第伍頁 淀殿

俗名茶々(ちゃちゃ)
出家名無し
生没年永禄一二(1569)年〜慶長二〇(1615)年五月八日
浅井長政
お市の方(織田氏)
豊臣秀吉
鶴松・豊臣秀頼
婚姻時の背景母・市に懸想していた秀吉の助平心
妻としての立場側室
略歴
 北近江の大名・浅井長政(あざいながまさ)とお市の方との間に永禄一二(1569)年に長女として生まれた、幼名は茶々(ちゃちゃ)。母・お市の方は織田信長の妹で、両親の婚姻は政略結婚以外の何物でもなかったが、夫婦仲は睦まじく、茶々の後にも妹に初(はつ)・江(ごう)が生まれ、それぞれに美女として名高かった母・お市の美貌を受け継いだことと、その後の数奇な運命からも浅井三姉妹と云えば、戦国時代切っての有名姉妹であることは言を待たないところである。

 当初、父・長政と伯父・信長との同盟は良好な関係に在ったが、信長によって室町幕府第一五代将軍に就任した足利義昭と信長の仲が悪化するにつれて同盟にも翳りが差した。
 義昭は、以前頼ったこともある越前の朝倉義景に信長追討を命じたことから、信長と義景が戦うことになったのだが、ここで信長は重大な盟約違反をしでかした。
 浅井と織田との同盟において、「織田は事前に浅井の了承無しに朝倉は攻めない。」との取り決めがあったが、信長からは何の相談もなく、茶々の祖父・久政は信長の違約に激怒した。
 久政はその父・亮政以来の朝倉との交誼を重んじる旨を長政に命じ、長政もそれに従わざるを得なかった(余談、且つ個人的感傷だが、信長を主人公とする漫画や作品では「長政は妹婿なのに信長を裏切った。」という記述が多いのに薩摩守は腹を立てている。先に盟約を破ったのは信長の方である)。

 足利義昭が各地に書状を送って浅井・朝倉・延暦寺・石山本願寺・長島一向一揆・武田による反信長包囲網で優位に立ち、善戦した長政だったが、天正元(1573)年四月に武田信玄が病死すると形勢は一気に不利に転じた。
 同年の七月には義昭が京を追放されて室町幕府が滅び、八月二〇日に盟友・朝倉義景が滅ぼされ、一週間後の同月二七日、長政自身も小谷城にて滅びの日を迎えた。

 祖父久政・父長政は自害の道を選び、茶々は母・二人の妹と供に小谷城を出た。末妹の江はこの年生まれたばかりの乳飲み子だったが、茶々と初は物心ついており、伯父・信長に対する怨みはしっかり残っていた。そのためか、彼女達は別の伯父・織田信包(おだのぶかね)の保護下に入った。

 天正一〇(1582)年六月二日に信長が本能寺の変に倒れると、母・お市は織田家筆頭家老・柴田勝家と再婚し、茶々も妹達と越前北ノ庄に移ったが、一年も経たない天正一一(1583)年四月二四日、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の前に北ノ庄は陥落。母は継父と運命を共にして自害し、茶々は二人の母親代わりとなって、秀吉の保護下に入った。

 羽柴秀吉こそは小谷城陥落時の先鋒で、北ノ庄をも滅ぼした張本人だったことから、茶々達は親の仇の世話になり続けると云う何とも遣り切れない日々を送った。
 その中で二人の妹は「秀吉養女」の立場で京極家・徳川家に嫁いでいったが、茶々だけはそのまま残り続け、天正一七(1589)年五月二七日に秀吉の長子・鶴松を産むこととなった。
 この「手柄」で茶々は山城国城を賜り、これ以降淀の方淀殿と呼ばれるようになった。一昔前まで主流だった淀君という呼ばれ方は江戸時代に悪役にされた彼女を貶める為、遊女によく使われた「君」という敬称(?)を付けた恣意的な呼び方で、勿論生前そう呼ばれたことは一度もなく、昨今では「淀殿」が主流となっているし、実名が必要な場合はこの後も「茶々」の名が出て来るのが歴史漫画やドラマでも忠実に反映されている。

