第漆頁 何から逃げて、何から逃げざるべきか?

過去作に思うこと
 本作は『没落者達の流浪』の続編であって、続編ではない。
 「続編であって」と云うのは、視点こそ違えど「逃げる」という行動に根差していることが共通しているからである。
 「続編ではない。」と云うのは、高野長英を再度取り上げている様に、何から逃げるかの観点が大きく異なるからである。
 単純比較すると過去作はマクロで、本作はミクロである。もう少し具体的云うと過去作は「生き延びる」ことが主眼にあり、本作は「現状脱出」が主眼にある。別の云い方をすれば、前作は長期的で、本作は刹那的である(チョット過言だが)。
 長英を例に挙げれば、過去作では彼を罪人として処罰せんとする司法から逃れ続けんとしたのに対し、本作では彼を終身服役囚として投獄している状態からの脱出である。

 同じ人間の同じ行動でも、世相・信仰・現行法・信念によって、その是非や合法違法や同情の有無が大きく変わるのは過去作制作時に大いに感じた。
 また、過去作制作が三年以上の長き(平成二二(2010)から平成二六(2014)年)に渡ったこともあって、最終頁にてその間に実際の世界で起きた様々な「逃亡」(その多くは許しがたいもの)にてついて論述した。

 そして先日思った。

 過去作完成から約七年を経て、薩摩守自身含め、世界中で様々な「逃亡」が展開され、それに怒りを抱いたことを。
 その一方で、令和二(2020)年に新型コロナウィルスによる世界的パンデミックが深刻化し、「三密」、「ソーシャルディスタンス」、「自粛要請」と云った言葉が叫ばれ、感染が逃れるために様々な策が講じられた(某合衆国大統領とその熱狂的な支持者は信じられないぐらい無防備で、世界各国で最大の犠牲者を出しているが………)。

 そもそも「逃げる」という行為はカッコの良いものではない。そもそも勝てば「逃げる」と云う必要はない。
 だが、「逃げざるを得ない時」と云うものは確かに存在し、一方で、人間は「逃げてはいけない」と云う局面に対してその弱さゆえに「逃げる」と云う選択をしてしまうことが度々ある。
 冒頭でも触れたが、そんなところに想うところあって、同じ「逃亡」でも視点を変えてみてみたくなって、本作は作られた。
 故に前作で採り上げた筈の高野長英が再度取り上げられており、前作視点では同情的だった長英を、本作ではその逃げる為に採った手段(放火教唆)を批判的に見ている。

 周知の通り、逃亡の果てに最終的な敗者となれば恥しか残らない。「逃亡」を選ぶものがその時点で後々に勝算を持っているかどうかはケース・バイ・ケースだが、そこに強い信念があれば、それを嘲笑したくないとは、改めて想う(信念の内容を非としたり、手段を酷評することはあるだろうけれど)。
過去作以降に起きたリアル「逃亡」
 過去作にて、制作中に実際の世界で起きた様々な「逃亡」を取り上げた。そしてその後七年間にもやはり様々な形の「逃亡」が起きた。

平成二七(2014)年
四月一六日 大韓民国全羅南道珍島沖で、クルーズ旅客船・セウォル号が沈没。
 沈没が始まった頃から世界中に報道が為され、船中の修学旅行生がLINEで連絡を取り合いながら数多く犠牲になったことが人々の涙を誘った。
 結果、乗員・乗客二八九人が亡くなり、五名が行方不明、捜索作業員八名が命を落とすという韓国の海難事故としては史上最悪の物となった。
 その一方で、最大の責任者である筈の船長イ・ジュンソクは適切な避難誘導も行わず、自らは救命艇で逸早く逃げだし、世界中から非難を集めた(後に不作為による殺人、殺人未遂、特定犯罪加重処罰法違犯、業務上過失船舶埋没、水難救護違反、船員法違反容疑で起訴、後に無期懲役が確定)。
 船長の身勝手な逃亡の一方で、修学旅行生二〇〇名以上が犠牲となり、自らは救助された当該校の教頭先生は後に自責の念から自殺した。


平成二九(2016)年
八月一七日 駐ロンドン北朝鮮大使館のナンバー2に当たる公使が家族とともに脱北し、韓国に亡命していることが判明。
 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)では、金正恩体制になってから、エリート層の脱北が相次いで報道されており、この件は脱北した外交官の中で、最も高位に当たる。
 一口に「脱北」と云っても様々なケースがあり、単純に是非を述べるのは慎みたいが、「脱者」が後を絶たない一方で、「脱者」は皆無に近いことを北朝鮮の為政者は謙虚に受け止めるべきだろう(←しないだろうけれど)。


