第肆頁 豊臣秀吉と松下之綱………一飯の情けに報いて

恩を受けた人
名前豊臣秀吉(とよとみひでよし)
生没年天文六(1537)年二月六日〜慶長三(1598)年八月一八日
役職関白・太政大臣
受けた恩仕官

恩を施し、返された人
名前松下之綱(まつしたゆきつな)
生没年天文六(1537)年〜慶長三(1598)年二月三〇日
役職従五位下石見守
報恩仕官及び小大名への取り立て



恩を受けた側・豊臣秀吉
略歴 こいつも超有名人物につき「略」(笑)。



恩を施し、返された人 松下之綱
略歴 一般に松下嘉兵衛(まつしたかへえ)の名で知られている。豊臣秀吉木下藤吉郎と名乗っていた頃に織田家に仕えて立身出世を遂げたのは有名だが、その秀吉が信長に仕える前に仕えていたのがこの之綱だった。

 之綱の生まれは天文六(1537)年で、秀吉とは同い年である。槍術の達人・松下長則の子として三河に生まれた。
 長じて今川義元の家臣・飯尾氏の寄子として仕え、遠江にて頭陀寺城(現・静岡県浜松市南区)の城主となった(木下藤吉郎が仕えていたのはこの頃)。

 永禄三(1560)年、桶狭間の戦いで今川義元がまさかの戦死を遂げると氏真が継いだ今川家では国人領主達が次々と離反して武田・徳川・北条に鞍替えし出し、之綱が仕えていた曳馬城主・飯尾連龍も氏真を見限った。
 当然氏真は怒り、周辺の豪族も今川に忠誠を誓い続ける者と今川から離反する者との諍いで混乱し、永禄六(1563)年に之綱は頭陀寺を焼け出され、永禄八(1565)年に連龍も氏真に殺された。

 程なく、今川家は大名としての家格を失い、之綱は徳川家康に仕えた(皮肉にも飯尾が裏切りの拠点とした曳馬城は浜松城となった)。だが、守備を任された高天神城は武田勝頼の猛攻を受けて天正二(1574)年に陥落し、之綱は降伏した。
 だが之綱はすぐに長浜城主となっていた元家臣・羽柴秀吉に召し出されて仕え、長篠の戦いでも秀吉配下として戦った。

 以後も秀吉に仕え続け、三〇〇〇石を拝領。
 その後、特筆すべき事跡は見当たらないが、天下統一後、関東移封で徳川家康が去った遠江にて、遠江久野(現・静岡県袋井市久能)に一万六〇〇〇石を与えられ、慶長三(1598)年二月三〇日に没するまで無難な余生を過ごした。松下之綱享年六二歳。
 尚、秀吉の死はその半年後で、之綱秀吉は同年に生まれ、同年に没している。偶然と云えばそれまでだが、どこか因縁めいている。



施恩 尾張中村の農家に生まれた木下藤吉郎は、継父・竹阿弥と折り合いが悪く、まだ少年と云われる年頃に家を飛び出し、立身出世を求めて各地を放浪した。
 正直、織田家に仕えるまでの秀吉の経歴には謎が多い。否、話自体は有名だが、『絵本太閤記』の影響が大きく、後世作られた話が有名過ぎて、実像を掴み辛いのが実情と云える。
 異父弟・秀長と極めて仲が良かったことから本当に竹阿弥と折り合いが悪かったか疑問だし、針売りをしている頃に蜂須賀小六と出会ったとされる矢作川の橋にしても、当時矢作川に橋は無かった(笑)。
 道場主がかつて読んだ秀吉の伝記漫画の中には、若き日の秀吉が腹を空かせ、洗濯婆さんに馬鹿にされながら飯を恵んでもらい、立身出世後に老婆の家を埋め尽くさんばかりの米俵を贈ったと云うものがあったが、どう見ても『史記』の韓信のエピソードをパクったものだったな(苦笑)。

 ともあれ、無名の農民出身だった藤吉郎が武士として出世する糸口を与えてくれたのが之綱だった。



報恩 羽柴秀吉松下之綱を配下に取り立て、宛がった三〇〇〇石は、石高として大したもの見えないかもしれないが、賤ケ岳の戦いで大手柄を立てた「賤ケ岳の七本槍」に与えられた褒賞が三〇〇〇石(注:福島正則のみ五〇〇〇石拝領)だったことを考えると、当時の秀吉としてはそれなりの厚遇を之綱に与えたのかもしれない。

 注目したいのは、秀吉之綱の恩に報いる為に、彼の危機を救い、また彼への恩義を声高に叫んでいたことである。
 上述している様に、今川家滅亡後の之綱は混乱の極みにあった。否、これは之綱のみならず、今川家中全員が今川氏真に忠義を尽くすか、徳川家康に従うか、武田信玄に従うか、果てまた北条氏康に従うか、で一族の命運を賭けた選択をしていた。
 勿論諸勢力の間を行き来した者も少なくなかった。

