第漆頁 前田利家……家康にただ一人比肩出来た次席大老

名前前田利家(まえだとしいえ)
生没年天文七年(1539)年一二月二五日〜慶長四(1599)年閏三月三日
血統前田氏
立場豊臣家五大老
官職権大納言
柱石となった対象豊臣家
死の影響武断派と文治派の対立激化
略歴 天文七年(1539)年一二月二五日に尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の荒子城主前田利春の四男として誕生(生年月日には諸説あり)。幼名は犬千代(いぬちよ)、長じて又左衛門利家(またざえもんとしいえ)と名乗った。

 父・利春は土豪で、二〇〇〇貫を領していた。天文二〇(1551)年に織田信長に小姓として仕え始め、短気で喧嘩早く、派手な格好を好むところが信長と馬が合ったようで、肉体関係(所謂、衆道)があったことも良く知られる。
 翌天文二一(1552)年の信長と清洲城主・織田信友(尾張下四郡を支配する織田大和守家当主)との戦で初陣を飾り、その後元服。そして槍働きに優れたことから「槍の又左」ともてはやされた。

 弘治二(1556)年、信長と弟・信勝との家督争い、永禄元(1558)年の織田信賢(尾張上四郡を支配する岩倉城主・織田信安の息子)との争い等に従軍し功積を挙げた。
 この頃から、新設された信長の親衛隊とも云える赤母衣衆・黒母衣衆の内、赤母衣衆筆頭として多くの与力と一〇〇貫の加増を与えられた(黒母衣衆の筆頭は佐々成政)。
 同年、従妹であるまつを正室に迎え、木下藤吉郎夫婦とも近所同士の付き合いを持ったが、翌永禄二(1559)年、信長の異母弟で同朋衆の拾阿弥を諍いの末斬殺し、本来なら死罪のところを柴田勝家や森可成等の取り成しにより、出仕停止処分に減罰され、浪人した。
 永禄三(1560)年の桶狭間の戦い、翌永禄四(1561)年の森部の戦いに無断参戦し、これ等の戦いで得た首級を手土産にようやく帰参が叶った。

 永禄一二(1569)年、信長から突如、前田家の家督を継ぐように命じられた。既に父・利春は亡く、長兄・利久が家督を継いでいたが、利久に実子がなく、病弱であったのがその理由だった。
 前田家当主となると槍働きはますます盛んとなり、元亀元(1570)年四月、浅井長政・朝倉義景との金ヶ崎の戦いにおける撤退時の信長の警護、六月の姉川の戦い、同年九月の石山本願寺との春日井堤の戦いでの殿軍(しんがり)、天正元(1573)年九月の一乗谷城攻めでの朝倉義景滅亡、と転戦、活躍を続けた。
 天正二(1574)年から柴田勝家の与力となり、長島一向一揆、越前一向一揆と戦い、翌天正三(1575)年五月の長篠の戦いでは佐々成政・野々村正成・福富秀勝・塙直政等と共に鉄砲奉行として武田騎馬軍団壊滅に貢献した。

 勝家とのコンビでは北陸方面で活躍するようになり、天正三(1575)年の越前一向一揆平定の功で、佐々成政・不破光治とともに府中一〇万石を与えられ、「府中三人衆」と呼ばれるようになった。
 以後も勝家与力として成政等と共に上杉軍と戦い続けたが、羽柴秀吉や明智光秀が尽力した摂津有岡城、播磨三木城の攻略にも利家は転戦・参加していた。

 数々の功績で天正九(1581)年、遂に能登一国を与えられ、七尾城主として二三万石を領有。実質このときから「加賀様」となり始めた。だがその翌年の天正一〇(1582)年六月二日に信長が本能寺の変に倒れると利家の周辺は大きく変遷した。
 変を知ったとき、利家は勝家とともに越中魚津城に籠る上杉景勝軍を攻略中で、急ぎ引き返すも明智光秀は親友・羽柴秀吉によって討ち果たされていた。
 その秀吉は「主君の仇を討った」という功績で織田家中における発言力を増し、故信長の後継者と遺領配分を決める清洲会議を巧みに主導し、利家はこれを機に対立の激化した秀吉と勝家の狭間に立たされることとなった。
 同年一一月、勝家の命を受け、金森長近・不破勝光とともに山城宝積寺城(現・京都府大山崎町)にて秀吉と一時的な和議の交渉を行ったが、翌天正一一(1583)年四月には賤ヶ岳の戦いが勃発した。
 この戦いにおいて利家は五〇〇〇の兵を率いて柴田軍に与したが、途中で越前府中城(現・福井県武生市)に撤退。これが羽柴軍の勝利を決定づけたが、敗北して北ノ庄城へ逃れる途中の勝家は府中に立ち寄って、撤退を恨まず、これまでの労に礼を述べ、去って行った。
 直後、堀秀政の勧告に従って利家は降伏。北ノ庄城攻めにも参戦し、秀吉から本領に加賀国の二郡を加増され、本拠地を能登小丸山城から加賀金沢城に移した。