平成三〇(2017)年
一月二六日 世界終末時計が二年ぶりに進み、昭和二八(1953)年以来となる残り二分三〇秒まで迫る。
 世界終末時計とは、人類滅亡の時を午前零時とした際に、それまでの時間を時計に準えてあとどれくらいの時間であるかを示すものだが、この日、核兵器拡散防止や気候変動対策に消極的な米大統領ドナルド・トランプの発言が主な原因となって、この記録(?)となった。
 人類滅亡からは是非とも逃亡したいものである。


二月一三日 金正男、マレーシアで殺害。
 金正男(キム・ジョンナム)は北朝鮮の最高権力者・金正恩の長兄で、兄弟順から云えば亡父・金正日の後継者となっていてもおかしくない人物だった。継承経緯や事件の詳細はここでは触れないが、VXガスと云うとんでもない毒ガスで外国要人の身内が殺された大事件にも関わらず、逮捕された容疑者達は信じられない程の軽罰で終わっており、何者かの意思が働いているとしか思えなかった。
 尚、事件に関しては今(令和三年一月一一日現在)も北朝鮮籍の容疑者四名が逃亡中で、マレーシア警察は彼等を追っている(勿論、北朝鮮は事件に関する一切の関与を否定している)。


五月五日 インドネシア・スマトラ島の刑務所から受刑者四〇〇人以上が集団脱走。
 同月八日時点で二一九人が拘束されたが、二〇〇人以上はその後も逃亡し続けた。詳細は薩摩守の研究不足で不詳だが、逃亡受刑者達の罪状(凶悪犯度)が不明なのが社会不安に拍車を掛けたことだろう。
 時代も国も異なるが、アメリカ合衆国のアルカトラズ島刑務所は凶悪犯ばかりを集め、孤島にて脱獄を困難なものとしていたが、それだけに逃亡者が出た時点でその恐怖度は尋常ならざるものとなる(過去に同刑務所から逃亡したものは極僅かながら、その後捕まることはなかった)。


 尚、同月一二日には、パプアニューギニア東部ラエの刑務所でも受刑者七七人が集団脱走する事件が発生した(内一七人が刑務官に射殺された)。
 同年六月一一日にはコンゴ民主共和国・北キヴ州ベニにて、刑務所が武装集団に襲撃され一一人が死亡。九〇〇人以上の受刑者が脱獄した。


八月一六日 レバノン議会、レイプ加害者が被害者と結婚すれば免罪となる法律を撤廃。
 強姦に対する世界の刑罰は概して軽いと薩摩守は考えているが、男尊女卑の傾向が強い発展途上国ではその傾向が今も深刻である。
 インドでは強姦事件に対する警察の腰が重く、一族の女性が強姦に遭うこと自体を恥と考える風潮から、被害者である筈の女性が身内から虐殺されたり(名誉殺人)、加害者との結婚を強要されることがあると云う、話をいくつも聞き、その都度呆れかえった記憶が有る。
 レバノンに性犯罪者に掛かる「抜け道」があったのも許し難いが、それが撤廃されたこと自体は良い方向に進んだと云えよう。


九月二八日 国連安全保障理事会、ミャンマー・ロヒンギャ族の問題で公開会合。
 同会は、ミャンマーの少数民族で、イスラム教徒であるロヒンギャ族の難民が五〇万人を突破したことを踏まえ、事務総長グテレスは「人道と人権における悪夢」とミャンマー政府に事態収拾を強く求めた。
 ミャンマー人を構成する民族の多くは仏教徒で、異教に対して排他的なのは前々から問題視されていたが、長く軍事政権と戦い、民主化に努めて来たアウンサン・スーチー氏がこの手の問題に無策・無言に近いことを仏教徒として薩摩守も哀しく想う。


一一月一五日 ジンバブエクーデター勃発
 ジンバブエ国軍が首都ハラレの国営放送局を占拠。政府施設や議会、裁判所も封鎖。大統領ロバート・ムガベは隣国南アフリカのジェイコブ・ズマ大統領に、電話で自宅軟禁下に置かれていると説明。
 後にムガベは大統領を退位し、健康上の問題を理由にマレーシアに逃れ、そこで享年九五歳で没した。ジンバブエ独立の英雄にして、一九八〇年代のアフリカ飢饉を乗り越えた敏腕為政者でもあったが、晩節を怪我した失政(過剰な白人迫害に伴う国内農業力の低下、ハイパーインフレ)の非を認めたり、責任を取ったりすることは終に無かった。


