第伍頁 朝倉宗滴……長命終焉が御家の終焉

名前朝倉宗滴(あさくらそうてき)
生没年文明九年(1477)年〜天文二四(1555)年九月八日
血統越前朝倉家
立場朝倉家支流
官職敦賀郡司
柱石となった対象朝倉家
死の影響加賀への影響力低下と御家の衰退
略歴 文明九年(1477)年に越前朝倉家第七代当主・朝倉孝景(英林)の八男として誕生。長兄・氏景(第八代当主)とは二八歳も離れていたので、元服して宗家に仕えるようになった時には四歳年上の甥・貞景が第九代当主に就任済みだった。
 貞景の後も大甥・孝景(宗淳。第一〇代当主)、曾姪孫・義景(第一一代当主)と4台に渡って使えた。
 通称は小太郎(こたろう)で、諱は教景(のりかげ)だが、朝倉家には同名の親族が多いので、本作では出家名である宗滴で統一させて頂く。

 宗滴にとって父と大甥が「孝景」、高祖父と甥が「貞景」、と外から見ても、内から見ても実にややこしい(苦笑)。宗滴自身の諱である「教景」も曾祖父・五兄と共通である(五兄は宗滴元服前に内紛で殺された)。
 本当にややこしいので、ごっちゃになったら下記の家系図を参照にして頂きたい(苦笑)。



 家督相続が丸で見込めない兄弟順に生まれたこともあって、前半生は詳らかではないが、文亀三(1503)年、二六歳の時に敦賀城主・朝倉景豊の謀反時にその名を記録に見せ出した。
 景豊は前述の家系図に入らない傍系の親族だが、宗滴にとっては妻の兄に当たった。その縁で宗滴は景豊に加担するよう要求されたが、宗滴は加担を拒絶する為に竜興寺に出家し、謀反の企てを当主・朝倉貞景に密告した。
 これが元で景豊の謀反は失敗に終わり、宗滴は自害を命じられた景豊に代わって金ヶ崎城主として敦賀郡司に就き、以後朝倉家の軍務を取り仕切ることとなり、兄・氏景系統の当主に忠節を尽くした。

 三年後の永正三(1506)年七月、越前に一向一揆が勃発。既に隣国の加賀、越中、能登は一向宗門徒の支配下にあり、越前一向一揆も加賀一向一揆並びに越前甲斐氏の牢人衆等の加勢を受けており、三〇万を号するほどの大勢力だった(←さすがにこの数は有り得ないが)。
 この難敵に宗滴は総大将として朝倉勢と一向宗に敵対する門徒の連合軍を率い、九頭竜川一帯で対峙した。圧倒的多数の敵軍に対し、宗滴が率いる軍勢は一万一〇〇〇ほどだったが、夜襲・奇襲で八月六日に中ノ郷で敵勢を打ち破ったのを皮切りに一向宗側を総崩れに追い込んで勝利をもたらした。

 永正一四(1517)年、幕命を受けた当主孝景から宗滴は軍奉行を命じられ、若狭守護・武田氏の援軍として若狭・丹後に出陣し、若狭逸見氏と丹後守護代延永氏の反乱を鎮圧した。
 大永五(1525)年、六角氏に協力して近江小谷城に出陣し、美濃の内乱に介入した浅井亮政(長政の祖父)を牽制。最終的には六角と浅井の調停役を務めた。これが縁となって朝倉家と浅井家は固い絆で結ばれることとなった(浅井長政が織田信長を敵に回してまで朝倉義景を助けたのは有名。ちなみに裏切ったのは信長が先な)。

 大永七(1527)年、朝倉家は近江に逃れていた第一二代将軍・足利義晴、管領・細川高国に協力。宗滴は上洛して三好勢等とも交戦し、勝利した。これにより越前守護・斯波氏(管領も輩出した名家)の代理に過ぎなかった朝倉家の幕府体制内における発言力も大きなものとなった。
 同年、五一歳の宗滴は養子の朝倉景紀に敦賀郡司の職を譲って表向き隠居したが、軍奉行には留任し、各地に戦い続けた。

