ち死にを遂げた。その為、前線にいた父・元康が今川に反旗を翻さない為の人質としての立場を亀姫は生まれながらに強要されたのだった。
 やがて父・元康徳川家康と名を改め、今川と縁を切り、大伯父・今川義元を討った織田信長と結び、今川・武田と死闘を繰り広げる日々を岡崎城にて母・兄と共に過ごした。

 天正四(1576)年、長篠の戦いを巡る戦功への家康からの褒美として、三河の新城城主・奥平貞昌(おくだいらさだまさ)へ嫁いだ。
 夫・貞昌の奥平家は徳川と武田に挟まれた山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)と云われる国人領主の一人で、武田信玄の生前は三家とも武田側に属していた。
 だが、信玄の死を察知した奥平家では貞昌の祖父と叔父が武田につき、父・貞能(さだよし)と貞昌は徳川につき、長篠の戦い前哨戦では貞昌は長篠城主として寡兵で武田軍を良く防ぎ、その戦功は家康のみならず、織田信長からも高く評価された。何せ、信長から「信」の字を与えられ、名を「貞昌」から「信昌」に改めることとなった程だったのだから。

 だがそれがために信昌亀姫を娶る前に甲府に人質として預けていた正室と弟・仙千代と側近とを、武田勝頼に「見せしめ」として処刑されていた。
 亀姫信昌との間に四男一女(家昌・家治・忠政・忠明・大久保忠常室)を産み、それなりに幸福な日々を送った。他方、実家の徳川家では重臣・石川数正が謎の出奔を遂げ、豊臣秀吉の元に走ったため、軍団の再編成が図られ、信昌は旧武田家臣共々その中核を為すのに貢献する等、まずまず外戚に即した信頼を置かれ、活躍もした。
 一方で、この間、武田勝頼との内通を疑われて(と一言で済ますには複雑で謎が多いが、結果として)母・築山殿が家臣に殺され、同母兄信康が切腹すると云う不幸もあった。

 時が流れ、慶長五(1600)年九月一五日、関ヶ原の戦いで徳川方が勝利すると、その論功行賞にて翌慶長六(1601)年に信昌は美濃加納藩一〇万石の藩主となった。これに伴い、亀姫も三男・忠昌と供に同地に移ったことから、加納御前加納の方加納殿と呼ばれるようになった。
 少し遅れて嫡男・家昌は、父・家康にとって外孫ながら初の男孫故に可愛がられたこともあって、下野宇都宮一〇万石の藩主となった。

 大坂冬の陣を控えた慶長一九(1614)年七月二日に藩主を継いでいた忠政が三五歳で夭折すると、三ヶ月後の同年一〇月一〇日に家昌が三八歳で、半年も経たない慶長二〇(1615)年三月一四日に夫・信昌(享年六一歳)を相次いで亡くし、一年チョット後の元和二(1616)年四月一七日には父・家康がこの世を去る、という不幸のオンパレードに襲われた。
 これらの相次ぐ不幸を受けた加納殿は剃髪して盛徳院(せいとくいん)と号すると、七歳という幼さで宇都宮藩主となった嫡孫・奥平忠昌(家昌の子)、同じく七歳で加納藩第三代藩主となった奥平忠隆(忠政の子)の後見を務めた。

 加納殿が孫達の後見を務めた直後、豊臣氏が滅び、幕府の体制は外様大名に対しては盤石となり、親藩では御三家体制が整ったが、譜代に対立が残っていた。
 家康生前から父子で寵愛を得ていた本多正信・正純父子の本多派閥と、徳川四天王に属さずとも累代からの譜代である大久保忠世(おおくぼただよ)・大久保忠教(彦左衛門)・大久保忠隣(おおくぼただちか)の大久保派閥の諍いだった。

 家康存命中に大久保長安事件もあって、派閥争いの軍配は本多側に上がっていたが、このことで本多一族は加納殿の恨みを買っていた。
 というのも加納殿の一女は大久保忠隣の嫡男・大久保忠常(おおくぼただつね)に嫁いでいて(右の家系図参照)、事件の前年に忠常は夭折していた。

 大久保一族の多くが改易等の憂き目を見る中、忠常の嫡男・忠職(ただもと)は加納殿の孫であることが考慮されて蟄居で済んでいたが、加納殿の中で報復の炎は燃え上がっていた(さすがは執念深さには定評のある家康と築山殿の娘だ……)。

 そして家康死後、二代将軍徳川秀忠の時代となった元和五(1619)年、嫡孫であった宇都宮藩主・忠昌が、一二歳にして下総古河藩に転封となり、替わって宇都宮に入って来たのが恨みある本多正純だったことに加納殿は激怒した。
 忠昌が七歳で藩主に就任した時点で幼少を理由に転封になるならまだしも、父・家康が死んだ後で転封になったことも我慢がならなかったし、宇都宮藩が正純就任とともに一〇万石から一五万石に加増されたことも加納殿には腹立たしかった。
 そしてついに加納殿は行動に出た。
 一九歳年下で、亡き嫡男よりも若い異母弟でもある秀忠に、日光へ参拝する為に宇都宮城へ宿泊する際、城内の湯殿に正純が釣天井を仕掛けて将軍を暗殺するという計画がある、と知らせるように取り計らったのである。俗にいう宇都宮城釣天井事件である。
 結論から云えば釣天井など存在しなかった。大体、そんな大掛かりな装置は事前に発見された可能性が高いのもそうだが、実際に暗殺に使用すれば事後の隠蔽は不可能に近……否、不可能だ!
 だが結果として、本多正純は出羽に配流となり、後に忠昌が再び宇都宮藩に復帰した。加納殿の報復は成功したのであった。この時点で徳川秀忠にとって年上の血縁者は長姉である加納殿だけだった(傍系まで調べたらいたかも知れないが、父・家康、母・西郷局、長兄・信康、次兄・秀康、次姉・督姫は皆鬼籍に入っていた)。立場は将軍でも、律儀者・秀忠は年長の身内に頭の上がらない男でもあった。