 だが長子・鶴松は天正一九(1591)年八月五日に僅か三歳で夭折。約二年後となる文禄二(1593)年八月三日に次男・お拾い(秀頼)を産み、秀吉の数いる側室の中で筆頭の地位を得たが、彼女だけが秀吉の実子を懐妊したことで、「秀吉に胤無し」と見ていた当時の人々は秀頼の実父と淀殿の貞節を疑った。
 秀頼が生まれる前、既にそれを疑って揶揄した落書が洛中で見つかり、秀吉疑わしいものを四〇〇人以上処刑すると云う異常な怒り振りを示した。

 幸い秀頼は無事、丈夫に成長したが、慶長三(1598)年八月一八日、豊臣秀吉は薨去。形式上元服を済ませたとはいえ、秀頼はまだ六歳で政治を執れる筈もなく、秀吉の遺言もあって、政務は五大老・五奉行が共同で行うこととなったが、力関係や領国経営との両立からも事実上は徳川家康・前田利家・浅野長政等が取り仕切った。
 だが翌慶長四(1599)年閏三月三日に前田利家が亡くなると豊臣家内部の紛争は抑えが効かず、それが為に慶長五(1600)年に関ヶ原の戦いが勃発した。

 戦中、大坂城には西軍の(名目上の)総大将・毛利輝元が入城し、淀殿・秀頼母子は西軍の大義名分とされたが、西軍は大敗。石田三成は捕えられて打ち首、長束正家は切腹、宇喜多秀家は逃亡(六年後に捕えられて八丈島に流刑)、毛利輝元も脅迫に屈して大坂城を退去した。
 家康は、淀殿・秀頼に対しては「大義名分に利用されただけ。」として一切のお構いは無かったが、東軍に味方した大名達に「褒章」として次々領地の加増を行い、徳川家に都合のいい転封を行った結果、豊臣家は摂津・河内・和泉六五万石の一大名に陥った(名目上はまだまだ立場もあったが)。

 慶長八(1603)年二月一二日、徳川家康が征夷大将軍に就任。地位的にも明らかに豊臣家の上に立ったが、同時に家康は秀吉との生前の約束を守って、孫娘・千姫と秀頼の婚姻を実現させた。
 千姫は家康の三男・徳川秀忠の長女で、その母は淀殿の末妹・お江だったから、千姫は淀殿にとって可愛い、実の姪でもあった。
 だが、二年後の慶長一〇(1605)年に千姫の父・秀忠が征夷大将軍の地位を譲られたことで、家康に政権を豊臣家に返す意志が無いことがはっきりと示された。

 徳川氏による将軍職と政権の世襲化が明らかになるに連れ、諸大名は幕府に追従するようになり、それは秀吉子飼いと云われた武将出身の大名達も例外ではなかった。
 家康は秀忠に将軍職を譲った際に、その四日前に右大臣となった秀頼に岳父・秀忠の将軍職就任を供に祝うべく、二条城に上洛するよう促したが、淀殿はそれを強要するなら秀頼共々自害する!とまで云ってこれを拒んだ。

 だが力関係の逆転は如何ともし難く、慶長一六(1611)年三月一八日、二条城にて豊臣秀頼が徳川家康に挨拶に行き、約八年振りに両者が対面したが、この対面によって家康は、大柄だった祖父・浅井長政に似た秀頼の成長振りに警戒を抱くようになったと云われる。
 この二条城会談の直後から、会談に同行した加藤清正・浅野幸長、その父である浅野長政といった豊臣恩顧と呼ばれる大名達が次々と世を去り、遂には方広寺鐘銘事件を経て、大坂の冬の陣へと事態は悪化の一途を辿った。

