第陸頁 五郎八姫

俗名五郎八(いろは)
出家名天麟院(てんりんいん)
生没年文禄三(1594)年六月一六日〜寛文元(1661)年五月八日
伊達政宗
愛姫(田村氏)
松平忠輝
無し(秘かに出産したとの伝説もある)
婚姻時の背景家康による政宗取り込み
妻としての立場正室
略歴
 『独眼竜』の異名で有名な伊達政宗を父に、その正室・愛姫(めごひめ。田村清顕の娘)を母に文禄三(1594)年六月一六日に京都の聚楽第屋敷にて生まれた。

 父・政宗と母・愛姫は天正七(1579)年に結婚していたが、なかなか子宝に恵まれなかった。母親の愛姫自身、外祖父・田村清顕の一人娘で、清顕は政宗に、「次男でも三男でも良いから、愛との間の子を田村家に…。」と訴えて天正一四(1586)年に亡くなっていた。
 そんな夫婦の間に結婚一五年目にして初めて授かった待望の子であったが、生まれて来たのが姫君と知ってかなり落胆したとも、男子名しか考えていなかったとも云われるが、いずれにせよ、「五郎八」(いろは)と命名された。確かに読み方を知らずに漢字だけを見たら男の名前に見える(苦笑)

 五郎八が生まれた当時、世は関白・豊臣秀吉によって天下統一された直後で、諸大名は京都聚楽第に京屋敷を構え、その妻子は秀吉に対する異心なき証としてそこに留め置かれた(早い話、人質)。後に江戸幕府が全く同じことをしているのは周知の通りである。
 それゆえ五郎八は伏見、大坂と各地を転々としたが、このことで徳川家康の目に留まることになった。
 慶長三(1598)年八月一八日に豊臣秀吉が薨去すると、五大老の一人である家康は秀吉の遺命に背く行為に出た。生前秀吉は大名家同士が許可なく姻戚関係になってはいけない、としていたが、家康はそれを無視するかのように次々と姻戚関係を結んだ。
 その多くは養女を中堅大名家の息子に嫁がせるものだったが、一人だけ直属の男児がいた。六男の松平忠輝(まつだいらただてる)である。そしてその忠輝の婚姻相手に選ばれたのが五郎八で、慶長四(1599)年一月二〇日に家康と政宗の間で婚約が成立した。

 この婚約以外にも様々な要因があったが、結果として翌慶長五(1600)年九月一五日、関ヶ原の戦いが勃発。政宗は家康に味方して会津で結城秀康(家康次男)と対峙した上杉景勝を北から牽制した。その功で戦後仙台六二万石を確立した政宗は慶長八(1603)年に江戸幕府が開府されると妻子を伏見から江戸に移した。勿論五郎八も供にである。

 慶長一〇(1605)年に家康から徳川秀忠に将軍位が譲られることで徳川政権世襲化が確定。その翌慶長一一(1606)年一二月二四日に忠輝五郎八は結婚し、五郎八忠輝の領土である越後高田に移った。
 予定通りの婚姻だったが、この後が複雑だった。
 岳父・家康にとって、実父・政宗は味方にしておきたい有能な男ではあったが、油断のならない野心家でもあった。また夫・忠輝は気性が激しく、型にはまらない異能の人物で、家康にとって戦国の世に在っては頼もしい倅でも、泰平の世には能を持て余す恐れがあった。
 忠輝の意志はともかく、政宗には間違いなく野心はあった。忠輝五郎八は父親達の老獪な思惑など知らずに仲睦まじくいたが、大坂の陣をきっかけに忠輝周辺はきな臭くなった。

 忠輝の後見人はもう一人いて、金山奉行の大久保長安だったが、長安が卒中で急死した直後に、その邸内から横領されていた大量の黄金や、キリシタン大名を中心とした諸大名との交流を現す連判状が見つかり、そこには政宗忠輝の名もあったことから、義理の親子は秀忠政権を盤石化させんとする勢力に睨まれることとなった。
 秀忠将軍就任直後、仮病を使って祝辞言上を拒否する豊臣秀頼に対して、家康は秀頼と一歳しか違わない忠輝を見舞いの為、将軍名代として大坂城に挨拶に行かせたことがあったが、これも睨まれる要因となった。
 更に大坂の陣が始まると、政宗を補佐役として出陣した忠輝が、秀頼との友誼から肝心なところで動かなかったり、行軍途中で将軍直参の旗本を無礼討ちにしたりしたこともあって、その後の素行も咎められ、元和元(1616)年九月一〇日、家康は忠輝を勘当し、武州深谷(現:埼玉県深谷市)での蟄居を命じた。