 かくして「羽柴家重臣としての前田利家」がほぼ確立し、秀吉と戦場を異にする際には方面隊長的に各地で活躍。天正一二(1584)年の小牧・長久手の戦い時には徳川家康に呼応して加賀・能登に侵攻した佐々成政を末森城で撃破した(末森城の戦い)。
 成政との戦いは翌年まで持ち越され、その間にも利家は上杉景勝、菊池武勝(成政の部将)と巧みに結び、八月に秀吉率いる一〇万の大軍の先鋒となって越中を攻め、成政を降伏に追い込んだ。この功績で嫡男・利長にも加増が認められ、同年四月に越前国主・丹羽長秀が没したことで、北陸道における羽柴家中での利家の筆頭的な立場は確固たるものとなった。

 同年七月、秀吉が関白に、九月に豊臣秀吉となると、天正一四(1585)年に利家は羽柴の姓が許され、筑前守(←秀吉の旧自称)・左近衛権少将に任官された。
 天正一六(1588)年に豊臣姓も許され、天下統一を目前にした天正一八(1590)年一月二一日、参議に昇進した。
 そして豊臣家にとっても大切なこの時期に利家は、家中にあっては北野大茶湯に陪席し、対朝廷交流では後陽成天皇の聚楽第行幸に陪席、外交では奥州の伊達政宗に上洛を求める交渉役も務めた。
 勿論小田原征伐にも従軍し、北国勢の総指揮官として上杉景勝・真田昌幸と共に上野から北条領に入り、松井田城、武蔵の鉢形城・八王子城を陥落させた。
 七月五日に、北条方が降伏すると、その後に降伏して来た伊達政宗への尋問は利家が務めた。そして翌八月に秀吉が上方に戻った後も利家は残って奥羽の鎮圧に努めた。

 天下統一が成ると秀吉は朝鮮出兵を目指し、文禄元(1592)年三月一六日、利家は諸将に先んじて京を出陣、肥前名護屋に向かった。自ら渡海するとしていた秀吉を利家は徳川家康と共に思い止まらせた。
 七月二二日、秀吉は母・大政所が危篤との報が名護屋にもたらされ、秀吉が急ぎ帰坂した際には秀吉の代理として家康と共に名護屋諸将を指揮し、政務を行った。これが五大老の原点として固まることとなった。
 間もなく明との講和の動きが進み、五月一五日、明使が名護屋に着くと、家康・利家の邸宅がその宿舎とされた。八月、豊臣秀頼が誕生し、驚喜した秀吉が大坂に戻ると、利家もこれに随行し、一一月に金沢に帰城した。

 文禄三(1594)年一月五日、利家は上杉景勝・毛利輝元とともに従三位に叙位され、同年四月七日に権中納言に任ぜられ、これまで家格・石高で格上だった景勝・輝元を官位にて追い越した。
 慶長三(1598)年、秀吉と利家はともに健康に衰えが見え始め、三月一五日に醍醐の花見に妻・まつと陪席したのを潮として、利家は四月二〇日に嫡男・利長に家督を譲った。だが秀吉は実質的には隠居を許さず、新設された五大老五奉行の制度にて五大老の一人に任じられ、その次席とされた。筆頭は徳川家康だったが、利家の立場はそれと遜色のないものだった。
 そして同年八月一八日、利家を初めとする諸将に秀頼の行く末を必死に懇願して豊臣秀吉は薨去した。