 冬の陣の最中、淀殿は「自らが人質として江戸に下向するので、豊臣家の領地を増やして欲しい。」と持ちかけたり、自ら鎧を纏って、浪人衆を鼓舞したりしたが、偶々一発の砲弾が自らのすぐ近くに着弾して、侍女が圧死したのを目の当たりにしたことですっかり驚愕し、恐慌を来たしてしまった(←安直に嘲笑ったりしてはいけない。当時の日本人誰もが経験したことのない衝撃だったのだから)。
 かくして淀殿は妹・常高院(←お初の出家名)を介して講和に応じ、大坂城の外堀を埋めることで和睦は成立した。
 だが、徳川方は「外堀」を「惣堀(すべての堀)と聞いている。」と云うボケ老人の聞き間違いみたいな惚け方で内堀まで埋め始め、激怒した上に、戦争継続を望む浪人衆が堀を掘り返したため、家康方から「敵意が無いから、『大坂城を出て伊勢か大和に移る』・『浪人衆を全員追放する』のいずれかを選べ。」との「最後通牒」(←と書いて「むりなんだい」と読む)が来た。

 勿論状況的にも、意地的にも豊臣方が容れられないことを承知の上で吹っ掛けた無茶要求であった。かくして大坂夏の陣が勃発し、城に籠れない豊臣方は場外に打って出たが、慶長二〇(1615)年四月二九日に塙団右衛門が、五月六日に後藤又兵衛・薄田兼相・木村重成が、五月七日には最後の頼みの綱・真田幸村が相次いで討ち死にし、同日、大坂城天守閣は炎上した。
 五月八日、淀殿・秀頼母子と近臣達は山里廓に潜みつつ、千姫を家康の元に送って最後の助命措置を講じたが、家康・秀忠の意図はどうあれ廓は銃撃を浴び、淀殿は息子秀頼とともに自害し、廓内の爆薬に火を投じた。享年四七歳。
 淀殿の乳母・大蔵卿局、その息子で淀殿の乳兄弟に当たる大野治長、秀頼の介錯を行った毛利勝永、速水守久、真田大介(幸村の息子)、その他近臣二十数名が運命を共にした。


父親の溺愛
 茶々が父・浅井長政を失ったのは五歳の時だった。勿論この年齢は数え年なので、現在の感覚でいえば四歳に等しく、下手したら父の顔や声を覚えられない年齢だった。だから長政茶々をどのように可愛がったか、具体的な記録は残っていない。恐らくは婚姻話もまだか、有ったとしても机上論の段階だっただろう。

 状況から推考すると、長政は織田信長との戦いに複雑なものを感じながらも、お市と三人の娘達は溺愛していたのは間違いなさそうだ。
 茶々が生まれた翌年、早くも父・長政と伯父・信長の戦いは始まっていた。元亀元(1570)年四月二〇日、信長は朝倉攻めを開始し、同年六月二八日には姉川の戦いが起きた。
 長政個人は信長に好意的で、初名は同じ近江の六角義賢(ろっかくよしかた)の「賢」の字と、浅井家累代の諱である「政」の字を合わせて「浅井賢政」と名乗っていたのを、お市との婚姻を機に、信長の「長」の字を貰って「浅井長政」と改めていた程だった。
 だが、祖父・久政は信長が嫌いで、朝倉との同盟を重んじ、織田との同盟にも反対していた(織田家と朝倉家はともに管領・斯波氏の家臣筋で、仲が悪かった)。
 そして前述したように、先に盟約を破ったのは信長の方だった。それゆえ長政も久政が訴える破約に反対出来ず、浅井勢は朝倉勢に加勢することになった。

 この様な同盟瓦解の場合、同盟の証として輿入時に人質も兼ねていた妻が殺されたり、実家に送り返されたりすることが当時は珍しくなかった。
 命が助かり、婚家に留まることが許された場合でも、城内の一角や城外の屋敷に軟禁・幽閉されて、敵対の意を現す為に辛い立場に置かれることもあった。まして嫡男を産んでいないとなれば、妻の持つ立場は正室といえども強くなかった。

 だが長政はお市を離縁しなかったばかりか、信長と敵対した直後に市との間に初が生まれ、浅井家滅亡の年にはお江も生まれている。つまり信長と戦い続けながらも、お市とは夫婦の営みを持ち続けていた………品の無い書き方をすれば、ヤリ続けていた訳である。
 しかも、お市は長政が義景救援に向かった直後、信長に「陣中見舞い」と称して両端を紐で結んだ小豆袋を送って、「袋の鼠」であることを暗に知らせて、信長の戦場離脱に協力しているのである。
 同盟を破り、自らを窮地に追いやった兄でも命だけは助けたいとの一念で行った行為だろうけれど、この行為を理由にお市は処刑されてもおかしくなかった(恐らく久政辺りは処刑か離縁を一度は口にしたと思われる)。だが、長政の愛が変わることは無かったし、茶々の妹達がこの世に生まれ続けたのだから、それだけ長政はお市と愛し、同様に茶々も溺愛していたことだっただろう。


