第陸頁 北条幻庵……五代百年の生き字引

名前北条幻庵(ほうじょうげんあん)
生没年明応二年(1493)年〜天正一七(1589)年一一月一日
血統伊勢氏→後北条氏
立場後北条氏支流
官職箱根権現社別当、金剛王院院主
柱石となった対象後北条氏
死の影響北条家滅亡(と云い切るにはかなり語弊があるが……)
略歴 明応二(1493)年に、伊勢長氏(北条早雲)と駿河の有力豪族であった葛山氏の娘との間に三男にして末子として生また。幼名は菊寿丸(きくじゅまる)、長じて伊勢三郎長綱(ながつな)、長兄にして当主の北条氏綱が北条に改正したことによって北条長綱となり、出家後に幻庵宗哲(げんあんそうてつ)と号したことから、一般には「北条幻庵」と呼ばれ、本作でもややこしさを避ける為にその名で統一して記す。




 早雲の末子だったことから、幼い頃に僧籍に入り、箱根権現社の別当寺金剛王院に入寺したが、これには早くから関東立国を狙う早雲が、東国武士に畏敬されていた箱根権現を抑える狙いがあったと見られている。
 それゆえか、二六歳にしてまだ菊寿丸と名乗っていた時分の、永正一六(1519)年四月二八日に早雲から四四〇〇貫の所領を与えられた。だが四ヶ月もしない同年八月一五日に父・早雲は八八歳で没した。

 その後は長兄氏綱が継ぎ、氏綱は大永三(1523)年に早雲の遺志を継いで箱根権現を再造営し、その時の棟札には三九世別当の海実と並んで菊寿丸の名が記されている。ちなみに伊勢氏が北条姓に改姓したのはこの頃で、氏綱と幻庵の父・早雲は生前に北条姓を名乗ったことはない。
 その幻庵は近江の三井寺に入寺し、大永四(1524)年に出家。この年、または翌年に箱根権現四〇世別当になったと思われており、天文七(1538)年頃まで在職した。そして別当になった際に長綱と名乗り、天文五(1536)年辺りから宗哲と名乗った。
 だがこの間も幻庵はしっかり北条家の親族・武将として活躍しており、天文四(1535)年八月に武田信虎との甲斐山中に戦い、同年一〇月には上杉朝興と武蔵入間川合戦に活躍した。

 天文一〇(1541)年七月一九日、兄・氏綱が逝去し、北条家の家督はその嫡男で、幻庵には甥となる北条氏康が第三代当主として継いだ。
 翌天文一一(1542)年五月、甥の玉縄城主・北条為昌の死去により、三浦衆と小机衆を指揮下に置くようになった。

 永禄三(1560)年、長男・三郎時長が夭折したため、次男・綱重に家督を委譲。小机城主の地位も氏康の弟・氏尭に譲った(氏尭は程なく没した)。同年桶狭間の戦いで駿河の今川義元がまさかの戦死を遂げ、相甲駿三国同盟に翳りが差した。

 だが永禄一一(1568)年、遂に武田信玄は駿河の今川氏真を攻め、相甲駿三国同盟は瓦解。北条家(家督はこの二年に第四代氏政に譲られていた)は同盟を重んじて、前当主の娘婿で、現当主の義弟に当たる今川氏真に味方し、氏政は涙呑んで正室・黄梅院(武田信玄長女)を甲斐に送り返した。
 そして氏真を保護した北条家は永禄一二(1569)年に武田信玄との駿河蒲原城に戦ったが、この戦いで幻庵は次男・綱重、三男・長順を相次いで失った。これに同情した氏康は同年七男の氏秀を養子に迎えて家督と小机城を譲り、正式に隠居して幻庵宗哲と号した。
 だがすぐに北条家と上杉家の間に相甲三国同盟が成立して、それに伴って氏秀が上杉謙信の養子となったため、小机城は氏光(氏政末弟)に継がせ、家督は孫・氏隆(綱重の子)に継がせた。

 二年後の元亀二(1571)年一〇月三日、北条氏康が逝去(遺言で上杉との同盟が破棄され、再度武田と結んだ)。この二年後には室町幕府が滅亡し、その後の北条家ではその時々の情勢に応じて、武田・北条・織田・徳川と結んだり離れたりした。
 天正六(1578)年三月一三日、越後の上杉謙信が急死し、御館の乱と呼ばれる家督争いで上杉景虎(北条氏秀)が上杉景勝に敗死し、同盟相手だった武田勝頼が景勝に味方したため、北条家は上杉・武田の両家と断交し、天正八(1580)年三月一〇日に石山本願寺を降伏させて勢い絶頂の織田信長に臣従を請うた。そして同年八月一九日に氏政は嫡男に家督を譲り、北条氏直が第五代当主となった。