 元和二(1616)年四月一七日、徳川家康が薨去したことで、遂に忠輝の勘当は解かれず、二ヶ月後に正式に改易となり、伊勢朝熊(あさま)への配流となった。
 同時に五郎八忠輝とは離縁となり、実家に引き取られることとなり、残りの人生を仙台の父・政宗、母・愛姫、同母弟・忠宗の元で過ごした。


 仙台城本丸西館に住んだことから、西館殿と呼ばれたり、出家した後の号である天隣院と呼ばれたりした。
 一時はキリシタンになった五郎八が、最後は尼僧としての日々を送った訳だが、恐らくこれは江戸幕府のキリシタン禁令を前にした偽装と思われる。二三歳の若さで夫と別れた五郎八は生涯、政宗・愛姫を初めとする周囲からの再婚要請に応じなかった。これはキリスト教の離婚を認めない戒律を守り続けたからと考えられている。

 寛永一三(1636)年五月二四日、父・伊達政宗が七〇歳で逝去。一七年後の承応二(1653)年一月二四日、母・陽徳院(愛姫)が八六歳で逝去。同年、忠宗は自分の三男・宗良(五郎八の甥)に田村家を継がせ、父・政宗と外祖父・田村清顕との七四年越しの約束を果たした。
 その忠宗も五年後の万治元(1658)年七月一二日に五九歳で世を去り、三年後の寛文元(1661)年五月八日、五郎八自身も逝去した。享年六八歳。松島の天隣院に葬られた。

 尚、生涯の夫・松平忠輝の逝去は更にその二二年後に天和三(1683)年七月三日に享年九二歳と云う驚異的な長寿の果てに世を去った。
 ちなみに忠輝の勘当が徳川宗家第一八代当主にして、現当主でもある徳川恒孝(とくがわつねなり)氏によって解かれたのは更に三〇〇年以上を経た昭和末期だった(菩提寺・貞松院の山田和雄住職が徳川宗家に働きかけた)。


父親の溺愛
 「遅れて来た英雄」というのが伊達政宗の数多い異名の一つである。
 政宗は年代でいえば織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑とは二〇〜三〇年ほど後に生まれていた。それゆえ、彼が弱冠二三歳で会津の芦名義広を滅ぼして奥羽に覇を唱えたとき、世の中は秀吉の天下統一の一歩手前で、さすがの政宗もこの大勢力に抗し得ず、膝を屈した。
 だが、政宗は天下を己が物とすることを諦めた訳ではなく、秀吉・家康の動きを虎視眈々と見続けた。政宗は逆らわずとも、秀吉・家康を恐れていなかった。

 だが一方で、政宗は「勝てない喧嘩はしない」と云う合理主義者で、勝てないと見た相手には逆らわず、お追従をすることも出来る男だった(例:徳川秀忠逝去直後の徳川家光の挨拶)。ある意味、生き残る自信を持っている意味でも怖い物知らずであった。
 勿論、事が失敗に終わった際の覚悟も出来ていたのだろう。母に毒殺されかけたこともあることを想えば、野望を抱いて戦場で死ぬのも怖くは無かったのだろう。

 こういう男は自らの命の危機に恐怖しない。だが、その野心家で常に冷静な政宗も、愛娘・五郎八の危機にはうろたえまくった

 松平忠輝が徳川家を勘当となったとき、五郎八は江戸屋敷から家康のお気に入りである天海僧正に直訴すると云って聞かない、との報告を政宗は家臣・遠藤弥八から聞いた。
 大坂夏の陣直後、政宗は参議に任じられており、娘婿・忠輝冬の陣直後に伊予宇和島一〇万石を与えられていた庶長子・秀宗等をどう動かして戦後の徳川家に挑むか考察していたところで、別計略では支倉常長(はせくらつねなが)をスペインにやっており、海外の進んだ軍事力を味方につけて天下に挑むことも考えていた。その大望家が、

