第肆頁 武田信繁……御親類衆・国人間の扇の要

名前武田信繁(たけだのぶしげ)
生没年大永五年(1525)年〜永禄四(1561)年九月一〇日
血統甲斐源氏武田家
立場当主次弟
官職左馬之助(典厩)
柱石となった対象武田家
死の影響御親類衆の結束弛緩
略歴 大永五年(1525)年、甲斐源氏武田家第一八代当主・武田信虎を父に、その正室・大井夫人を母に次男として誕生。幼名は次郎。同母兄・晴信(信玄)とは四歳違いで、晴信の幼名が「太郎」と、続柄が分かり易い家族である(笑)。

 長じて武田典厩信繁と名乗った。幼少の頃より信虎から寵愛され、一般に信虎は晴信を廃嫡して信繁に家督を譲ろうとしたとまで云われている(信虎・晴信の父子相克には幾分かの誇張があると思われるがここでは触れない)。
 だが信繁は晴信を尊敬し、兄を出し抜こうとはせず、天文一〇(1541)年に信虎は晴信によって駿河の今川氏の元に追放された。

 その後も信繁は晴信に随身し、信濃進出にも尽力。織田信長や徳川家康が打生まれた頃の大名は一国の支配も確立出来ていないケースが多く、信濃も数多くの国人衆が独立心旺盛で難治を極めたが、信繁は穴山信友(晴信・信繁の姉婿)とともに武田一門衆の中での数少ない成人の立場で晴信を補佐した。

 天文一一(1542)年、諏訪侵攻において宿老・板垣信方とともに出兵を主導し、同年九月には高遠頼継の反乱を鎮圧。制圧後の諏訪は板垣が郡代となり、信繁は諏訪衆を同心として付属させた。
 晴信の信濃攻めは志賀城での苛斂誅求(過去作「戦国ジェノサイドと因果応報」)や村上義清の頑強な抵抗、更には長尾景虎(上杉謙信)の介入もあって長期に及んだ。その間信繁は天文二〇(1551)年七月に村上攻めの先鋒を務め、天文二二(1553)年四月に村上方の葛尾城に在城していた秋山信友に上意通達を行うなど、晴信代理として軍事並びに占領地の鎮撫に務めた。

 そして永禄四(1561)年九月一〇日、第四次川中島の戦いに従軍。この戦いで信玄は山本官介考案のキツツキ戦法で上杉軍を挟撃せんとしたが、この作戦は上杉政虎(謙信)に看破されていた。
 信玄は別動隊に襲撃されて妻女山を追い出されるであろう上杉勢を八幡原で待ち構えていたが、先にこっそり山を下りた上杉勢の襲撃を受けることとなった。八幡原にて信繁を前備として待ち受ける信玄本隊は一万二〇〇〇。襲撃する上杉勢は一万三〇〇〇。妻女山に回った別動隊八〇〇〇が駆け付けた後は兵力(二万)と陣形(挟撃)で上杉軍より優位に立てたが、それまでは兵力差と不意打ちが上杉軍を優勢とし、武田軍は別動隊が駆け付けるまで防戦一方に追いやられた。
 その渦中にあって、別動隊が来るまで信玄の首を渡すまいとして信繁は我が身を顧みず奮戦し、華々しい討ち死にを遂げた。武田信繁享年三七歳。

 信繁の遺体(←首を獲られるのは周囲の兵が必死になって防ぎ切った)が運ばれてくると信玄はそれを抱いて周囲をはばからず号泣。戦後、武田と上杉は共に合戦の勝利を喧伝したが、信繁(他にも山本官介、諸角豊後守虎定等の諸将)を失った武田方の悲しみは大きく、上杉政虎もその死を惜しんだ。


