第陸頁 佐野政言事件 「大明神」にされた怨恨者

事件名佐野政言事件
勃発年月日天明四(1784)年三月二四日
下手人佐野政言(さのまさこと)
被害者田沼意知(たぬまおきとも)
被害殺害
時の将軍徳川家治
下手人への裁定切腹


事件概要 天明四(1784)年三月二四日、旗本佐野政言(さのまさこと)が、江戸城中で若年寄・田沼意知(たぬまおきとも)に向かって、走りながら「覚えが有ろう!」と三度叫んで大脇差(一竿子忠綱作)でもって斬り付けた。
 その場での落命を逃れた意知だったが、結局八日後の四月二日に息を引き取った。これには治療が遅れたため、とする説がある。


事件背景 結論を先に書けば、佐野政言田沼意知を殺害した理由ははっきりしていない。浅野内匠頭宜しく、「覚えが有ろう!」と叫んでいることから、いくつかの怨恨説が囁かれているが、「佐野家の領地にある神社を、意知の家臣が分捕ったから。」、「田沼家の系図を書き換えるため、意次と意知が佐野家の系図を奪った。」、「田沼家に賄賂を送ったのに昇進できず、恨んでいた。」との諸説があるが、御家を潰すリスクを冒すほどの怨恨とは思えない(←実際、佐野家は改易となった)
 結局、幕府による公式裁定では、佐野の「乱心」で片付けられている。

 ただ、この当時の田沼意次・意知父子の権勢は凄まじく、その成り上がり振りも史上稀なもので、多くの人々がその出世振りを妬みつつも、取り立てて貰いたいとの下心も思い切り持っていた(←後に田沼政治を否定しまくった松平定信でさえ、意次に賄賂を贈っているのである)。


断罪と余波 田沼意知が息を引き取った翌日となる四月三日に、佐野政言も切腹を命じられ、佐野は刑死した。佐野の葬儀は四月五日に行われたが、両親等の遺族は謹慎を申し付けられたため出席出来なかった。佐野家も改易となった。
 上述した様に、佐野の犯行は「乱心」によるものとされたので、厳密には一族が連座した訳ではなかった。実際、佐野の遺産は父親が継承することを許された。ただ、佐野に子が無かったために、無嗣改易の形で御家は断絶したのだった。

 事件自体はこれで終わったが、その余波は大きく、事件を機に、世の中は大きく動いた。
 田沼政治は世人から尋常ならざる恨みを買っていたため、「若年寄=幕府重鎮を殺害したテロリスト」である筈の佐野は、世の人々からその蛮行を絶賛され、「世直し大明神」とすら呼ばれ、讃えられた。田沼親子に害意を持つ者の中には、自分に替わって意知を斬ってくれた佐野に(密かに)感謝する者も少なくなかったことだろう。

 勿論田沼家への影響も大きかった。意知の死後、家督は一二歳の若年ながら嫡男・意明(おきあき)が継ぎ、父・意次が後見したが、息子の惨死に意気消沈した意次は事件の四年後に七〇歳で世を去り、その八年後に意明も嗣子なく二〇歳で早世し、その後は弟の意壱(意知三男)が養子となって継ぐも四年後に二一歳で早世し、その後を継いだ意信(意知四男)も三年後に二二歳で早世し、意知の血筋は途絶えた(田沼家の家督そのものは傍系を養子に迎えることで存続した)。

 そして最も大きかったのは政治的影響である。
 意次・意知父子で固める筈だった田沼家の権勢は意知の死で意次が意気消沈したことですっかり精彩を欠き、事件の二年後に意次最大の後ろ盾だった徳川家治が薨去したことで田沼家は完全に権勢を失った。
 そして新将軍徳川家斉を擁し、新たな権力者となった松平定信が田沼政治と真っ向から反動する政策を取ったのは有名である。この反動政治は最終的には成功には至らず、世間にも「白河の 清き流れに 魚住まず 濁れる田沼 今は恋しき」という狂歌が生まれる程だった。
 田沼父子失脚直後こそ、それまでの田沼父子の成り上がり振りに対する妬みもあって、テロリストである佐野を褒めそやす風潮すら生まれたが、そんな国内の評判とは裏腹に、オランダ商館長イサーク・ティチングは「鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた」という落首を世界に伝え、「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」と書き残していた。

 そんな田沼政治は昨今、重商主義による幕府財政再建を目指した、時代を先駆けたものとして見直されつつあるが、そんな物の見方を何百年も曇らせていたとすれば、急進的権力者への妬みの視線と逆恨みは深刻なものがあると云わざるを得ない。


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令和五(2023)年五月五日 最終更新