 之綱の話とは逸れるが、一例を挙げると奥平一族が挙げられる。
 奥平家は三河国内の東北部の、「山家三方衆」と呼ばれた国人衆だった。徳川と武田に挟まれた小豪族で、当初は武田に臣従していたが、信玄の死を契機に徳川に臣従した。勿論武田勝頼はこれに怒り、これを討伐戦としたことが長篠の戦いに繋がった。
 結果的に長篠の戦いは織田・徳川方の大勝利に終わり、家康の長女・亀姫を娶っていた奥平貞昌は後々松平の姓が与えられ、信長にも激賞され、「信」の字を与えられて奥平信昌と名乗ることとなった(松平への改姓は次代)。
 だが、そんな奥平家も大きな犠牲を払った。僅か五〇〇の兵で武田軍一万五〇〇〇を長篠城で迎え撃って落城寸前まで追い込まれたのだから、戦死した者も多かったし、小豪族生き残りの常で、一族が敢えて徳川と武田に別れてついたことで御家は確実に生き残らせたが、武田方について命を落とした身内、武田方の人質だったために殺された者も多かった。

 徳川と武田の狭間でもっとも大きな成功を収めた奥平家ですらここまでの苦難に見舞われたのである。ここで話を之綱に戻すが、之綱も居城を焼け出され、直属の主君を殺された。
 家康に仕えたところで籠ったのは名将・武田信玄にすら落とせなかった高天神城だったが、後を継いだ勝頼はこの堅城を陥落させてしまった!降伏した之綱だったが、対応を間違えれば勝頼に殺されかねず、場合によっては家康に殺されることもあり得た。
 実際、徳川と武田の狭間で命を落とした者は少なくなく、その生死はチョットした対応や運不運で大きく左右されたことだろう。

 そこを助けてくれたのがかつての配下羽柴秀吉だったのである。
 当時の秀吉は念願の城持ち大名になれたとはいえ、信長の一家臣に過ぎず、立ち位置で云えば三河・遠江の二ヶ国を統べる家康より格下だった。そんな徳川家に対して特別影響力があるとも思えなかった当時の秀吉が如何にして武田勝頼に降伏した之綱を自分の元に召喚し得たかの詳細は薩摩守の研究不足で詳らかではないが、かかる状態の之綱を(恐らくは信長や家康にもそれなりに無理を云って)自分の元に招くのには秀吉なりに苦労したと思われるし、そうする程に之綱への旧恩を重んじていたと思われる。

 そして賤ケ岳の戦いに勝利して一大勢力にのし上がった豊臣秀吉之綱に宛がったものは彼の実力からすれば形的には然程大きなものでは無かった。
 だが、秀吉之綱に宛がった地は畿内の要衝で、その後の戦役においては率いさせた兵数こそ多くなかったものの、秀吉の傍近くで、九州征伐後にはさして戦功を挙げた訳でもない之綱に対して松下嘉兵衛の事、先年御牢人の時、御忠節の仁に候」と言及し、その年の内に従五位下・石見守に任官し、丹波三〇〇〇石を加増したことで之綱の所領は倍増の六〇〇〇石となった。

 最終的な之綱の所領は遠江久野一万六〇〇〇石で、石高は小大名の域に過ぎないが、久野城は規模こそ小さかったものの、瓦の格式が高い立派な城を居城として故郷に綿…………じゃなかった、錦を飾ることが出来たのである(←元ネタ分かるかな?(笑))。
 秀吉は気前の良い性格だったので、莫大な石高を賜った者も多かったが、それらの多くは旧領を追われ、遠隔地に移されたケースが多かった。石田三成や蒲生氏郷などは石高が低くても秀吉の側近くや畿内に居することを望んでいた。
 それを考えると、然したる手柄を立てたとも見られない松下之綱が、石高が低くても故郷に立派な居城を宛がわれたことは秀吉の恩義に報いる気持ちが強かったと見てよいのではなかろうか。

 『太閤記』では若き日の木下藤吉郎に武芸・学問・兵法を教えたのは之綱だとされている。正直、薩摩守はこれに懐疑的なのだが、秀吉之綱への「量より質」的な報い方を見ると「若き秀吉に貴重な経験を積ませた。」と云う設定が生まれたこと自体は納得が出来るのである。
 晩年、秀吉は諸大名が自分に従うのは「利」で、「忠義」ではないとしていた。確かに元は敵対関係にあり、武力で屈服させられた外様大名はそうだったことだろう。だが、子飼い(加藤清正・福島正則等)、近江派(石田三成・大谷吉継等)の様に若き日の絆から損得度外視で秀吉に忠義を尽くした者は少なくなかっただろうし、之綱の様な旧恩から生まれた絆もちゃんと存在していることはしっかりと注目したい次第である。


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令和四(2022)年一一月一七日 最終更新