女としての幸せ
 茶々淀殿の人生が「幸せなものだったか?」と云われれば、結果論的にも、多くを失った過程的にも多くの方々が「No」と答えるのではないだろうか?
 何せ、淀殿人生には下記に見られるような不幸の目白押しなのである。

茶々淀殿を襲った不幸
年月日出来事茶々(淀殿)の年齢
元亀元(1570)年四月二〇日 伯父・織田信長が朝倉義景を攻め、父・浅井長政が朝倉に味方したことで同盟崩壊。二歳
天正元(1573)年八月二七日 父・浅井長政、祖父・浅井久政、織田勢に敗れて近江小谷城内に自害。五歳
天正元(1573)年九月某日 異母兄・万福丸、羽柴秀吉の手で処刑される。
天正一〇(1582)年六月二日 伯父・信長、京都本能寺にて明智光秀の襲撃に遭い、自害。従兄信忠・勝長も落命。一四歳
天正一一(1583)年四月二四日 羽柴秀吉との戦い敗れ、継父・柴田勝家、母・お市の方が北ノ庄城内にて自害。一五歳
天正一九(1591)年八月五日 長子・鶴松が三歳の幼さで病死。二三歳
慶長三(1598)年八月一八日 夫・豊臣秀吉薨去。三〇歳
慶長四(1599)年 乳兄弟・大野治長が徳川家康の暗殺を図った容疑で下総に流刑となる。三一歳
慶長五(1600)年八月一八日 関ヶ原の戦いで徳川方大勝。後の論功行賞で頼りになる近江派の武将(石田三成・長束正家・大谷吉継等)を失い、息子・秀頼の領地も実質六五万石の一大名並みに狭められた。三二歳
慶長一〇(1605)年四月一六日 妹婿・徳川秀忠が征夷大将軍に就任(徳川家の将軍位・政権世襲化明示)。三七歳
慶長一〇(1605)年五月一〇日 高台院(故秀吉正室)より、秀頼を秀忠将軍就任の祝辞言上に向かうことを勧められるがこれを拒絶。
慶長一六(1611)年三月二八日 秀頼、二条城にて徳川家康と会見(秀頼がかつての家老に頭を下げた形となった)。四三歳
慶長一九(1614)年七月二一日 方広寺鐘銘事件勃発。四六歳
慶長一九(1614)年一一月七日 大坂冬の陣勃発
慶長二〇(1615)年四月五日 家康から、転封か浪人追放の要請が来るが、これを拒否。四七歳
慶長二〇(1615)年四月二七日 大坂夏の陣勃発。 
慶長二〇(1615)年五月八日 前日に大坂城炎上。山里廓に追い詰められ、秀頼とともに自害。

 逆説的だが、淀殿の人生にこれだけの不幸があったのは、事前にそれだけの幸せを得ているからでもある。父・長政、母・お市、乳母・大蔵卿局、乳兄弟・大野治長、妹・初と江、継父・柴田勝家、夫・豊臣秀吉、息子・鶴松と秀頼、姪にして嫁・千姫、姪にして養女・完子(江と豊臣秀勝の娘)、孫・国松と天秀尼………と彼女は面子こそ違えど、生きて来たほぼすべての時間を、彼女を想う者達と共にして来た。
 そしてこれらが至福だったからこそ、失われた時の悲哀も大きかった。

