第参頁 足利義昭と織田信長………初めから仲が悪かった訳ではなかった

恩を受けた人
名前足利義昭(あしかがよしあき)
生没年天文六(1537)年一一月一三日〜慶長二(1597)年八月二八日
役職征夷大将軍
受けた恩将軍就任への助力

恩を施し、返された人
名前織田信長(おだのぶなが)
生没年天文三(1534)年五月一二日〜天正一〇(1582)年六月二日
役職右大臣
報恩直轄地承認、弾正忠正式就任、義理の父子関係



恩を受けた側・足利義昭
略歴 うーん………直近の「降伏は幸福か?」で採り上げたばかりの足利義昭をこんなに早く取り上げるとは…………(苦笑)。
 取り敢えず何度も採り上げている人物なので出来るだけ簡素に務めたい(苦笑)。

 天文六(1537)年一一月一三日、室町幕府の第一二代将軍・足利義晴を父に、慶寿院(近衛尚通の娘)を母に次男として生まれた。幼名は千歳丸(ちとせまる)。
 将軍後継者以外は仏門に入るという将軍家の慣例に従って、覚慶(かくけい)と名乗り、一乗院門跡となった。

 僧侶としての修業の日々を送り、権少僧都にまで栄進したが、永禄八(1565)年五月一九日、兄である第一三代将軍・足利義輝が三好三人衆、松永久通等によって殺害され(永禄の変)、母・慶寿院、弟・周ロも落命した。
 覚慶は松永久秀等によって興福寺に軟禁されたが、約二ヶ月後に細川藤孝(幽斎)・一色藤長等の手引きによって、興福寺から脱出し、伊賀、近江を経て越前・朝倉義景を頼り、後に明智光秀を通じて美濃を制したばかりの織田信長から上洛協力の約束を取り付けた(この間に還俗し、名を義秋、次いで義昭と改める)。

 永禄一一(1568)年七月二五日に義昭信長と美濃の立政寺で初対面。信長は九月七日に尾張・美濃・伊勢の軍勢六万を率い、美濃の岐阜から京へと出発した。



恩を施した、返された側・織田信長
略歴 超有名人物につき、略(笑)。



施恩 足利義昭の要請を受けて、織田信長は彼を奉じて上洛の途に就いた。
 永禄一一(1568)年九月一三日、上洛途次の信長は近江で抵抗した六角義治を撃破し、近江平定の報を受けた義昭も京に向かい、同月二六日に義昭は上洛を果たした。

 勿論足利義輝弑逆以来、畿内は困難の極みにあったが、信長の力で平穏を取り戻し、一〇月一八日、義昭は朝廷から将軍宣下を受けて、室町幕府の第一五代将軍に就任。同時に従四位下、参議・左近衛権中将にも任官された。
 岐阜を頼った折にも義昭信長から銭千貫文、名馬、名刀を送られており、涙せんばかりに喜んでいたから、念願の将軍就任へ助力してくれた信長に大いに感謝したのは想像に難くなく(その辺りは「報恩」にて後述)、信長もまたここまで自分に感謝してくれる義昭は重要な手駒ゆえ、忠勤を示しつつその保護に尽力した。

 一〇月二六日、信長は京に一部の宿将と僅かな手勢を残して、美濃に帰国。途端に三好三人衆が報復に出た。永禄一二(1569)年一月五日、三好三人衆は将軍山城を焼き払い、義昭のいた本圀寺を襲撃した(本圀寺の変)。
 襲撃自体は奉公衆及び、 摂津の池田勝正・和田惟政・伊丹親興、河内の三好義継等が駆けつけて奮戦したことにより、六日にこれを撃退出来たが、この報を受けた信長は二条城を新築。名前と形が整ったことにより、室町幕府に代々奉公衆として仕えていた者や旧守護家など高い家柄の者が続々と出仕する様になり、義昭の念願であった室町幕府は完全に再興された。



報恩 現代に生きる我々は歴史の結果を知っている。織田信長足利義昭を奉じて上洛を果たし、信長の尽力によって義昭が一五代将軍に就任して室町幕府が中興したのも史実なら、その信長義昭が袂を分かち、義昭が京都を追放されたことで室町幕府が滅びたのも史実である(厳密に義昭が将軍職を退いたのは信長死後だが)。

 そしてその結果を知る故、足利義昭は将軍家の血筋を傘に着るだけの愚者に描かれがちで(←特に大河ドラマにおける義昭の描かれ振りは酷過ぎる!)、歴史ドラマや歴史漫画における信長義昭を端から馬鹿にして、利用するだけ利用したら捨てる腹積もりだったように描かれていることが多い。

 確かに結果的にはそうなった。

 個人の資質や人格や能力がどうあれ、義昭は室町幕府を存続させることが出来ず、信長義昭を擁することで幕府と朝廷の権威を味方につけて、後々の天下統一への布石を作り、和睦と訣別を繰り返した義昭を最後には京都から追放し、室町幕府を滅ぼした。

 だが、最初からそうだったのだろうか?