 天文一七(1548)年、大甥にして第一〇代当主・孝景が急死し、その嫡男・義景が一六歳の若さで第一一代当主に就任。宗滴の家格は高くなかったが、歴年の業績と一族の長老的な立場で義景を補佐した。
 だが七年後の天文二四(1555)年、越後の長尾景虎と共同で加賀一向一揆を討つべく出陣し、三城を陥落せしめる活躍をしたが、陣中で病に倒れた。それゆえに宗滴は朝倉景隆(義景従弟)に総大将の任務を任せて一乗谷に帰還。養生に努めたが、九月八日に病死した。朝倉宗滴享年七九歳。
 同年、織田信長が宗家から清州城を奪い、武田信玄と上杉謙信が第二回川中島の戦いに挑み、毛利元就が厳島の戦いに陶晴賢を撃破するなど、戦国の世は新たな局面に移ろうとしていた。


柱石としての役割 前述した様に本来、室町幕府から越前の守護に任命されていたのは斯波氏だった。斯波氏は室町幕府において征夷大将軍に継ぐ高位である管領を輩出した三管領家の一つで、越前だけでなく尾張の守護も兼務していた。
 勿論ここまでの立場になると斯波氏は京都に常駐することになり、守護としての任務は「守護代」が代理として現地を治めた。そして越前守護代が朝倉家で、尾張守護代が織田家だった。

 つまり将軍家にとって朝倉家は陪臣に過ぎなかった。だが将軍家同様、斯波氏も下剋上で勢力は低下しており、朝倉家は事実上の越前守護となっていた。
 そんな家中にあって、長老格として宗家四代に仕え、軍事の頭を担い、数々の武勲を立てて朝倉家の武威を高め、越前にかつてない繁栄をもたらすのに貢献したのが朝倉宗滴だった。
 では宗滴朝倉家の「柱石」足り得た要因はどこにあったのか?
 大きく分けて三つある、と薩摩守は考える。「分家の立場に徹して宗家への忠義を貫いた」、「貯蓄の心掛け」、「情報収集能力」である。

 「宗家への忠義」は筋金入りで、前述の文亀三(1503)年の朝倉景豊の謀反でこれに加担せず、鎮圧に活躍したのは前述した通りだが、この謀反には実兄の景総(かげふさ)も加担していた。
 というのも、景豊は宗滴にとって、義兄(妻の兄)であったと同時に、景総の娘を妻としていた。景豊も景総も宗滴朝倉家にとって宗家を大きく離れていて、自分達より遥かに若い当主に仕える意味では似た立場だった。だが宗滴は宗家への忠義を重んじて謀反計画を密告し、景豊を自刃に、景総を国外追放に追いやった。
 この当時の忠義は江戸時代に武士道や朱子学から確立した忠義程厳格ではなく、宗滴は時として血縁的に近い実兄や、義兄を売って宗家に媚びた者として陰口を叩かれることもあったが、「武者は犬とも云え、畜生とも云え、勝つ事が本にて候。」と云って、プライドそっちのけで武人としての働きに徹した。

 次の「貯蓄」だが、宗滴は日頃からこれに心掛け、北条早雲が「蔵に針を積むような貯蓄を行い、合戦の際に玉を砕いても戦費に投入」していたとして、これを見習ったと云う。

 最後の「情報収集能力」だが、その情報源は諸国を渡り歩く連歌師との交際にあった。最前の北条早雲の貯蓄の心掛けは、連歌師・柴屋軒宗長から聞いたものだった。

 かかる心構えで軍事に活躍した宗滴は、敦賀を固め、幕府の要請に応じ、その期待に応えたことで朝倉家の家格を上昇させるという効果を上げるものとなった。外交でも越後の長尾為景・長尾景虎(上杉謙信)との交流を任され、宗滴存命中は周辺諸国も朝倉家を恐れた。