 勿論、血縁や夫の愛情だけを考えればごく普通に存在する話である。まして淀殿の場合、血縁にも複雑な背景を背負っている。だが、彼女の場合、「女としての幸せ」を見た場合、特筆すべき点が二点ある。
 一つは「長姉として」である。なまじ同腹の男兄弟がおらず、早くに父母に死なれた為に、二人の妹との絆は「姉」の立場と「母代わり」の立場でより強い絆で結ばれることになった。そしてその二人の妹は京極家と徳川家に嫁ぎ、自身は豊臣家に嫁いだため、三姉妹は西の雄(豊臣)・故郷の名家(京極)・東の雄(徳川)の橋渡しとして多くの世人の注目するところとなった。
 初の嫁ぎ先である京極家は徳川・豊臣に比べれば知名度は低いが、伝統と家柄では遥かに上で、三姉妹を通じて、各家が親睦厚くあれば、何物にも壊されない平和をもたらすことも可能で、淀殿はその筆頭だった。

 平成二三(2011)年放映のNHK大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』では、豊臣秀頼(太賀)と千姫(芦田愛菜)の婚礼の為、大坂城まで付いて来た江(上野樹里)と、秀頼の母・淀殿 (宮沢りえ)、そしてそれを祝福に来た初(水沢あさみ)が再会を遂げ、和気藹藹とする中、お市の方(鈴木保奈美)のナレーションが「何と云うことでしょう。これが三人の娘達が一同に会した最後の時となったのでした。」と告げるシーンがあった。
 確かにこの後、戦乱が姉妹達を引き裂き、血の繋がった者同士が殺し合った悲劇を想えば何とも遣り切れない最後の再会ではある。
 まあ当然、この時点では彼女達はそんな悲劇は考えてもいなかっただろう。むしろ全員が嫁いだ身で、嫁ぎ先が大坂・近江・江戸と離れていたにもかかわらず、三姉妹で顔を合わすことが出来たのも、長姉と末妹の嫁ぎ先の大きさによるもので、これは淀殿で無ければ為し得なかった幸福だろう。
 それゆえ、「姉」としての淀殿は江のもう一人の娘・完子にも母に劣らぬ愛情を注いだ。完子は江と豊臣秀勝との間の子で、江が徳川秀忠に再嫁する際に豊臣家の都合で生き別れにならざるを得なかった娘だった。淀殿は悲しむ江を諭し、約束通り完子を立派に育て、九条家に嫁がせ、前述のシーンでは涙の母子再会もプロデュースしたのだった。
 辛さもあっただろうけれど、身内の為にここまですることが出来たのも一つの幸せだろう。

 もう一つの彼女の独特の幸せは、彼女だけが豊臣秀吉の実子を産んだと云うことにある。
 周知の通り、秀吉には数多くの側室がいた。当時は身分が低い者でも側室を持つのは珍しくなかったし、秀吉も城持ちになるまではお禰の嫉妬を恐れて浮気もこっそりしていたが、長浜城主になって以降はそうでもなく、自らが子を産めなかったお禰(一度産んだと云う説もある)も側室を持つこと自体を反対した訳ではなかった。
 まして関白まで登り詰めた秀吉にははっきり記録に残っているだけでも一四名の正室・側室がいたが、お禰・淀殿以外は極端に影が薄い。偏に「自分だけが旦那の子を産んだ。」と云う事実が得たステータスは秀吉の身分の高さとも相まって、非常な幸運だっただろう。

 かように愛情溢れる生涯を送ったことは一つの幸せだったと云えよう。江戸時代に入ると、徳川家の家名を高める為に豊臣家は悪し様に云われるようになり、淀殿も「淀君」の蔑称で呼ばれ、「胤の無い秀吉の子を産んだ=淫蕩な不倫妻」・「母親のエゴで御家を滅ぼした分からず屋」・「悪妻愚母」の中傷を伴ってその名が呼ばれることは現代に至るまで多々あった。
 三代将軍家光の母・崇源院の姉ゆえに、多少の手心が加わってこの有り様だったのである。現代に至って、豊臣秀頼が見直されることが多い故に溺愛で秀頼を縛った淀殿が良く書かれることはいまだに少ない。

 だが、業績や性格を越えて常に愛情を持って生きて来た淀殿は秘かに慕われ続けた。大坂夏の陣で自害した後、生き残った侍女達は命日に山里廓跡を訪れて淀殿の供養を続けたと伝わっている。当時、罪人とされた人間の供養は役人に睨まれるところだった。生半可な慕われた方ではこうはならなかっただろう。


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令和三(2021)年五月二六日 最終更新