 確かに大軍を擁して上洛する以上、足利家から何らかの褒章が下賜されることを望まない方がおかしいし、義昭ならずとも将軍位奪還に尽力した大名に感謝したり、報いようとしたりするのは当然と云えよう。
 過去作でも何度か触れているが、室町幕府は有力守護大名の力を統制出来ず、安定期を確立した足利義満・義教でさえ鎌倉公方を初めとする諸勢力に何度も背かれ、遂には応仁の乱から全国への決定的な影響力を失い、世は戦国時代に突入した。
 兄・義輝を殺された直後の義昭は身一つで奈良を脱する状態で、「将軍の弟」という身分以外に利用出来るものは皆無に等しかった。故に頼れる者なら誰でも頼らなければならない状態だった。

 奈良を脱した義昭は最初朝倉義景を、次いで信長を頼ったが、本来朝倉も織田も越前と尾張の守護を兼ねていた斯波氏の代理に過ぎない。信長に至っては、「尾張の半分を代理統治していた織田家の三家老の一人の息子。」に過ぎなかった。
 謂わば、そんな軽輩の身を頼らなければならい程世の中自体が乱れていた訳で、本国を出ること自体が困難だった。実際、朝倉義景は加賀一向一揆に背後を突かれることを懸念して動けず、信長義昭を将軍職に就けるや一〇日もせずに岐阜に引き上げている。

 そんな状況下で自分に尽力してくれた信長義昭は大いに感謝した。勿論、「将軍を擁した。」というアドバンテージを下心として抱いているのは百も招致だっただろうし、それを当然ともしていたことだろう。
 だが、義昭には信長の尽力に報いられるだけの武力も財力も権力も無かった。あるのは「新将軍としての権威」だけで、義昭はこれを最大限活かさんとした。

 征夷大将軍として義昭に出来ることは、幕政上の任官である。
 実際、義昭信長を管領に任じようとし、信長が応じないと「管領では不足か………。」と見て「副将軍」に任じようとした。勿論、水戸黄門じゃないが、室町幕府の正式な職制に副将軍と云う地位は無い。無理やり創設してでも信長に満足して欲しかったのである。
 結局、義昭のコントロール下に入る気が更々ない信長は、権威としては「足利家の家紋である桐紋と二引両の使用許可」と、自称していた弾正忠への正式な叙任を受け、実利として堺・草津・大津を自身の直轄地とすることを許可された(鉄砲産地や火薬原料の輸入を見据えたものである)。

 副将軍でも満足しないと見ていた信長が、意外にも「お安い御用」と云って応じられる程度の褒賞しか求めなかった(様に見えた)ことに胸を撫で下ろした義昭だったが、気持ちとしてはもっともっと報いたかったのだろう。僅か三歳年長の信長に対して「御父(おんちち)」と呼び、それを称号としても認可した。
 室町幕府の権威を重視していなければ然程ありがたくも無い称号かも知れないが、薩摩守は当時の義昭がやれる限りのことをやって信長に報いんとしたと見ている。

 周知の通り、両者は最終的に仲違いした。
 義昭は自分を利用するだけ利用して蔑ろにしていると見た信長の追討を諸大名に命じ、信長もその行為を「忘恩」と見て怒り、義昭に対して朝廷を敬い、将軍らしく振舞うことを求めるとして様々な要求を課し、大名が将軍に命令してその面子を潰した。
 だが、それでも初めの内は、義昭は極力信長の求めに応じ、指示に従い、彼が自分の元を退出するときはその姿が見えなくなるまで門前に立って見送った。
 武力衝突(と云う程の激戦にはならなかったが(苦笑))に発展した際も、朝廷の仲裁を受ける形で和睦し、最終的に義昭は息子を人質に差し出して降伏し、信長義昭を追放はしたものの、殺しはしなかった。

 ここからは薩摩守の推測に過ぎないのだが、信長義昭が全国の守護大名を信長の都合の良い様にコントロールしてくれるように動いてくれるのであれば、少なくとも義昭存命中は(形だけでも)室町幕府に忠節を尽くしたのではなかろうか?
 将軍位に就けた自分を討つ命令を諸国に出し、和睦してもまた挙兵する義昭を敢えて殺さなかったのも、弱い義昭を殺して全国の守護大名達に自分に逆らう大義名分を与えるぐらいなら実権を奪う程度に留めた訳だが、活かしておけば「義昭の謝意」・「将軍にした恩」は何らかの役に立つと信長は考えていた、そう思わせるほど初期の義昭信長に本気で感謝していた、と薩摩守は考えるのだが、考え過ぎだろうか?


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令和四(2022)年一一月七日 最終更新