第捌頁 厳罰を招きかねない愚行を何故?


 江戸時代に、江戸城内において起きた七件の「刃傷沙汰」について考察してみた。
 本当にくどいが、「鯉口三寸抜いただけで切腹」という厳しい規定があるにもかかわらず、七人の男が刀を抜き、他者に斬り付けると云う愚行に走った。
 冷静に考えるなら、如何なる事情があったとしてもかかる厳罰を伴う愚行を行うメリットも必然性も皆無である。実際、愚行に走った者達は、ある者はその場で自害し、ある者はその場で斬られ、ある者は事後に切腹となり、ある者は謹慎・隠居に追いやられた。恐らく彼等の中に、「刃傷に及んで良かった!」等と思っている者は皆無と思われる
 そして刃傷に及んだ者の中には一藩の藩主もいて、自身の切腹に加えて藩が改易となり、多くの藩士及びその家族を路頭に迷わせたケースもあった。謂わば、彼等は藩主の愚行の巻き添えを食った訳である。

 勿論、刃傷に及んだ理由は様々である。中には同情されるケースもあろう。だが、それでも「よくぞ斬った!」と絶賛するケースがあるとは思われない(斬られた相手を嫌い抜いていた第三者なら無責任にそう思ったかもしれないが)。
 詰まる所、江戸城内にて刃傷に及んで、刃傷に及んだ者とその関係者が「これで良かった!」と思われた例など存在しないのである。それ程、刃傷に良いことなど何もないのである
 だが、刃傷に及んだ者は出た。江戸幕府二六〇年の歴史にあって、七件と云う件数が多いのか少ないのかは一概には云えないが、これはあくまで江戸城内だけの記録で、日本全国に視野を広げればもっと多くの刃傷沙汰があったことだろう。その多くには冷静に考えれば刃傷に行った者に善果をもたらしたとは思えない。
 同時に、これは江戸時代だけの問題ではない。通常古今東西、正式な法的手続きを経た殺人(つまり死刑や上意討ち)以外の殺人は厳罰対象である。二一世紀の現代において、世界で多くの国々が死刑を廃止し、日本国内においても死刑制度や死刑執行に国内外から多大な非難が浴びせられる時代にあっても、殺人や傷害を軽い罰で済ませる国は殆んどない。

 冒頭でも書いたが、「斬り捨て御免」が認められた江戸時代にあっても、そこには厳格なルールが存在し、一般にイメージされる程に頻繁には斬り捨て御免は起きなかった。
 だが、それ程の厳罰・社会的制裁・一族郎党への累が及び、そんなリスクを冒す見返りなど見込めない筈の殺人・傷害が古今東西跡を絶たない。薩摩守がこんな物騒なテーマに着目したのも、現代にあって後を絶たない殺人・暴力・傷害の続発を嘆き、憤り、憤懣やる方ない想いを抱けばこそである。

 そこで、この最終頁では、人間が何故にメリットも望めないかかる愚行に走るのかを考察してみた。掛かる考察がこの頁を読んで下さったすべての方々とその周囲の人々にとって、暴力的な愚行への歯止めを寸分なりとも為せるのであればこれにすぐる喜びはないと考える次第である。


考察壱 何が法を超越させるのか?
 古今東西、人を殺すと云うことは自らの死に繋がるケースが少なくない。死刑を廃止している国にあっても、一生牢獄にぶち込まれることで社会的な死に追いやられるケースも多いし、それ以上に殺されそうになった相手が「窮鼠猫を噛む」的な反撃に出ることで返り討ちにあることも考えられるし、死刑の無い国ほど現場射殺も珍しくはない。
 それほど、殺人及び、人畜を殺傷する能力のある武器を持って何者かを攻撃する行為には厳罰が伴うことを古今東西大半の国にあって規定されている。分かり易い例を挙げれば、古代中国で秦を滅ぼした直後の漢の高祖・劉邦が咸陽の民に発布した、最も簡単な法律(所謂「法三章」)でさえ、「人を殺した者は死刑」と定め、殺人が重罪・重罰に値することを明言している。

