第参頁 太源崇孚雪斎……偉大過ぎた陣僧

名前太源崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)
生没年明応五(1496)年〜弘治元(1555)年閏一〇月一〇日
血統庵原氏
立場今川家陣僧
官職
柱石となった対象今川家
死の影響中心となる軍師を失ったことによる団結力低下
略歴 明応五(1496)年に駿河今川家重臣で庵原城主・庵原政盛を父に、興津横山城主・興津正信の娘を母に、誕生。庵原氏も、興津氏も居城が示すように土着の国人衆であると同時に今川家譜代の臣だった。

 幼少時の経歴は詳らかではないが、大永二(1522)年頃に九英承菊(きゅうえいしょうぎく)と名乗って、駿河富士山麓の善得寺に入寺して主君・今川氏親の子・芳菊丸(後の今川義元)の教育係を務め、後には京都五山の建仁寺で修行し、秀才の名を欲しいままにした。
承菊の噂を聞いた今川氏親から帰国して今川家に仕えるよう要請されたが、当初はこれを固辞した。

 享禄三(1530)年、建仁寺の師である常庵龍崇によって芳菊丸が得度して承芳と名を改めると、承菊と承芳は更なる修行の為、二度上洛し、善得寺から建仁寺へ、更に妙心寺へと移った。この頃に承芳は梅岳承芳と名乗り、承菊太原崇孚雪斎に改めた。

 大永六(1526)年、氏親が死去。家督は承芳の同母兄・氏輝が継ぎ、天文四(1535)年に善得寺住持の七回忌法要のため駿河に戻り、そのまま善得寺に入った。
 だが翌天文五(1536)年に氏輝が死去。同日に氏輝の後継者的立場だった次弟の彦五郎も死去(←自然死と考えるのは無理があるだろう)。後継者候補として、氏親三男・玄広恵探(承芳とは異母兄弟)と、氏親五男の承芳との家督争いとなった。
 この時、雪斎は承芳の家督相続に尽力し、花倉館に玄広恵探を攻め、自害に追い込んだ(花倉の乱)。かくして家督争いに勝利した承芳は還俗して今川義元となり、師として、側近として自分に尽力してくれた雪斎を益々信頼し、政治・軍事における最高顧問として重用した。

 義元の絶大な信頼を得た雪斎は、早速天文六(1537)年には甲斐の武田信虎との関係改善に務め、義元の正室に信虎の長女・定恵院を迎えた。同時に信虎の嫡男・晴信(信玄)に三条公頼の娘・三条の方(←今川家とは遠縁)との婚姻を斡旋し、甲駿同盟を成立させた。
 だがこれは今川家と相模の北条氏綱との関係悪化を招いた(義元の母・寿桂尼は北条氏)。氏綱は駿河東部に侵攻・占領(河東の乱)。当然今川家中は色めきだったが、雪斎はこれを抑え、天文一四(1545)年に関東管領・上杉憲政、武田晴信と共同で河東に出兵し、同地を取り戻した。

 天文一五(1546)年一〇月、尾張の織田信秀が西三河に侵入。三河の松平広忠は今川家に救援を求め、雪斎は大軍を率いて西三河に出兵した。翌天文一六(1547)年に三河田原城を攻め落とし、そのまた翌天文一七(1548)年に三河小豆坂で織田勢と戦い、これを破って西三河の支配権を得た(第二次小豆坂の戦い)。
 天文一八(1549)年一一月には雪斎は三河安祥城を攻めて織田信広(信秀庶長子)を捕らえ、織田家に奪われて人質となっていた松平竹千代(徳川家康)を人質交換で今川家の元へと取り戻した。

 天文一九(1550)年六月、義元の正室・定恵院が死去。雪斎今川家と武田家の関係を途切れさせない為に天文二一(1552)年一一月に義元の長女・嶺松院と晴信の嫡男・義信との婚姻を成立させ、同盟を持続させた。
 そして天文二三(1554)年三月、甲斐の武田晴信、相模の北条氏康に働きかけ、善得寺にて今川義元と共に三巨頭が一堂に会し、甲相駿三国同盟の締結。勿論これを成立させたのは雪斎であった(後世の創作という説も有る)。
 この同盟に伴い、既に成立していた武田義信・嶺松院、北条氏政・黄梅院(晴信の娘)の婚姻に続き、義元の嫡男・氏真と早川殿(氏康娘)との婚姻も成立。これにより、武田家は信濃侵出に、北条家は関東立国に、今川家は三河以西方面への侵出に、各々後顧の憂いがなくなった。

 これらの功績もあって、雪斎は天文一四(1545)年に高僧を招いて駿府に臨済寺を開寺することを許可され、自らは二世住持となった。そしてこの力を利用し、天文一九(1550)年(1550年)には京都妙心寺の第三五代住持に就任し、駿河でも善徳寺・清見寺を中興し、その他にも今川家の支配下にある駿河、遠江、三河にて妙心寺派の普及がなされ、雪斎は僧侶としても活躍した。
 天文二二(1553)年
雪斎は分国法・今川仮名目録に追加二一箇条を制定するのに寄与。臨済宗を中心とした寺社・宗教を統制し、商業政策なども行った。結果、雪斎一人だけの功績ではないが、今川家は「駿河京都」と呼ばれるほどの最盛期を迎えた。