五郎八様は、天海僧正への取り成しが通らない場合には、信仰上夫との離縁は叶わないので、自害すると申しています。」

 と聞いて愕然としたのである。勿論、五郎八の主張は矛盾を孕んでいた。キリスト教は確かに神の前で誓った婚姻を破ることを戒めているが、自害はもっと戒めている。
 忠輝と別れまい、とする心根は信仰に適うものだが、その為に自害すると云うのはとんでもない破戒である。勿論政宗はそのことを指して五郎八を押し留めるよう遠藤に伝えたが、五郎八は「細川ガラシャ様の例もある!」(関ヶ原の戦いに際して石田方の人質になることを拒んで家臣に自分を殺させた明智光秀の娘・珠子のこと)といって聞かなかったと云う。
 確かにこの反論振りは政宗に似ているから(笑)、こんなところも政宗には愛おしく、同時に「本当にやりかねない……。」と云う恐怖もあっただろう。結局忠輝が意外に早目に刑罰を受け入れたことで、五郎八が急進的な行動に出ることは無かったのだが。

 とまあ、これは有名事件を背景とした一例である。
 伊達政宗は若き頃、溺愛してくれた父・輝宗を殺され、母・保春院に毒殺されかけて涙飲んで追放し、弟・小次郎を自らの手で切らざるを得ず、一時は正室・愛姫の侍女を疑って手討ちにしたことで愛姫との関係が冷え切ったこともあり、家庭的には物凄い不遇を味わってきた。
 その反動もあってか、当初は子宝に恵まれなかったためか、概して政宗は妻子を溺愛した。
 愛姫や庶長子・秀宗とは一時的な確執もあったが、最終的には和解し、待望の嫡男・忠宗には早くに家康の末娘・市姫と婚約。市姫が幼くして急死すると、秀忠養女と婚約し、早々とその立場を固めている。次女・牟宇姫には彼女を可愛がって、女言葉で綴った政宗の手紙が現存し、今際の際に末娘・千菊姫の見舞いの手紙を見た際には号泣したと伝えられている。

 愛姫とは一時冷えた夫婦仲を乗り越えて、時間が掛っても複数の子供を成し、庶長子を産んだ飯坂御前には秀宗と供に宇和島に行くことを許し、後から生まれた子供に飯坂氏の名跡を継ぐことを許しもした。

 これらの事例から伊達政宗自身が本来は家族想いの人物であったことは明らかで、特に子宝に恵まれていなかった時代に、待望の正室との間の子にして長女でもあった五郎八への想いがひとしおだったであろうことは想像に難くない。
 聡明さを愛でていたことも伝わっており、「五郎八が男子であれば」と嘆いたこともあり、同母弟・忠宗も何かと頼りにしたとのことだった。


女としての幸せ
 五郎八が父・伊達政宗、母・愛姫から溺愛されていたのは前述通りである。
 夫・忠輝とは仲睦まじくあったが、添い遂げることは出来ず、母となることは出来なかった。一説には離縁時に忠輝の子を懐妊していて、秘かに出産された子は後に天麟院の住職になったとも云われているが、それが史実だったとしても忠輝の立場からもその存在を世に知らしめる訳にはいかなかったのは間違いない。

 となると、考えられる彼女の幸せは、信仰を励みに、忠輝への貞節を守り続けた満足感と、後年になる程子煩悩化した政宗と愛姫の愛情を受け続け、同母弟・忠宗からそれなりに頼りとされた日々に在ったと云えよう。それが忠輝を失った悲しみをどこまで癒せたかは本人にしか知り得ない訳だが、豪姫(宇喜多秀家夫人)の例からも、夫への愛を貫いて耐えた後半生が一概に不幸とは云えないだろう。

 現在、伊達政宗の菩提寺でもある瑞鳳院に併設された資料館には政宗像と陽徳院愛姫像とともに尼僧姿の天麟院五郎八姫像も展示されている。今も愛情溢れた家族の想いは、この世でならずとも何処かに存在すると信じたいものである。

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令和三(2021)年五月二六日 最終更新