 だが、古今東西、殺人事件は後を絶たない。

 実のところ、法が殺人という行為に如何なる罰を定めているかは関係しないことが多いのだろう。
 殺人に対していかなる厳罰が規定され、それが下手人本人のみならず、一族郎党に罪が及ぶと規定されていても殺人に走る者は何時の時代、何処の国にも存在するのである。

 それ故、死刑廃止論者達は死刑を初めとする厳罰に犯罪抑止力は無いと断言する。
 薩摩守と同じ道場主の分身である法倫房リトルボギーはこの問題について自分なりに考察しているので、興味のある方は法倫房の各種作品を参照願いたいが(但し、案内人リトルボギーの態度はかなり悪いので、閲覧には若干の注意を要します(苦笑))、人間は一人一人価値観も思考も異なるので、正直、万人に共通する抑止力は存在し得ないと思うが、最終的には刑罰内容によって抑止力が働く者と、如何なる刑罰も抑止力になり得ない者の双方がいると思われる。

 では、刑罰を無視して愚行・蛮行に人を走らせる要因とは何なのか?逆に如何なる考えが働けば、愚行に歯止めが掛かるのか?をこの以下に考察してみたい。



考察弐 命を捨てても守りたいもの
 厳罰を定めているにもかかわらず、犯罪や愚行に走る者達がいる。何故か?
 様々なケースがあるが、その一つとして考えられるのは、「厳罰の報いによる懲罰<相手を殺傷する事の意義」という不等式が成り立つケースだろう。

 少し、物騒なことを書くが、内の道場主も「奴を殺したい!」と思ったことがある。
 余り詳細に書けないが(苦笑)、学生時代に道場主をいじめた相手や、暴力と減給で道場主の生活を破綻させ、散々な侮辱を行いながら退職を認めず、人生最大の窮地をもたらしたブラック企業の社長は本当に殺したかった。
 だが、道場主はそれを思い留まった。一言で云えば道場主が臆病者だからである。
 相手を殺しに掛かれば返り討ちに遭う可能性があったことも恐れたし、恨みある相手でも殺傷すれば自分が犯罪者として逮捕されて前科者になることも恐れたし、自らが犯罪者になることで父母や妹や一族が「犯罪者の身内」となって世間に顔向け出来なくなる人生を送らせることを考えれば、相手を殺すことが躊躇われた。要するに相手を殺すことで一時的に得られる溜飲の下る想いよりも、自分や身内が法や世間から下される社会的制裁の大きさを恐れたのである。

 この時の道場主の価値観や判断が正しいか否かは個々人に委ねるが、少なくとも一時抱いた蛮行に走らなかったことで、官憲の世話になったり、法の裁きを受けたりすることは無く、出世や妻帯も出来ない情けない無能者の人生を送りつつも、時にはTV視聴・読書・ライブ通い・美食・旅行を楽しみ、一族が普通の暮らしを送ることが保たれている意味では愚行に走らなくて良かったと思っている。

 ただ、逆を云えば、もし道場主が天涯孤独の身で、様々な楽しみを犠牲にしても構わないから、奴を生かしておけん!」と考えたら……………………殺人を犯さなかったとは云い切れない(実際、今でも上述のブラック企業社長を鉄パイプで滅多打ちにする夢を年に二、三度見る程、その社長を恨んでいる。「殺したい!」とまでは思わないが、失禁して泣いて土下座して謝るまで痛めつけたい願望はある)。

 他者の心情は図り切れないので、道場主の過去の例を出したが、詰まる所、「罪による制裁」と「蛮行を為すことによる快感・本懐」を天秤にかけて、後者の方が重いとなると、人は蛮行に走ることを躊躇わなくなるのだろう。
 となると、「罪による制裁」に対してどう向き合うかが肝となる。世の中には、「自分の身はどうなっても構わない。」と考えても、「自分のせいで身内や仲間に累が及ぶ」となると蛮行を思い留まる者も多いだろう。
 また、偏見を恐れず書くが、犯罪者に無職の者が多いのも、「失うものがない。」という考えから「罪による制裁」を恐れない・自覚しない者が多いであろうこととも無関係ではあるまい。職責や立場の重い者ほど、罪を犯すことで失いものが大きく、その巻き添えを食う者も多くなることで、犯罪を躊躇うことが多くなる。