 だがそれを見届けた様に弘治元(1555)年閏一〇月一〇日、甲斐への使者から戻った時の疲労から病を発したことが原因で駿河長慶寺にて死去した。太原崇孚雪斎享年六〇歳。

柱石としての役割 太原崇孚雪斎が今川義元、引いては今川家にとってどれほど貢献した人物であるかは、ほぼ「略歴」に記した通りである。
 軍事・内政・外交・教育のすべてに能力を発揮し、実績を上げた雪斎は、「軍師」とも、「執権」とも評され、金地院崇伝以上の「黒衣の宰相」とさえ呼ばれてさえいる(但し、ダークさでは崇伝の方が上だ(笑))。

 雪斎がこれほどの活躍が出来たことには、彼自身の能力と、教え子で、図らずも今川家当主となった今川義元の信頼が絶大だったからに他ならない。

 雪斎が晩年松平竹千代の師として如何に影響の大きい人物であったかは、以前拙サイトの「師弟が通る日本史」でも触れたが、これほど非の打ち所の無い人物も珍しい。
 だが少し疑問なのは、師であり、有能であったとはいえ、基本は僧侶に過ぎない雪斎が何故にここまでオールマイティに今川家の統治に携われたのか?ということである。戦国の世には虎哉宗乙、岐秀元伯、南光坊天海、天室光育の様に大名の師となった者は少なくない(前から順に伊達政宗、武田信玄、徳川家康、上杉謙信の師)。また、僧侶は世俗を捨てた存在ゆえに「中立の立場」として大名間の使者を務めることも多く、安国寺恵瓊の様に外交僧から大きな力を持つようになった者もいる。

 ゆえに外交・教育に尽力した高僧は珍しくないが、坊主が政治・軍事までしゃしゃり出てくるのは武将達が快く思わない(戦場に従軍する「陣僧」という存在もいたにはいたが、外交や戦死者への供養が主任務だった)。まして今川家中に人材が払底していた訳でもない。まして義元も壮絶な家督争いに勝利して当主となったことや、武田と同盟した直後に一時的に北条に領土の一部を奪われたことを思えば、ある程度の時期までは絶対的な力を持っていたとも思えない。
 ここからは薩摩守の想像だが、今川家中が駿河・遠江・三河の国人衆の集まりにあったゆえ、誰を厚遇しても対立する他の国人が反発するリスクがあり、それならいっそ、世俗的に(建前上は)中立な僧が万事にサポートする形で「義元の右腕」となった方が、まとまりがつくと踏んだのではないだろうか?

 とにかく雪斎の失策を書いた書籍をついぞ見たことが無い。また彼が誰かに悪く云われたシーンも見たことが無い(恐れられていたシーンはあったが)。家督争いと国人衆の集まりという極めて一枚岩になり難い状況下でこれらを一致団結させた「柱石」振りは能力もあったが、それ以上のものもあっただろう。


逝きて後 少し前まで、今川義元は桶狭間の戦いで呆気なく落命したことと、その後の今川家が見る影もなかったことから「貴族化して、太って腑抜けたバカ殿」というイメージがあったが、現在ではかなり見直されている。
 実際、桶狭間に向かった時の義元は二万五〇〇〇の兵を率いていたが、永禄三(1560)年当時、三ヶ国の領土に充分な備えの兵を残した上でこれだけの兵を率いることは誰にも出来なかったとされている。
 それだけ今川義元が当主として築き上げた勢力とその充実が優れていた訳だが、桶狭間の戦い時、既に太原崇孚雪斎の逝去から五年が経過していた。

 周知の通り、義元のまさかの敗死後、今川家は坂道を転げ落ちるように凋落した訳だが、これには松平元康を初めとする三河・遠江の国人衆の急速な離反が挙げられる。離反の急先鋒となった元康自身、雪斎の教育を受け、雪斎逝去時に「今の今川家雪斎禅師に代わる人物などいない。」と見ていた。
 つまり雪斎逝去 → 義元まさかの戦死 → 今川家凋落を見ると、元康の見解通り、今川家中には能力的にはともかく、束ね役として雪斎の代わりになり得る人物が存在しなかったことが分かる。厳密には愛弟子である義元には務まっていたが、主君という立場に助けられて可能だったとも云える。

 話は更に後になるが、今川氏真が武田・徳川の挟撃に遭って大名としての家格を失った後、遠江・駿河の国人領主達はその時その時の状況に応じて武田に就くか、徳川に就くかで物凄く頭を悩ませた。
 それだけ雪斎が急速に束ね、まとめあげたものは大きかったと云えよう。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新