 寛永二(1625)年五月二七日、加納にて逝去。加納殿享年六六歳。戒名は盛徳院殿香林慈雲大姉


父親の溺愛
 徳川家康と築山殿の婚姻が今川義元によって押し付けられた政略結婚で、義元戦死を機に今川から離れ、織田についた家康にとって大きな足枷となっていたことは周知の通りである。拙サイトにおいて、徳川信康を何度か取り上げ、その都度築山殿についても触れているので、ここでは詳細には触れない(というか触れたら頁が幾らあっても足りない)が、最終的に築山殿と信康は信長と家康に殺されたのも同然の不幸な最期を遂げた。

 確かに故義元の姪であることを鼻にかけ、松平家を三河の田舎大名と見下し、夫のせいで実家の父・関口親永が切腹を命じられたという苦汁を飲んで来た築山殿の気持ちも分からないでもない。が、そんな築山殿と家康の夫婦関係が冷え切るのもまた無理のない話だった。
 だが、家康は実子に対する愛情まで失った訳ではなかった。信康に対しては最後の最後まで延命を図り、信康命日でもあった関ヶ原の戦い直前にその死を惜しむ独り言をこぼしていたのは有名である。
 そんな中、この悲劇に亀姫自身は全く巻き込まれなかった。

 勿論、奥平信昌に嫁いだのは長篠の戦いの翌年である天正四(1576)年なので、物心ついた時からずっと岡崎にいた亀姫は、荒れ出した兄・信康を見てはいなくても、一六年の間に、ある程度は腐る母を見続けていたことだろう。それに伴い、辛い思いをしたこともそれなりには存在しただろう。だが、少なくとも事件だけを追っている限り、そこに「亀姫」の名を見ることは無い。
 別の拙作でも触れているが、築山殿・徳川信康母子の死には謎が多いし、「信長の命で」の一言で済ませるには家康の行動は様々な意味で不可解ですらある。
 いずれにせよ、両者の死により、「家康は駿河人質時代との一切の縁が切れた。」と見られることが多いが、これは上っ面で、築山殿との間の娘・亀姫は生き続けたし、今川氏真を保護したし、駿府を終の棲家としていた。
 これだけの大事件に「亀姫」の名を見ることは無く、一方で信康なく、徳姫(信康夫人)が岐阜に帰った後も徳川・織田同盟に間接的にその名を残したことには家康の並々ならぬ配慮と尽力があった、と薩摩守は考える。

 「そんなの、薩摩守の推測に過ぎないじゃないか?」と云われれば返す言葉は無いが、戦史や御家の暗黒史に名前が見えない状況に娘を置くのも、父親の愛情の一つとして有り得るのでは?と考え、この様に推察した。

 一方で嫡男以外の男児達が部屋住みで一生を終えるか、良くて養子だった時代に嫡男を宇都宮藩主として貰い、三男に御家を継がすことが出来たのも、家康の愛情あってのことだろう。


女としての幸せ
 亀姫が娘として、妻として、そして加納殿が母として、祖母として両親に、夫に、息子や孫達に愛されていたのは明らかだが、「幸せだったか?」となれば何とも複雑である。
 嫁いだ後とはいえ、母と兄を襲った不幸や、同一のタイミングで良人と息子達に次々と先立たれた不幸は当時として珍しいものではなかったのだろうけれど、相次いだ息子達の死は最悪のタイミングで訪れた負の連鎖だっただろう。

 ただ、この時代、概して女性が弱い立場だったところを、孫達の力となり得、娘婿失脚の報復が可能だったのは「天下人徳川家康長女に生まれていた」からで、その意味では僥倖だったと思われる。
 家康は生涯に一一男五女を成しているが、前述した様に、加納殿は一六名の中でも弟・妹達と親子並みに年齢が離れていた(加納殿の嫡男・家昌は弟・秀忠より年長)。
 これは父・家康が初めはなかなか側室を置かなかったことに起因している。母・築山殿は嫉妬深く、家康にとって三人目の子となる秀康は母が築山殿の侍女だったので、虐待を恐れて本多作左衛門に匿われて秀康を産んだ程で、家康が本格的に(?)側室を持ち、子供を作りまくったのは築山殿の死後である。
 普通、ここまで年齢が離れると弟・妹とは終生顔を合わせないことも珍しくなかった。だが天下人の娘ゆえに、夫が義理とはいえ現代並みに一族待遇を受けたゆえに加納殿は弟・秀忠、甥・家光に発言権を持ち得た。まして秀忠は身内の年長に弱い面があったので加納殿の持つ影響力は絶大だった。

 もっとも、加納殿本人は息子達が自分より長生きし、娘夫婦も安泰なることで強権発動する必要がない人生の方が望ましかったのだろうけれど。
 幕府始祖の長女ゆえに持ち得た権力で孫達を守る為に繰り広げた政争ゆえに、死後にドSみたいに捉えられていることを知れば、草葉の陰で加納殿は何を思ったことだろうか?


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令和三(2021)年五月二六日 最終更新