平成三〇 (2018)年
七月六日 オウム真理教事件の死刑囚・麻原彰晃(本名・松本智津夫)を含む七名の死刑を執行。
 二〇日後の同月二六日には残る六名のオウム死刑囚の死刑も執行され、無期懲役で服役している者を除けばすべてのオウム犯罪者の刑罰が終了した。
 死刑執行を巡って、死刑廃止論者・死刑廃止国以外からも、「教祖のみを死刑にすべきだった。」、「これで真相は闇の中‥……。」、「再審請求中の者もいたのに………。」等々、様々批判の声が噴出したが、最後まで責任から逃げ続けた麻原、事件を「救済の一環」として正当化し続けた新実智光、東京拘置所から移送されて執行が秒読みになった段階で「真実を明らかにしたい。」と抜かして再審請求を始めた井上嘉浩等の卑劣振りからも、彼奴等の薄汚い口が永遠に封じられて然るべきだった、と怒りを新たにした。


八月二一日 大阪富田林署から拘留中の容疑者が逃亡。
 窃盗や強制猥褻等の罪で拘留されていた樋田淳也容疑者が弁護士と接見後、アクリル板を壊して逃走。四九日後に逮捕され、二年後に大阪地裁堺支部は「不合理な弁解に終始し反省しているとは到底云えない。」として懲役一七年を云い渡した(求刑は懲役一八年)。
 樋田は散々ぱら逃走し続け、その間万引きを繰り返し、再逮捕後も黙秘・否認を続け、裁判で加重逃走を問われた際にもアクリル板破壊を否定した。勿論、謝罪・反省を示した様子はなく、弁護側は控訴したものと思われる。


平成三一・令和元(2019)年
七月一八日  京都アニメーション放火事件
 作品を盗まれた称する男によって放火され、三六人が死亡する大惨事となり、京都アニメーションの名高さからも世界中から哀悼の声を集めた。
 犯人も前進大火傷の重体に陥ったが、医師団の懸命の治療により一命を取り留め、後に起訴に至るが、令和三(2021)年一月一一日現在初公判は未だ未開廷。
 死刑間違いなしの重罪犯に対して、正当な裁きの為とはいえ、遣り切れなさを抱えつつ懸命の治療を施す医師団には頭が下がるし、さしもの被告も感謝の意を示しているらしいが、自らの罪にしっかり向き合っているかは甚だ疑問である。


一二月三一日 日産・ルノー・三菱アライアンス社長兼CEOカルロス・ゴーン被告がレバノンに逃亡していたことを発表。
 ゴーンを巡る事件は良く知らないので、その詳細には触れないが、当時保釈中の身だったゴーンは、日本国の裁判に対し、「もはや私は有罪が前提とされ、差別がまん延し、基本的な人権が無視されている不正な日本の司法制度の人質ではない。」、「私は正義から逃げたわけではない。不公正と政治的迫害から逃れたのだ。」と述べて自らを正当化し続けている。
 成程、ある国家における司法の在り様が不当と考えるなら、そこを脱して国外に逃れることを全面的には否定出来ない。しかしながら、逃亡が正当行為だとしても、当該国に対する不法行為であることに変わりはなく、ゴーン逃亡に協力した人間が何人も逮捕されている。
 自らを正義と位置付けるなら、ゴーンは日本の司法を批判するだけでなく、国際社会に日本司法の不当性を(在るならだが)訴え、協力者の逮捕に怒りや悲しみの声を上げるべきだが、現状、ゴーンにその動きは見られない。

 尚、日本政府の引き渡し要請に対してレバノンはこれを拒否しているが、独立国としてはやむを得ない対応である。


令和三(2021)年
一月七日 アメリカ大統領ドナルド・トランプ、アメリカ合衆国議会襲撃者達を批難。
 「逃亡」とは趣が異なるが、前々から薩摩守はドナルド・トランプが強気・自画自賛・大言を連発し、謙虚さの欠片もない姿勢を苦々しく思っていた。
 殊に人種差別に対して、(それ自体は批判しつつも)極右団体や白人至上主義者達を殆ど咎めないことや、新型コロナウィルスの感染拡大に対しても「(中国からの流入停止で)数百万人の命を救った!」と強弁し、マスクもろくにせず世界最大数の感染者・犠牲者を出していることに何の非も落ち度も認めない姿勢に憤懣やる方ないものを抱いていた。

 そんな性格もあってか、トランプは前年の一一月三日に行われた大統領選挙に対して、「大規模な不正があった。」として敗北を認めず、証拠も示さず司法に(自分が敗北した州だけ)やり直しを求める訴訟を起こすも、次々と却下され、一月六日に合衆国議会での正式決定が行われる直前、支持者達にデモを呼び掛けた。
トランプ同様、敗北を認めない熱狂的な支持者達はジョー・バイデンを次期大統領に正式に指名しようとしていた議会を襲撃し、一時議員達が全員避難する事態となり、警察官を含む五名の死者が出るという事態になった。
 事態の深刻さを受けてトランプは襲撃者達を「我が国を代表するものではない。」として、暴力を批難。確かにトランプは「暴力を振るえ。」とは云っていないが、デモ扇動は否定のしようがない事実。しかしながらこれまで同様トランプが自らの言動を恥じたり、後悔したり、反省したりするそぶりは微塵も伺えない。
 事ここに至って、彼は政権要人や共和党議員からも次々と見放されている。