 そして天正一〇(1582)年二月に信長が甲斐侵攻を始めると北条家も上野を、あわよくば甲斐・駿河も我が物にせんとしてこれに合力。三月一〇日に武田家は滅びた(武田崩れ)。
 だが三ヶ月もしない六月二日に織田信長が本能寺の変に命を落とし、氏政・氏直父子は直後の織田家の混乱に乗じて滝川一益を破って上野支配を固め、天正一三(1585)年には北条家の版図は最大に達した。
 その後北条家は徳川家康の次女を氏直の妻に娶った縁で徳川家との同盟を重んじて関八州の支配を更に固めたが天正一七(1589)年一一月一日、ここまで生きて来た幻庵にも天寿が訪れた。北条幻庵享年九七歳!当時としては勿論、現代から見ても驚異的な長寿で、奇しくもこの翌年に北条家は豊臣秀吉に滅ぼされたこともあって、彼の人生は北条家五代一〇〇年と共にあった。」と云われる。

 一応、幻庵が傍流だったことから記録に曖昧な点や、史料による相違から実際には文亀元(1501)年生まれという説があり、没年に関しても天正一二(1584)年説、天正一三(1585)年説があることも付記しておくが、それでも北条家五代一〇〇年の大部分を共にした長寿であったことに変わりはない。
 彼に匹敵する長寿と云えば松平忠輝(九二歳没)、真田信之(九三歳没)ぐらいだが、幻庵は彼等にも負けていない………誠、恐るべき長寿と云わざるを得ない。


柱石としての役割 「命長ければ恥多し」という言葉があるが、北条幻庵はこれが全く当てはまらない人物で、これほど非の打ちどころが見当たらない人物も珍しい。
 初代早雲から五代氏直まですべての当主に仕えた唯一の人物で、父・早雲逝去時二七歳、長兄・氏綱逝去時四九歳、甥・氏康逝去時七九歳、大甥・氏政隠居時八八歳だった。
 さすがに父や長兄が健在な頃はさほど影響力があった訳でもないようだが、氏康の代には「一族の最長老」として重んじられ、永禄二(1559)年二月作成の「北条家所領役帳」によれば、家中で最大の五四五七貫八六文の所領を領有していた。二番目に多かった松田憲秀の二七九八貫一一〇文と比べてもほぼ倍なのも驚きだが、同書によると直臣約三九〇名の所領高合計が六四二五〇貫文だったと云うから、全体の一割弱を一人で領有したことになる
 当然その言も重んじられ、永禄四(1561)年三月、曽我山(小田原市)における上杉謙信との合戦で戦功のあった大藤式部丞を賞するように氏康・氏政らに進言し、容れられた。ちなみに同年は第四回川中島の戦いが行われた年で、対上杉を巡って非常に重要な年でもあった。
 このように幻庵は一門の長老として宗家当主や家臣団に対し隠然たる力を保有していた。

 勿論、いくら「一族の最長老」でも無能者では「一族のお荷物」と見做され、人格的に敵を作るものだと「ただの口喧しい爺」として関東の中でも辺境に追いやられるか、弱小名家へ養子に出されるのがおちだった訳で、幻庵が重用され、その言が重んじられたのは有能だったからである。
 北条家の前身である伊勢家では作法伝奏を業としていたが、その血筋を色濃く継いだ幻庵は、文化の知識も多彩で、和歌・連歌・茶道・庭園・一節切りなどに通じていた教養ある人物でもあった。
 手先も器用であり、鞍鐙作りの名人としても知られ、「鞍打幻庵」の異名を持ち、一節切り尺八も自作でき、その独特な作りは「幻庵切り」と呼ばれている。
 文化人としても、天文三(1534)年一二月一八日に冷泉為和を招いて歌会を催し、天文五(1536)年八月には藤原定家の歌集『藤川百書』の相伝者である高井堯慶の所説に注釈書を著し、天正八(1582)年閏八月には「北条家切っての知恵者」と云われた板部岡江雪斎(武田信玄の影武者を務めた武田信廉を見抜けなかったこともあったが)に古今伝授についての証文を与えた。
 和歌への造詣の深さは当代一流で連歌にも長け、連歌師・宗牧とは近江三井寺時代からの付き合いで、天文一四(1545)年二月に小田原で宗牧と連歌会を催した。
 古典籍の蔵書家でもあり、藤原定家の歌集や『太平記』を所蔵。狩野派の絵師とも交流があった。