柱石としての役割 前述したが、戦国大名達は「国主」という立場にあるものでさえ土着の国人領主達を制御するのに難渋を極めていた。戦国大名の多くが源平藤橘(源氏・平家・藤原氏・橘氏)の末裔を自称していたが、平資盛の末裔を自称した尾張織田氏にしても、新田源氏の末裔を自称した三河松平氏にしても、その大半は胡散臭いものだった(笑)。
 だが、武田家が新羅三郎義光(八幡太郎義家の弟)を祖とする甲斐源氏の名家の末裔であったことに全く疑いはなく、武田信虎の代には甲斐統一はほぼ完成していた。ただ血の気の多い信虎の人望は薄く(苦笑)、甲斐より遥かに大きい信濃の統一は容易なことではなかった。
 武田信繁はそんな中にあって誰からも好かれ、信頼された人格でもって一門と国人の束ねに欠かせない人物だった。

 信繁が兄・信玄並びに武田家を支える「柱石」足り得たのは、彼が決して兄を出し抜こうとせず、「代理」の立場に徹したからである。もし彼に兄に取って代わる野心があれば、父・信虎、自らの側近、武田家からの締め付け緩和を狙う国人衆が味方しただろう。
 歴史に禁物の「if」で語れば、もしかするとあっさり信玄にとって代わり、武田家当主になっていたかも知れないし、晴信派と信繁派で御家を二分して弱体化したことによって、今川・北条・上杉・その他の餌食になっていたかも知れない。
 だが結果として信繁は信玄に敬意を払い続け、信虎を初めとする自分を担ぎ上げんとする動きに乗せられず、信虎追放にも協力した。そしてこの当主交代劇で信繁がNo.2に収まったことで、晴信に好意的ではなかった一門・国人に「信繁様への降伏」と云う一つの助命手段が残された。

 信虎ほどではなかったが、信玄もまた敵には容赦のない方だった。過去作『戦国ジェノサイドと因果応報』でも触れた様に、降兵三〇〇〇人を全員打ち首にして、その生首を敵城の前に並べるなんてことをしたこともあったし、妹婿の諏訪頼重も助命の約束を反故にして切腹させられた(←一応、脱走しようとした頼重にも非はあったことを触れておきたい)。
 一門衆とて油断はならなかった。信虎も信玄も姻戚関係や名跡継承をもって国人衆を次々と一門に取り込んだ(例:穴山、小山田、吉田、海野、仁科、諸氏)が、一方で彼等に心を許さない面があった。
 だがそんな身内さえ油断ならない戦国の世にあって、信繁は同母弟・信廉(のぶかど)とともに信玄から絶対の信頼を得ており、「武田に降りたいが、下手に降るには危険」との意識が拭えない者達は信繁を頼り、信繁も彼等を手厚く迎えた。
 例を挙げれば、後に信玄・勝頼の二代に信頼され、周囲から「君側の奸」と妬まれた長坂釣閑斎がいた。彼には晴信から勘気を受け、高遠頼継の弟を討ち取った手柄と信繁の取り成しで赦免されたという逸話がある。

 そして武田家の男児の多くが国人衆取り込みの為に他家に養子に出されたり、血筋の途絶えた名家の名跡を継いだりして異姓を名乗る中、信繁と信廉は武田姓を名乗り続け(一時は吉田信繁を名乗ったこともあった)、御一門衆筆頭として、内政に、外交に、戦場にとよく信玄を支えた。
 教養もあった信繁は、息子・信豊に対しても九九ヶ条に渡る『武田信繁家訓』を残してよくよく本家を支えるよう教えていた。

 文武両道、御家に忠実で万事に控え目、誰からも尊敬されながら怖がられもせず、さりとて甘い所もない…………そんな信繁武田家が、とりわけ信玄が如何に頼りとし、愛したかは過去作『日本史賢兄賢弟』も御参照頂けると嬉しい(笑)。


逝きて後 これほどまでに武田家を取りまとめ、八面六臂の活躍の果て武田信繁が川中島に討ち死にしたことで武田家に抜けた穴はとてつもなく大きかった。
 信繁戦死後も武田信玄は信濃に、上野に、駿河・遠江・三河に勢力を広げ、織田信長や徳川家康も恐れる大勢力を形成したが、内部的には既に武田家の凋落は始まっていた(後から結果を知っているから云えることなのだが)。