 上記以外にも、世界では様々なテロや自然災害や犯罪が続発し、感染や災害から命を守る為に危険な場から逃れるのは当然にしても、責任や刑罰から逃げる輩には腹を立て続けて来た。
 愚痴がみっともないのは百も承知だが、人類はいつまでこんなことを続けるのだろうか(嘆息)。



今一度、「逃げる」と云うことを考えてみる。
 平成九(1997)年放映のNHK大河ドラマ『毛利元就』にて、毛利隆元(上川隆也)は劣等感に苛まれていた。父・元就(中村橋之助)から家督を譲られるも、勇猛な次弟・吉川元春(松重豊)、智謀に長けた三弟・小早川隆景(恵俊彰)に比してこれと云った取り柄を持たず、父ほどの辣腕も震えない隆元は大名でいることに嫌気が指し、海外へ旅立とうとする前の挨拶に来た商人・堀立正直(原田芳雄)に自分も連れて行って欲しいと懇願した。

 それに対して、堀立は、

「人間、一度逃げると癖になっていけませぬ。本気で海外との商いがされたいのであれば、地の果てまでお連れします。  しかし、今の自分から逃げたいだけなら、御断り申す。」

と答えた。
 これを受けて隆元は安芸国主の座に留まり、弟は異なる自分と云うものを見つめ直し、生一本な人柄を利用して周囲の人間を巧みに動かすことを覚え、これには元就も元春も隆景も感嘆し、隆元が急死(ドラマでは暗殺)した際に、一人前となった嫡男に死なれた元就は半狂乱となった。

 「史実を基にしたフィクションの一コマ」と云ってしまえばそれまでだが、国主の座に留まった隆元が堀立の一言に自分から逃げないことで自立の道を開眼した名シーンだと、自身弱い人間である道場主は大いに感心した。
 もし、隆元が自分を偽って、国主の座を捨てていれば、逃げ続ける一生を送ったことだろう。

 勿論、エラソーに云っていても、道場主=薩摩守は決して「逃げる」という言葉と無縁の人間ではない。それどころか、小さな逃亡を繰り返している人間だからこんな作品を作るに至ったと思っている。
 前作から本作を作るまでの間に薩摩守は図らずも四〇代にして二度転職した。前職と前々職の退職は止むを得ない物・避けられない者だったと思ってはいるが、自らに逃げた面があり、能力に至らない面があったことは他ならぬ自分自身が痛感している。
 だが、だからこそ、人間には誰にでも逃げてはいけない最後の一線、譲ってはならない大切なものがあり、矛盾しているようだがそれらを守る為に逃げるのが必要なこともあると思っている。

 最後に、決して逃げることが出来ないものについて触れておきたい。
 誰にでも分かる話だが、「自分自身」である。
 暴力・疫病・厄介な対人関係・借金・責任問題・様々な失敗・過失・その他世の中には逃げたくなることが満載している。それらの中には逃げることが全くもって正しいものもあれば、逃げるのも無理ないものもあれば、逃げるのが困難なものもなる。
 それらから逃げおおせるか否かの多くは個人の能力や周囲の協力で左右される。しかしながら自分自身からは誰も逃げられない。
 正確には、逃げているように装えても、逃げているか否かは自分自身が嫌でも分かっているということである。責任を否定し、負の感情を持っていないように振る舞えても本音が自分の心から消えることは無い。他人を騙せても、自分は誤魔化せない。

 前作と本作で採り上げた者達が自分自身の逃亡をどう捉えているか、それは当の本人にしか分からない。それ以上に自分が同じ立場に立った時にどう判断するかも分からない。
 ただ、如何なる言動を繰り広げようと自分自身から逃れられないことを自覚し直し、残りの人生、周囲や世間に恥じることはあっても、自分の本音に恥じないよう生きたいものである。


参考
 楽曲房ダンエモンの好きな摩季ネェ(大黒摩季)の楽曲より

 自信がないから言葉が増える 強がりは そう 強さじゃない どこに逃げても自分からは逃げられない(「例えばそれが愛でもいいと思う」)

 泣けばいい 逃げてもいい 立ち上がれないほど辛いことなら いつの日も抱き締めた 心の光り もう 自分で消さないで(「遠い空できっと」)

 上記の歌詞に何を感じるかは、閲覧者個々人の心に委ねたいと思います。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新