 その文化人度と教養は身内にも遺憾なく発揮され、氏康の娘が嫁ぐ際に『幻庵おほへ書』という礼儀作法の心得を記した書を渡しており、北条家五代の菩提寺である早雲寺の庭園を作りもした。
 そして内政家としても庶民とも気安く接する度量があり…………………………おいっ!誰か、この爺さんの欠点を教えてくれ!!!(苦笑)

 そんな北条幻庵は、『北条五代記』に、
 「早雲寺氏茂、春松院氏綱、大聖寺氏康、慈雲院氏政、松巌院氏直まで五代に仕え、武略をもて君を助け、仁義を施して天意に達し、終焉の刻には、手に印を結び、口に嬬をとなへて、即身成仏の瑞相を現ず。権化の再来なりとぞ、人沙汰し侍る。」
 と評されている。
 『北条五代記』北条家の旧臣によって編まれた、そのまま史料とするには疑問視されるほどの親北条家書物であることを考慮に入れても、ここまで褒め倒される人物は稀有であろう。


逝きて後 前述した様に、北条幻庵の逝去は天正一七(1589)年一一月一日のことだった。この段階で豊臣秀吉による天下統一は指呼の間にあったと云っていい。
 何度か過去作で触れたので簡単にしか繰り返さないが、北条家が秀吉に敗れたのは北条氏政が無能だったからではない。というか、誰もが秀吉に勝てなかったし、ついでを云えば北条家は厳密には滅びていない(関東に覇を唱えたことから比較すれば滅亡級に落ちぶれはしたが、大名としては何とか生き延びた)。
 故に幻庵が生きていたからと云って、北条家が生き残れた可能性が高かった訳ではない(どれほどの家格で生き残れたかは違ったかも知れないが)。

 実際、幻庵の逝去前から、秀吉による北条家への臣従強要は始まっていた。
 最初の臣従強要は、幻庵逝去一年前の天正一六(1588)年だった。この二年前に秀吉は九州の島津も降しており、この年には島津を介して琉球にもその覇を及ぼし、有名な検地刀狩を行って、内政的な影響を日本全土に及ぼし、長曾我部元親、毛利輝元、上杉景勝も臣従を誓約済みだった。
 勿論この様な大勢力相手にいきなり強硬姿勢に出るほど氏政・氏直も馬鹿ではなかった。徳川家康に顔の利く北条氏規(氏政弟、氏直叔父、幻庵大甥)を上洛させ、当主・氏直の岳父である徳川家康を介して穏便に取り計らう一方で、関東の守りを固める硬軟両面作に出ていた。
 だが秀吉の臣従強要は強硬で、氏政・氏直親子も五代一〇〇年の関東立国にこだわったため、幻庵の死から四ヶ月後の天正一八(1590)年三月に豊臣軍の侵攻が開始された。その総軍勢は三〇万……………六年前の小牧・長久手の戦いで秀吉が率いた軍勢が一二万、そこから一六年遡ると織田信長が足利義昭を奉じて上洛したときに率いた六万が大軍勢とされ、更に八年遡ると、今川義元が上洛に挑んだ際の二万五〇〇〇が大軍勢とされていたのである。
 勿論北条家は顎を落とすしかなかった。同年四月には豊臣軍によって小田原城が包囲されたが、ただの大軍による包囲ではない。小田原城以外の諸城をすっかり陥落せしめられ、上杉謙信・武田信玄の両巨頭が落とせなかった難攻不落の小田原城を何年でも包囲出来るよう、城砦増築で包囲されたのである。
 かくして七月五日、当主・北条氏直が自身の切腹を条件に全将兵の助命を請うて降伏。秀吉の沙汰は、(家康の助命嘆願もあって)氏直の態度を殊勝としての高野山への追放で、タカ派と見た北条氏政、氏照、大道寺政繁、松田憲秀のみを切腹とし、ここに関東に覇を唱えた北条家は完全にその家格を失った(氏政達の切腹は七月一一日)。
 それは北条幻庵の逝去から僅か八ヶ月後のことで、奇しくも幻庵の生きた時間と北条家五代一〇〇年がほぼ重なる為、「柱石」としての幻庵の存在感は殊更大きく感じられ、その逝去は「柱石」の倒壊に擬えられるのだった。
 ま、朝倉義景に比べれば、北条氏政はまだ見直されつつあるから、今後はそのイメージも徐々に変わると思われるが、それでも幻庵北条家五代一〇〇年に大きく貢献したイメージが色褪せることもないだろう。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新