 慶長四(1599)年一月一日、伏見城にて秀頼への年賀の礼が行われ、利家は病身を押して傳役として秀頼を抱いて着席。そして一月一〇日、秀吉の遺言に従い、伏見城には家康が入って政務を執り、大坂城には秀頼傅役として利家が入城した。
 やがて家康が亡き秀吉の法度を破り、伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則と無断で婚姻政策を進めると利家はこれを遺命違反として咎めた。
利家は三大老(上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家)、五奉行(浅野長政、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家)を味方につけ、家康も利家との対立を避けた方が得策と見て、二月二日に四大老・五奉行と家康とが誓紙を交換、更に利家が家康のもとを訪問し、家康が向島へ退去すること等で和解した。
だがこれは既に病んでいた利家の余命が幾ばくも無いことを踏んだ家康の時間稼ぎで、閏三月三日、大坂の自邸で利家は病死した。前田利家享年六二歳。

 さすがにコイツは「略歴」では終われなんだな(苦笑)。


柱石としての役割 少し嫌味な書き方をすると、豊臣秀吉は日本史上屈指の「成り上がり者」だった。別段秀吉に悪意がある訳ではない。豊臣政権が急ごしらえの、一枚岩とは云い難いものであることを認識して頂きたいだけである。

 何せ強大な軍事力と才覚の前に膝を屈したとはいえ、先祖代々各国を支配して来た諸大名から見れば秀吉の旧主・織田信長でさえ、「尾張半国守護代の家老」に過ぎず、秀吉はその足軽頭だったのだから、面白い筈が無かった。
 そんな秀吉自身、諸大名が自分に従っているのは「利」に釣られてであることを自覚していた。ゆえに秀吉にとって信頼が置けるのは以下の三例に限られた。

 一、 子飼い……自分の身内や、正室・おねの身内。最も信頼出来る信長仕官期前後からの付き合い。
 例 加藤虎之介(清正)、福島市松(正則)、浅野長政、蜂須賀小六(正勝)
 一、 旧友……信長仕官時〜長浜城主になる間に知遇を得て、仲の良かった者達。もっとも、この時代に仲の悪かった者達は大半が殺されている(苦笑)。
 例 前田利家、細川忠興、池田輝政
 一、長浜派……長浜城主時代に取り立てた者。ある意味、秀吉が自分の意志で召し抱えた者達。敵国の遺族や配下を取り込んだ者もいる。
 例 石田佐吉(三成)、大谷紀之介(吉継)、宇喜多八郎(秀家)、黒田官兵衛(如水)

 これらを分析して見ると、まだ秀吉が軽輩の身だった頃から親しくしていた者が目立つ。まあ偉くなったら周囲に人が集まるのは秀吉に限った話ではないが、金も地位も無かった頃からの付き合いは大切である。
 また、何かと大河ドラマや戦国時代を扱ったフィクションで誇張される様に、織田家中にて当初、信長に可愛がられてスピード出征するのを妬んだ重臣達(例、柴田勝家、林通勝等)から「猿」だの、「禿鼠」だのと揶揄されてきたことを思えば、そんな時代に同輩として偏見なく親しくしてくれた者は特に大切に想うだろう。
 豊臣秀吉にとって、前田利家とはそう云う意味でドンピシャな人物だった。

 同時に利家賤ヶ岳の戦い以降、秀吉が各大名を降し、勢力下に取り組んでいく中で自分の代理として諸大名に相対する役目を任せられる人物でもあった。それは同時に、関白の威光にひれ伏した名家筋の大大名が秀吉に反旗を翻すのを抑えることを任せられるのも意味していた。
 徳川幕府成立後、島津、毛利、上杉、伊達、佐竹が油断なく見られていた例を見れば、秀吉がいざという時に油断のならない徳川、島津、毛利、上杉、伊達の抑えに秀吉を重宝していたのも頷けよう。
 何せ秀吉存命中、徳川家康は二五〇万石、毛利輝元、上杉景勝は一二〇万石の大大身で、利家単独では八三万石だった(前田家全体を合わせると一〇〇万石を越えていたが)。だが政治力があり、秀吉配下の武断派にも文治派にも睨みが効き、自身の戦闘能力にも優れていた利家は、五大老における主席こそ家康に譲ったものの、人間的な信頼面では豊臣家中筆頭と云って良かっただろう。