 結局、罪を犯すことで失うものが大きいと見れば、人は罪を犯さない傾向が強くなる。逆を云えば、罪を犯すことで失うものに執着しなかったり、罪を犯すことで失うものが有ってもそれによって別の何かを「守りたい!」と思ったりすれば、天秤の傾きから罪を犯すことへの歯止めが外れる。

 少し話が逸れるが、道場主の嫌いな言葉の一つに、「舐めるな!」というものがある。
 世の中には、自分の気に入らないことがあると二言目には「舐めるな!」と声を荒げ、自分のプライドを傷つけたと見做した相手に暴力を振るうことを辞さない者が少なくない。
 確かに人間にプライドや誇りは大切である。高いプライドを保持することで言動に責任を持ち、行動を律し、約定を守る元にもなるから、プライドが高いことは悪いことではない。ただ、世の中には「誇り高い」と云うことと「他者を見下す」と云うことをごっちゃにしている者もいる。
 二言目には「舐めんな!」と声を荒げている輩には、そいつ自身、他者を見下して生きているケースが決して少なくない。そしてそんな奴ほど「舐められた!」と思った途端に暴力を初めとする逆恨み的報復に走る者が枚挙に暇ない訳だが、それらの「プライド」とは相手を傷つけてまで守らなければならないものだろうか?
 逆に暴力を伴わすことで、自身のプライドを余計に傷つけはしないだろうか?

 本作で採り上げた刃傷に及んだ者達の中にも、「誇りを傷つけられた!」と考えて刃傷に及んだ者もいる。結果、被害者が丸で同情されなかったケースがあることも見れば、「誇りを傷つけられた!」という想いに充分同情出来るケースもある。だからと云って、刃傷に及び、それ故に一族郎党を窮地に追い込んだことが正当だったとは云えないだろう。

 人間の価値観は千差万別である。
 確かに命を捨ててでも守らなければならない事柄も存在しよう。考えに考え抜いた果てに「我が身はどうなっても………。」という結論にたどり着いた者が死刑を初めとする厳罰を顧みず蛮行に走ったとすれば、それを完全に止める術は如何なる法にも刑罰にも持ち得ない。
 一方で、「自分だけの問題では終わらない。」という思考が働けば、「自分はどうなっても構わない!」的に愚行に走ることに歯止めが掛かる者と思われるが、如何だろうか?


考察参 厳罰を理解しない者達
 人を殺せば、死刑になるリスクが伴う。死刑の無い国であっても、生涯塀の外に出られない厳罰が課せられることが多く、余りにも悪質・危険と見なされば、その場で射殺され、人生が終わってしまうリスクもある。
 「考察弐」でも触れたが、リスクよりも、リスクを冒してでも留飲を下げたい、恨みを晴らしたい、という想いが上回れば蛮行に歯止めが掛からなくなる。
 逆を云えば、一時的に胸がすく想いを得られても、その後にやって来る刑罰や社会的制裁の方が大きいと判断出来れば、蛮行には歯止めが掛かる。

 ただ、道場主が半世紀生きてきて、様々なケースを直に見て思うのだが、暴力を振るう者の中には「後のこと」など一顧だにしていない………早い話、「馬鹿」としか云い様の無い者も残念ながら世の中には存在する。

 恥ずかしい一例を挙げると、道場主がいじめに遭った際、いじめた相手は暴力を振るうことで自分がどんな目に遭うかを全く考えていなかったとしか思えなかった。
 日常的に暴力を振るわれ、当時の道場主の顔面には青痣が絶えず、それが故にいじめが恩師達の目にも明らかとなり、発覚した。いじめっ子達は「チクったらもっと痛い目に遭わす!」と凄んでいたが、この台詞を見れば、こいつらが教師達から制裁を受けることを恐れていたのは明らかで、実際に発覚後に恩師達からかなり厳しい制裁を受けたことで奴等からの暴力はその後劇的に減少した。
 つまり、教師に発覚することや、教師から制裁を受けることにリスクを感じるなら、顔面が青痣だらけにな程の暴力を控えるか、殴る場所を考えるか、クラスの誰もが目に付く場での暴力を控えるだけで発覚のリスクはかなり避けられた筈なのに、彼奴等はそんなことお構いなしとばかりに顔を合わすだけで暴力を振るってきた。馬鹿としか云い様がなかった
 実際、恩師達は道場主の顔にあった青痣を訝しみ、級友達に聞き取り調査を行うことで、いじめっ子達の暴力を察知し、訊問に及び、いじめっ子達も全く惚けられなかった。