 家臣団が「惜しみても尚惜しむべし」と云って涙した信繁を失った武田家を襲った次の悲劇は義信事件だった。
 過去作で何度か触れているが、信玄と嫡男の義信は対駿河同盟を反故にするか堅守するかで対立し、まさに「歴史は繰り返す。」で義信は父に謀反した。が、結果は「歴史は繰り返す。」にならず、父が勝利し、義信は東光寺に幽閉され、叔母婿・諏訪頼重と同じく同寺にて切腹して果てた(一応病死説もある)。
 そして正室から生まれた、押しも押されもせぬ後継者であった嫡男・義信を失った武田家は後継者を確定出来なかった。義信と同じ正室腹の息子達は盲目ゆえに出家したり、夭折したりして後継者候補として残っていなかった。
 必然的・順番的に四男の四郎勝頼がその候補に挙がったが、諏訪四郎神勝頼と名乗り、信玄の子で唯一「信」の字を与えられていない勝頼を、一門(例:穴山梅雪)も、国人衆も「諏訪の子」として「武田家の子」と認めず、さりとて他に勝頼に勝る候補者もないため、信玄の後継者は「勝頼の子・信勝を武田家次期当主とし、勝頼は信勝が正式な当主に就任するまでの後見人」という極めてへんてこな取り決めが成された。

 勿論信玄存命中は信玄本人が家中をしっかり取りまとめ、信廉も、信豊も、梅雪も信玄と勝頼を支えたが、彼等は信繁ほどには求心力はなかった。
 彼等は、信玄死後に同盟していた大名・勢力(将軍家、浅井、朝倉、長島一向一揆、等)は次々と滅ぼされ、長篠の戦いで大敗するに及ぶと徐々に勝頼と距離を置き始めた(長篠の戦いで、梅雪と信豊は督戦命令に従わなかった!)。
 勿論国人衆はそれより早く勝頼から離反して徳川、上杉、北条、織田に靡き、武田崩れ直前には勝頼の姉妹を娶っていた北条氏政、穴山梅雪、木曽義昌も勝頼攻めに加わり、反逆しなかったものの、信廉・信豊も勝頼に殉じず(結局は織田・徳川の手で殺されたが)、勝頼に殉じたのは皮肉にも家中が「君側の奸」と云って妬み、蔑んだ長坂釣閑斎・跡部勝資達だった。

 これらすべてが「信繁が存命だったなら防げた。」とまでは云わない。
 ただ、武田崩れに限らず、御家の滅亡には、丸で天がその家を滅ぼそうとしているかのような櫛の歯現象・負の連鎖が見られることが多い。その静かな始まりが義信事件で、その時に信繁がいれば上手く信玄・義信の両者を取りまとめるか、最悪義信の死が防げなくても、その後の内紛を取りまとめてくれた可能性は高いと多くの人々が推測する。
 勿論、生きていたならどうなっていたかなど確かめようは無い(それゆえ歴史に「if」は禁物なのだ)。だが、そう思わせる人柄と人望が武田信繁にあったことだけは間違いなく、それゆえ、あれほど兄弟だった武田家が信玄死後一〇年で崩れる様に滅亡したことと重ねて後世の人々までもが信繁の死を惜しんでいるのだろう。

参考:信繁を惜しんで評した、様々な人々の言
人(括弧内は立場)
山形昌景(武田家重臣) 「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり。」
江戸時代の武士達 「まことの武将」と評して『武田信繁家訓』を武士の心得として広く読み継いだ。
室鳩巣(江戸時代の儒学者) 「天文、永禄の間に至って賢と称すべき人あり。甲州武田信玄公の弟、古典厩信繁公なり」と賞賛。
典厩寺住職(信繁菩提寺の住職) 「信繁さんの決死の働きが無かったら、信玄公も川中島で命を落としていたでしょう」(聞き手:道場主)


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令和三(2021)年六月三日 最終更新