第陸頁 岡田啓介 二・二六事件………女中と弔問客の機転

脱出者岡田啓介
包囲者陸軍将校
事件二・二六事件
手引者迫水久常、小坂慶助
脱出手段気分を悪くした弔問客への変装
影響陸軍将校への決起失敗印象付け、及び和平勢力温存。
事件と重囲 二・二六事件………それは青年陸軍将校による天皇親政を目指して「昭和維新、尊皇討奸」と云うスローガンの元、政府要人を暗殺せんとして決起したクーデター未遂事件だった。
 そして政府要人の中には時の総理大臣も含まれ、実際に襲撃された。時の総理大臣は岡田啓介………閉店、ガラガラガラ……………いかん!このネタは過去作でも外していた……………。

 阿呆なしかもウケない冗談はさておき、陸軍将校は次々と政府要人を襲撃・殺害した。
 標的は岡田啓介、鈴木貫太郎(侍従長)、斎藤実(内大臣)、渡辺錠太郎(教育統監)、牧野伸顕(前内大臣)等で、彼等の首を狙い、そして抵抗勢力を封じる為、首相官邸、警視庁、内大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞が襲撃・占拠した。

 結果、高橋、斎藤、渡辺が殺害され、鈴木が瀕死の重傷を負い (妻たかの機転で既に死んでいると見做され、辛うじてとどめを刺されるのを免れた)、牧野を守らんとした警察官が一人殉職した。
 そして襲撃の手は首相官邸にも及んだ。中尉・栗原安秀率いる約三〇〇の兵が官邸を襲い、防戦に出た警察官四名が殺され、岡田も問答無用の銃撃を受け、即死したかに思われた………。



脱出 だが、岡田啓介は死んでいなかった。栗原安秀達が岡田と認識して討ち取ったのは岡田の義弟(妹婿)で総理秘書を務めていた陸軍歩兵大佐の松尾伝蔵だった。
 メディアが発達し、TVやネットで総理大臣の顔を容易に見ることの出来る現代なら考えられないが、TVもネットもなく、紙質の悪い新聞の白黒写真でしか顔を確認出来ない昭和初期にあっては、政府要人といえどもその人相をしっかりと認識出来るものではなかったらしい。
 松尾は義弟ながら岡田と似ており(薩摩守はそんな似てると思わないのだが………)、結果、松尾を殺害した陸軍将校達は岡田を討ち取ったと認識し、そのまま首相官邸を占拠し続けた。

 その時、当の岡田は女中達が押し入れの中に隠し、女中達は脅えて無抵抗でいる様に装いつつ、押し入れの前に居座って中にいる岡田を匿った。

 かくして一先ず危機を躱した岡田だったが、勿論根本的な問題は解決していない。
 首相官邸を陸軍将校が占拠している間、隠れ続けなければいけない訳だが、いつ人違いに気付かれるか分かったものではないし、押し入れの中に潜むと云っても、くしゃみや放屁と云った生理現象で潜伏が気付かれる危機は付きまとい、飢餓や排便を考えればいつまでも潜伏していられるものではなかった。岡田は当てもなく助けを待つしかなかった。

 幸い、(新たな)皇軍(となる)としての誇りもあってか、陸軍将校達は標的となった政府要人を惨殺し、五名の警察官を殉職させたものの、要人の妻や女中達には手を出さず、憲兵の実況見分や関係者の弔問を許可した(勿論、しっかり監視していたが)。
 そして検分していた憲兵の中に岡田の顔を知る篠田惣壽(憲兵上等兵)がいて、遺体が岡田でないことに気付いた篠田は岡田の生存を確信し、上司である特務班班長の小坂慶助にこれを知らせた。
 小坂は首相秘書官の迫水久常(岡田の娘婿でもある)・福田耕と相談し、弔問を装った岡田救出作戦に出た。

 岡田と年の近い者を多数揃えた弔問団を率い、首相官邸を「弔問」した迫水達は、女中の元に行き、福田が「怪我はないか?」と尋ねたところ、女中が「はい、お怪我は有りません。」と答えたことから、女中達が背後の押し入れに岡田を匿っていることを察知した。
 迫水達は陸軍将校達に、弔問客の一人が無残な遺体を眼前にして気分を悪くしたので帰らせたい、と偽り、その者を搬送する態を装い、そこに岡田を紛れ込ませ、首相官邸を脱出させることに成功した。



脱出の影響 「天地開闢以来テロリストが天下を取った試しなど無い!」という人もいれば、「天下を取ればテロリストとは呼ばれない。」と反論する人もいるだろう。
 青年陸軍将校達にとって計算外だったのは、彼等が忠誠を尽くした筈の昭和天皇が彼等を「賊軍」としたことにあった。昭和天皇は信頼していた臣下が殺害されたことに激怒し、陸軍将校達の心情だけでも認めて欲しいと云う眞崎甚三郎の言も却下し、「即刻鎮圧せよ!」と命じ、「朕自ら制圧に出る!」とまで述べた。

 結局、クーデターは「反乱」と見做され、降伏に応じなければ射殺対象になるだけではなく、家族も「国賊」になるとのアドバルーン掲揚やビラ撒きが為され、事件は急速に収束した。
 つまり昭和天皇の怒りを買った段階で、このクーデターに成功の道は無かったのだが、こうなると彼等にとってせめてもの救いは「どれだけ「君側の奸」を除けたか。」と云うことだっただろう。
 自分達が権力を握れずとも、「君側の奸」を全滅させることが出来れば、運が良ければ、後任者も多少はクーデター側の怒りの大きさを感じて身を慎んだり、彼等の意を汲んだりするかも知れない。
だが、「君側の奸」と見做した者達の中の総大将である現役総理大臣・岡田啓介を討ち漏らしたことは彼等にとって大きな痛手だったことだろう。

 とはいうものの、岡田並びに岡田内閣が受けた打撃は大きかった。公私ともに深い仲だった義弟・松尾伝蔵、英語の師で蔵相として頼りにしていた高橋是清、自邸を命懸けで警備した警察官四名を失った岡田は翌月に内閣を総辞職し、その折の岡田を見た昭和天皇は岡田の自害を懸念する程だった(余談だが、その後の岡田は毎年二月二六日に必ず松尾と四名の警察官の墓参りを行った)。

 ただ、その後の終戦までの歴史を見れば岡田が生き延びた影響は大きかった。無念の退陣をしたとは云え、総理大臣を経験した岡田は総理大臣経験者からなる重臣会議の一員となり、戦争へと迷走する大日本帝国に精一杯の歯止めを掛けた(海軍出身の岡田はアメリカの力をよく知り、対米開戦に反対だった)。
 すべてが上手く云った訳ではなかったが、日米開戦をした東条英機内閣を、海軍出身の総理大臣経験者(例・米内光政)達と協力してサイパン島陥落の責を取る形で総辞職においやり、次いで成立した小磯國昭内閣に海軍大臣として米内光政を送り込んだ。
 そして政府首脳の誰もが戦争継続は不可能と見たところで、終戦を為し得る総理大臣として、ともに二・二六事件を生き延びた鈴木貫太郎を推し、ポツダム宣言受諾をもって太平洋戦争は終結した。

 そのすべてが岡田によるものと云うつもりは無いが、二・二六事件が同じ失敗に終わったにしても、岡田が落命していれば対米戦争に反対する声は小さなものとなり、「首相暗殺」を成功させた陸軍の発言力は強くなっており、同じ終戦を迎えたにしても、その時期、それに伴う犠牲者数の多寡には馬鹿にならない差が出たのではなかったろうか。


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令和三(2021)年一四日 最終更新