 個人的な一例だが、自分への加害以外にも、これまでの人生で様々な暴力を見てきて、リスクを全く考えていない愚かとしか云い様の無い蛮行が幾つも存在した。

 世の中には、犯罪によって如何なるリスクが伴おうと、それ以上にその場での愚劣感情を発散したいと云う想いが勝れば、愚行に歯止めのかからない者もいる。所謂、「無敵の人」というものだろう。
 だが、一方で、「罪に伴う社会的制裁を受けたくない。」と思いつつも、そのリスクを丸で考えず愚行に走る者もまた少なくない。

 本作で採り上げた例でいえば、浅野内匠頭水野忠恒はその辺りのリスクや、藩主・当主としての責任を全く考えず、感情の赴くままに愚行に走ったとしか思えない。周囲に愚行に伴うリスクが如何に大きいかを教導出来る者が存在していれば、かかる愚行は止められたのではないか?と思われてならない。

 世の平和を乱す要因を「無知と貧困」にある。と主張する人々がいる。様々なケースがあるので、すべてがこれに当てはまるとは考えないが、リスクを考えもしない「無知」の占める割合が大きいであろうことは、道場主自身自らの経験から少なからず賛成するのである。



最終考察 暴力・蛮行に歯止めを掛ける為に
 個人としての責任、一族郎党への想い、愚行によるメリットとデメリットの均衡を自覚出来れば、多くの暴力や蛮行は歯止めが掛かるのではないかと考える。

 上述の考察で、それ等が自覚出来ない、或いは自覚しててもその場の感情を止められない、所謂、ド阿呆は法も罰も意味をなさないとしたが、逆を云えば自覚させるか、自覚が愚劣感情を上回れば止められると考えている。果たしてそんなことが可能なのだろうか?と自問自答した結果、「困難だが不可能ではない。」と考えている。
 その証左として、取り調べや裁判において「死刑になっても構わない。」、「死刑になりたかった。」、「死刑を恐れてなどいない。」と強弁する凶悪犯の多くが、実際に死刑判決を下されると控訴・上告・再審請求を繰り返している例が物凄く多いことが挙げられる。
 中には、控訴や上告を自分で取り下げながら、「取り下げ無効」や「再審請求」を喚き立てるという呆れた奴までいる
 如何なる心境の変化によるものか、または弁護士を初めとする第三者の説得で翻意したものか、ケース・バイ・ケースと思われるが、これらの輩は、自分の愚行が死刑を招くと云うことを事前に自覚していれば思い留まっていた様に思われてならない。つまり死刑を初めとする厳罰が抑止力を持ち得たケースは現状より見込めると云いたいのである。

 詰まる所、本当に死刑や死ぬことの怖さが事前に認識されており、同時に自らが凶悪犯となることで自分の大切な人達に苦難の人生を強いるであろうことが予測されておれば、罪は犯さないか、凶悪度にも歯止めが掛かったと考えられる。

 となると大切なのは、「教育」と「情報開示」と薩摩守は考える。

 個人的な例が多くて恐縮だが、幼少の頃の道場主は体格も人並み外れて小さく、体力・腕力を初めとする身体能力で大幅に人に劣る弱い人間だった故に、特撮ヒーローや豪傑・猛将に憧れた(このことは道場主の各分身を生む素地となった)。それ故、戦場で勇敢に戦い、迫りくる敵兵を次々なぎ倒す戦士を「カッコいい!」と思い、戦争の持つ残酷さや悲惨さを全く意識していなかった。
 それを、小学三年生の時に初めて原子爆弾がもたらした惨禍を知り、無力な人間がとんでもない兵器を初めとする理不尽な暴力の前に為す術なく惨殺されたり、一生残る傷害を負わされたりすることへの怒りと悲しみを知り、「戦場で勇敢に戦う兵士」への憧れが雲散霧消し、仮面ライダーもウルトラマンも「フィクションで良かった!」と思うようになった。