 足利義昭に頼られながら上洛出来なかったことや、滅亡時の呆気なさから最後の当主・義景を初めとして朝倉家は戦国大名の中では弱小勢力に見られがちだが、朝倉家の最盛期は義景が当主で宗滴が存命していた時で、その当時の越前は「越前京都」とすら呼ばれた。
 応仁の乱以後、天皇家も将軍家もすっかり力を落として京都が荒廃していた時代に、領国を「京都」と呼ばれるほど繁栄させていたのは、「山口京都」を生んだ大内家と、「駿河京都」を生んだ今川家と、「越前京都」を生んだ朝倉家だけだった。
 だからこそ永禄一〇(1567)年に第一三代将軍足利義輝が暗殺されると、その弟足利義昭は越前を頼りとしたのだが、宗滴はその一二年前に世を去っていた。また、隣国に加賀一向一揆という、戦の天才・上杉謙信をも苦戦させた難敵が居座っていたのも朝倉家の不運だった。


逝きて後 朝倉宗滴の死は、朝倉家草創期最後の功臣が世を去ったことを意味した。結論を先に云うと、宗滴の死から一八年後に朝倉家は織田信長に滅ぼされた。
 その滅亡時の当主で、何かと酷評されることの多い朝倉義景だが、宗滴存命中は立派な君主として振る舞っており、宗滴死後もしばらくは深刻な政治情勢に巻き込まれることが無かったため越前は周辺諸国に比べて安定・平和・栄華を極めた。当時の越前を訪れた者は「義景の殿は聖人君子の道を行ない、国もよく治まっている。羨ましい限りである」と讃え、公家・三条西公条なども越前の繁栄を羨んだと云う。

 それがすべて宗滴一人の功績という訳ではないだろうけれど、その死後に彼に代われるだけの器量を持った人物が朝倉家に不在だったのは御家にとって残念な事実であった。
 このため宗滴の死後しばらくして、朝倉家は義景の下で一族や家臣の内紛、一向一揆衆や周辺諸国の攻撃などで衰退していくことになる。
 宗滴朝倉家で名将であったことは彼の死後に思い知らされることになった。
 後任の総大将となった景隆(宗滴の甥)は九〜一〇月にかけて加賀の各所を攻めたがほとんど戦果は挙げられなかった。それどころか翌年になると加賀一向一揆が越前に侵入して各地を焼き払い、窮した朝倉家は四月になって幕府の仲介で一揆と和睦する有様だった。

 そして天正元(1573)年八月二〇日、朝倉義景が自害に追い込まれたことで朝倉家は滅亡した。滅亡に追いやったのは織田信長だが、土壇場で彼を裏切ったのは従兄弟の朝倉景鏡(あさくらかげあき)だった。宗滴という分家の助力で発展した朝倉家宗滴の死でもって衰退し、景鏡という分家の裏切りで滅亡したとは何とも皮肉な話である。
 そしてその宗滴は、宗家を滅ぼすこととなった織田信長の才能を見抜いていたというから、これまた皮肉である。臨終の直前に「今すぐ死んでも云い残すことはない。でも、あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しんでいるのではない。織田上総介の行く末を見たかったのだ。」と云い残していた。

 ただでさえ御家を滅ぼした当主は後世悪し様に云われる。それでも武田勝頼、北条氏政等はまだ見直される様になって来たが、反信長包囲網の一角を目先の判断で綻びさせたことや、姉川の戦いで同盟相手の浅井長政が織田勢相手に優勢に戦ったのに徳川勢に敗れたことで敗北に追いやったり、足利義昭に頼られたタイミングを活かせなかったり、信長が行動を開始して一二日で滅ぼされたりした朝倉義景は殆ど良い評価を聞かない。
 一説には、徳川の世が到来したとき、二代将軍徳川秀忠の正室で、三代将軍徳川家光の母であった崇源院(お江)が実父・浅井長政の名誉を守る為、「長政公が滅びたのは、同盟相手であった朝倉義景が余に不甲斐なかったから。」と喧伝したため、義景は実態以上に悪し様にと云われているとの説もある。
 ともあれ朝倉家の「柱石」として活躍しつつも、自らの死後に宗家がこうなったことを朝倉宗滴は草葉の陰でどう思ったことだろう。その存在は「後継者を残す。」と云うことの大切さを教えてくれる。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新