第漆頁 千代田の刃傷 犠牲者最大の刃傷事件
事件名 | 千代田の刃傷 |
勃発年月日 | 文政六(1826)年四月二二日 |
下手人 | 松平忠寛(まつだいらただひろ) |
被害者 | 旗本五名 |
被害 | 三名殺害、二名負傷 |
時の将軍 | 徳川家慶 |
下手人への裁定 | 無し(下手人はその場で自害) |
事件概要 文政六(1823)年(1823年)四月二二日、西の丸の御書院番の新参・松平忠寛(通称:松平外記)は、古参の度重なる侮罵と専横とに、恨みつらみを抑えることが出来ず、本多伊織(近江膳所藩本多家一門本多忠豪養子)、戸田彦之進、沼間左京 (旗本)の三人を殿中において斬り殺し、間部源十郎(旗本)、神尾五郎三郎 (旗本)の二人に傷を負わせ(間部は深手により翌日死亡)、自らは自刃し果てた。
事件背景 要はいじめに対する報復である。
その背景は事件後の詮議をまとめた『西丸御書院番酒井山城守組松平外記及刃傷致自害神尾五郎三郎外二拾壱人御詮議吟味一件』にてかなり明らかにされている。
同報告書によると、松平外記は普段は几帳面で神経質、普段は穏やかだが癇性が強く、人付き合いが下手な人物だったと証言されている。
また、西の丸書院番の酒井山城守組は、古株による新参者へのいじめで有名な職場だった。着任早々に外記の父・松平頼母の後押しによって、追鳥狩で勢子の指揮を執る拍子木役に抜擢されるが、慣習を無視したこの人事によって古株の反感を一身に浴びることとなった。
追鳥狩の予行演習に遅刻した外記は重大な落ち度として責められ、拍子木役を辞退し病気療養として自宅に引き籠もった。追鳥狩の翌日から職場復帰したが、古株からの嫌がらせや面罵は収まらず、四月二二日の事件に至った。
断罪と余波 結果から云えば、加害者よりも被害者の方が厳罰に処せられた(下手人である松平外記がその場で自害して、責めようがなかったと云うのもあるが)。
被害者数が多いので、下記に表としてまとめた。
被害者氏名 | 被害 | 処分 |
本多伊織 | 死亡 | 子の右膳が家督相続するが、米三〇〇俵支給に減 |
戸田彦之進 | 死亡 | 絶家、職禄米召上 |
沼間左京 | 死亡 | 改易、絶家 |
間部源十郎 | 生存 | 隠居 |
神尾五郎三郎 | 事件翌日死亡 | 改易、絶家 |
そして外記の凶刃に曝された者以外でも、旗本の池田吉十郎が四〇〇石召上、新庄鹿之介(旗本)が西の丸御目付御役御免、曲淵大学(旗本)が小普請御役御免・屋敷移転、安西伊賀之助(旗本)が小普請御役御免・屋敷移転、阿部四郎五郎が西の丸御目付御役御免、酒井山城守が番頭御役御免、大久保六郎右衛門が組頭御役御免等の処分を受けた。
それと云うのも、事件の背景となった旗物の腐敗振りと、事件自体の隠蔽に走った愚行に対して厳重処分を下す方針が打ち出されたからである。
事件発生後に直接の上司である酒井山城守を交えて、事件を隠蔽する工作が行われた。目付は正式な見分書には死者が出た事を記載せず、一方で後の保身の為に真実を記した文書を封印文書として作成した(←はっきり云って、せこい)。
本丸から来た侍医は死亡者を危篤状態と偽るために外科的工作と虚偽報告するように頼まれ、一旦は拒んだもののこれに従った。血で染まった二〇畳の畳は深夜の内に取り替えられた。
だが、隠蔽工作は功を奏さなかった。
加藤曳尾庵の『我衣』によれば、外記が大奥に務める伯母に鬱憤を吐露した遺言ともいえる書き置きを渡していたため、大奥を通じて事件が露見したと云う。
これを受けて老中・水野忠成が厳重詮議を行い、被害者五名に上述の厳重処分が下され、加害者である松平家に対しては忠寛の子・栄太郎に相続が許された。
そして幕府による裁きだけではなく、世論も加害者に同情し、被害者を嘲った。
事件の顛末は瓦版で報じられ、落書も数多く作られた。市井の人々は外記を取り押さえる事も出来ず、凶刃から逃げ惑った旗本の不甲斐なさを物笑いの種とした。この事件は曲亭馬琴らの『兎園小説余録』にも収められ、歌舞伎狂言にもなった。大正時代には須藤南翠が小説化している。
この千代田の刃傷以前にも六件の刃傷沙汰が江戸城中で起きており、事件によっては加害者が同情されたり、賞賛されたりする一方で、被害者が同情されずに逆に揶揄されたものも少なくはなかった(勿論細川宗孝や毛利師就の様な、とばっちりに近いケースはこの限りではない)。
だが、堀田正俊や田沼意知は権勢に対する妬みも手伝ってその死が同情されなかったものの、嘲笑まではされなかった。この事件の被害者同様逃げの一手を選んだ吉良上野介も、性急な処断のために事件の詳細が世に知られなかったことで、後々の被害が同情されなかったが、喧嘩を徹底的に避けたことは他ならぬ幕府が公正に認めていた。
だが、この事件の被害者達は処分された上に、その被害を同情すらされず、民衆にさえ嘲笑された。
これは五人もいてろくに抵抗も出来ず、逃げることも出来ず、周囲も外記を取り押さえられなかったことから、「武士として情けない。」と見做されたことにもあったが、それ以上に西の丸書院番の腐敗からくる陰湿な風潮に上も下も憤りを抱いたことが大きいだろう。
本作で何度も触れた様に、江戸城内で鯉口三寸抜くだけで「将軍への反逆」と見做され、自身は切腹、立場によっては藩の改易に繋がる処分が下されるのが通例だった。それゆえ吉良上野介は逃げの一手に徹し、徹底して「喧嘩」ではないことを訴えたし、毛利師就は刀を鞘から抜かずに応戦した。それ程江戸城内で刀を抜くことは重大な規律違反で、実際に刀を抜いた者達はその場で斬り殺されたり、切腹に処せられたりした。
それが、一方的な被害者なのに、加害者が同情され、その身内に処分は無く、被害者サイドが裁かれたのだから、恐らく松平外記が生きて切腹に処せられたとしても、被害者達には同様の処分が下ったと思われる。それでほど書院番の腐敗振りは目に余り、上下内外問わず評判が悪かったのだろう。
一方で、被害者達が見事に逃げおおせるか、外記を返り討ちにしていれば、前者なら「喧嘩を避けた。」という訴え様があり、後者なら「武士らしい対応をした。」と多少は同情されたと思われる。そういう意味では軍事政権である江戸時代は現代と大きく異なり、同じ尺度で刑罰を図るのは難しいことも思い知らされるのである。
次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る
令和五(2023)年五月二二日 最終更新