 想像だが、太平洋戦争にて米軍機からの空襲を受けるまで、日本人の多くは戦争の恐ろしさを分かっていなかったのではなかろうか?まあ、そこまで云うのは云い過ぎとは思うが、空襲以前の日本人にとって、外国との戦争が行われた戦場はすべて国外で、戦場に出ない者が死傷の恐怖に曝されることは無かった。おまけに日清戦争以来大日本帝国はそれまで戦争に負けたことが無かった(シベリア出兵ノモンハン事件と云った紛争や小競り合いにはぼろ負けも多かったが、内地の人間には詳細な事柄が伝わっていなかった)。
 それ故、戦場に向かう兵士を「万歳!」と叫びながら見送り、召集令状・赤紙の送付を郵便局員は「おめでとうございます。」と云って渡し、受け取る側も喜ぶ振りをした。

 自らが戦傷死することへの恐ろしさに対する自覚が希薄なものだから、敵兵や敵地人民が被る痛みへの思いやりは更に希薄である。
 いじめっ子を叱る際に、「人の痛みを知れ!」と諭すのは云い得て妙であると同時に、これは犯罪や戦争に対しても同じことが云えよう。
 そしてこれらを教導するのは家庭・学校・地域を問わず、「教育」の重要な責務であろう。

 もう一つの「情報開示」だが、戦争に対するそれはそこそこ為されているが、死刑を初めとする厳罰に関するそれは全くもって不充分と薩摩守は考える。
 太平洋戦争に敗れたことで心底戦争に対して「懲り懲り」という想いを痛感した日本人は歴史上の戦禍について詳細に触れるようになった(それでも自己都合による隠蔽はまだまだ散見されるが)。だが、「死刑」に関しては、執行タイミング・執行決断理由・執行順位・果ては長く執行しない理由などの情報が丸で開示されず、記者会見における法務大臣は呆れる程「個々の案件に関することに関しましては回答を差し控えさせて頂きます。」を繰り返す。
 恐らく、法務省関係者は死刑の実態を明らかにすることで内外の批判が集中し、執行前の妨害が為されるのを恐れ、情報の多くを開示しないのだろう。だが、薩摩守は死刑存置論者故に死刑に関しては情報開示を求める。
 いつ死刑になるのか?何故死刑になるのか?執行に際して死刑囚がどんな心境でいたのか?死刑が如何に恐ろしい刑罰なのか?これらが幾分なりとも情報開示され、世間一般に周知されていれば、死刑制度が持つ犯罪抑止力は多少なりとも高まると薩摩守は考えるが、如何だろうか?



 長々と書いたが、結局大切なのは(戦争であれ犯罪であれ)暴力がもたらす惨禍、その報いとしてやって来る刑罰と一族郎党を襲う境遇の持つ恐ろしさが充分に教えられれ、暴力を振るうことによって得られる一時の憂さ晴らしや即物的な戦果が決して間尺に合うものでないことを世界万民の共通認識になることであろう。
 「抑止力」の名の下に核廃絶も核軍縮もまだまだ見込めない令和の世だが、聞くところによると、核保有国を初めとする諸外国の人々はヒロシマ・ナガサキの悲惨さを充分に認識していないそうだ。
 令和五(2023)年五月に、内閣総理大臣岸田文雄の地元でもある広島にてG7サミットが開催され、G7首脳が揃って、広島平和記念公園にて被爆者への献花を行った。このことが核軍縮・核開発にそれほど影響するかは何とも云えないが、今はただただ核兵器のもたらす惨禍が正確に一人でも多くの人に伝わり、ありとあらゆる暴力への歯止めを為すことを祈り、期待したい。

令和五(2023)年五月二二日 戦国房薩摩守




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令和五(2023)年五月二二日 最終更新