 秀吉死後、家康は家対家、国対国なら誰にも負けない自信があったが、利家豊臣家中をまとめて自分に対抗して来たと仮定した場合、勝つにしても相当な痛手を被ることが想定され、(利家の余命が幾ばくも無いことを計算に入れてでもあったが、)利家と事を構えるのを避けた訳であった。

 豊臣秀吉が死に際して、豊臣家と秀頼の行く末を枕元に居たすべての者に痛々しい程に頼み込んだのは有名だが、利家がその中心に居たことは疑いないだろう。惜しむらくは利家自身もその後半年ほどの寿命しか残されていなかったことだと云えよう。


逝きて後 人が死んで間もない頃を示す表現に、「遺体の冷え切らない内に」というものがあるが、前田利家が世を去った時が正にそんな状態で事件が起きた。所謂、七将(加藤清正、福島正則、加藤嘉明、池田輝政、黒田長政、細川忠興、浅野幸長)による石田三成襲撃事件である。
 そもそも豊臣家中には「子飼い派VS長浜派」、「武断派VS文治派」の深刻な対立があったが、加藤清正等は朝鮮出兵時における三成の軍監振りに激しい恨みを抱いており、利家が亡くなった慶長四(1599)年閏三月三日その日の内に箍が外れた様に三成の屋敷を襲撃した。
 これはどう考えても利家が亡くなるのを待っていたとしか思えない。

 この事件、巷間に囁かれているよりは人望のあった三成(笑)が佐竹義宣に助けられたが、七将の追跡は執拗で、最終的に三成が家康の元に逃げ込み、その仲裁によって収まった。
 勿論頼った三成にも、頼られた家康にも腹に一物があった訳だが、家康でなければ七将が抑えられなかったのは確かで、逆を云えば生前の利家が七将を抑えられる存在であったことを示す。

 勿論、秀吉薨去時に余命幾許もなかった利家も、自分の死後を考えていない訳ではなかった。嫡男の利長には自分の死後三年は加賀に返らず、大坂にて秀頼の身辺を守るよう云い残す一方で、死の直前に無断婚姻騒動の若いと病気見舞いに訪れた家康に利家は息子達の行く末を頼んだとも云われている。
 こういう書き方をすると前田家の子孫や富山県民・石川県民を敵に回しそうだが、前田利長はそれなりに有能ではあったが、修羅場を潜り抜けていないためかさすがに家康に比肩し得るだけの力は持ち得ていなかった。
 おまけに利長は父の死から五ヶ月後に、家康の勧めにより金沢へ帰国してしまった。勿論この遺命違反は裏目に出た。翌月、増田長盛等が「前田利長・浅野長政等に異心有り。」と家康に密告した。利家亡き後とはいえ、一族で一〇〇万石を有する前田家は家康にとって侮れない、早目に屈服させたい相手だった。
 ゆえに家康は半ば云い掛かり的に強権発動で加賀征伐を献言した。

 これに対し、前田家は交戦派と回避派の二つに分かれたが、利家正室にして、利長の実母でもあった芳春院(まつ)が諸将を説得し、人質として江戸に出向くこと、利長弟の利常(後の加賀藩主)と珠姫(徳川秀忠次女)を結婚させることを約して合戦を回避した。
 賢明と見るか、臆病と見るかは意見の別れるところだが、結果として前田家は一〇〇万石という三〇〇藩の筆頭の地位を守り続け、外様大名ながらそのビッグネームを保ち続けた。

 ともあれ、これをもって「豊臣家の柱石」としての前田利家の役割はその後の前田家には受け継がれず、豊臣家は一六年後に滅亡に追いやられた。
 最大の大大名ながら、前田家はその分幕府から警戒もされ、政治的には重きを為せなかった。秀吉も利家も悔しい思いはあるだろうけれど、利長が関ヶ原の戦い後、西軍副将として本来は死罪を免れない宇喜多秀家(正室は利家四女・豪姫)の助命嘆願に努める等して、豊臣家への想いを捨てていなかったことも注目しておきたい。
 結局秀家父子は死を一等減じられ、八丈島への流刑となり、夫・息子との同行を許されなかった豪姫の為、前田家は幕末に至るまで流人生活を援助し続けた。
 秀家父子への助命、援助の嘆願が通ったのも、幕府サイドに利家が残した前田家とその潜在能力が牙を剥かないようにする配慮があったと思いたいところである。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新