死刑執行の問題六 執行方法

 さて…………この問題が本作で最も過激になる。要するに死刑執行手段、つまりは人の殺し方について絞殺……じゃなかった……考察するものなのだから。ただ、同時に執行に携わる人間の心の痛みを無視する訳ではない



考察1 情の湧いた刑務官にさせるな
 経験が無いので想像のしようが無いのだが、死刑執行に携わる刑務官の精神的負担は相当なものらしい。それゆえ死刑執行時に「殺した」と云う意識を軽減させる為に三人同時にボタンを押し、実際に死刑囚の立つ床板を開くボタンは一つだけで、誰が殺したか分からなくする措置が取られているのは有名な話である。
 また死刑執行が終わると担当した刑務官はその時点でその日の業務は終了となる。これまた精神に負担を追うであろう刑務官にその後の仕事をさせないことで心を落ち着かせる措置だろう。

 ただ、死刑に携わったことのある刑務官のドキュメンタリー番組や、取材漫画を見て思うのだが、何故に死刑囚の処刑を顔見知りの刑務官に執行させるのか?という疑問がある。  死刑執行に際して、己の最期を悟った死刑囚の反応は、泣き出す者、腰を抜かす者、失禁する者、暴れる者、泰然と処刑場に赴く者、等々と千差万別で、その反応に時として刑務官は更に心を痛めるらしい。
 泣いたり、腰を抜かしたり、失禁したり、暴れたりする死刑囚を無理矢理執行する際には大人しい死刑囚に対するそれよりも「殺した」感が強まり、嫌悪感や罪悪感に苦しむことになるだろう。
 一方で、確定から執行まで時間が掛かり過ぎる中、拘置所内で刑務官と死刑囚が何年何十年と顔を合わせたことで情が湧き、そんな死刑囚の死に苦しい思いをする刑務官も少なくなく、最後の挨拶をする死刑囚には「元気でな。」とも「頑張れよ。」とも云えず、居た堪れない気持ちになった例も聞いたことがある。

 コストや手間の問題、途中逃亡のリスクもあると思うが、死刑囚を他の拘置所に移すか、逆に他の拘置所の刑務官を出向させるかして、死刑囚に情の無い刑務官に死刑執行させる訳にはいかないのだろうか?
 被害者や遺族にとっては恨み骨髄の死刑囚であっても、刑務官にとっては何の怨みもない人物で、そのことも死刑執行が刑務官を苦しめる一因になっていると云うから、もし罪を認め、真人間としての心を取り戻した後の死刑囚と何年も顔を突き合わせていれば、そんな人物を殺すことに携わるのは尚更苦しいことだろう。

 法務大臣が死刑執行命令書に署名・捺印をするのにも、「人を殺す」と云う嫌悪感・罪悪感・後ろめたさが付き纏うと云う。ましてや実際に死刑囚を取り押さえたり、首に縄を掛けたり、とどめとなるボタンを押したり、落下して来た首吊り体を押さえたりする刑務官の苦しみは法務大臣以上だろう(法務大臣の様に名指しで死刑反対派から責められたりはしないだろうけれど)。
 ただ、それでも死刑執行は身勝手な動機による殺人とは全く異なる、正当な裁判を経ての刑事処分で、それにより死の苦しみは死刑囚の自業自得なのだから、刑務官の方々に軽々しく「気にするな」とは云えないにしても、その苦しい任務を労い、「恥じないで頂きたい。」とは申し上げたい。



考察2 刑務官に「殺人」の感覚を抱かせない為に………
 ここから暴論はエスカレートする。はっきり云って、暴論であることを否定しない。  刑務官が凶悪犯罪者といえども「人を殺す」という事に耐え難い苦痛を感じるのであれば、暴論を承知の上で2つの提案をしたい。
 まず1つは、

 死刑執行を被害者遺族に行わせる。

 と云うものである。
 個人として何の怨みもない死刑囚の命を奪うボタンを押すことに刑務官が苦痛や躊躇いを感じると云うのなら、死刑囚に怨みを持っている被害者遺族にボタンを押させてはどうか?と云うのはかなり真剣に思っている。
 もし俺の身内が身勝手に惨殺されたらこの手で殺したいと思うだろうし、執行のボタン押しを自分にやらせて欲しいと思うだろう。

 そしてもう1つの暴論は、

 執行が嫌なら何もしない、そう、独房に閉じ込めたまま飯も与えない。

 と云うものである。
 例え死刑囚が泣き、怒り、何事を喚こうが一切合切無視してただ閉じ込めるのである。壁や扉を防音にすれば怨嗟・愛想の声も聞かずに済もう。そして2ヶ月もしてから房内を確認すれば能動的な行動を取らずして死刑囚を死に追いやれる筈である
 まあ、死刑反対派がこの論を見れば、「閉じ込める段階で殺しているのと同じだ!」と反発するのは目に見えているが、「不毛な絶海の孤島に追放した結果、勝手に野垂れ死んだ。」と想定することで刑務官の罪悪感はかなり軽減されると思われるし、法務大臣が署名する必要もないし、どんなに生命力溢れる死刑囚でも既定の半年以内に死に追いやれるし、費用=税金もかなり掛けずに済むと思われる。
 モグラじゃないから一日や二日ではくたばらないから飢えに苦しみながら死刑囚に自分のやったことを後悔させられる可能性も高いから、暴論なりに理に適っていると自分では思っている。


 勿論、この2つの論は倫理的に、人権的に、法的に問題ありまくりであるから、実現可能性は限りなく0に近いと思っている。だが死刑囚がやったこと、遺族の無念、刑務官の苦悩を思えば、暴論の中にも一考の余地有りとは云えまいか?


考察3 絞首刑は甘いか?
 周知の通り、現代日本の死刑執行方法は絞首刑一択である。
 かつてには斬首、切腹、磔、火炙り、釜茹で、鋸引き、牛裂きと云った方法もあったが、明治15(1882)年の刑法制定以来絞首刑のみとなっている(例外:陸軍・海軍内では銃殺刑という方法が採られた)。
 一方、海外の死刑存置国では絞首刑以外に銃殺、薬殺、電気椅子、ガス殺等があり、サウジアラビアなどには今も斬首刑がある。
 では何故現代日本では絞首刑一択となっているのだろうか?

 正直、その詳細な所以を俺は不明にして知らない。ただ分かっているのは明治初期の文明開化時に西洋諸国に対して文明国として振る舞う為、前時代的な仇討ちカラー・侍カラーが薄れていったことで、死刑執行方法を初め、残虐性も薄めようとの傾向が生まれたことである。
 勿論そこには死刑執行に際して死刑囚を極力苦しめないことで執行人の精神的な負担を軽減させることも考慮された。
 現行の絞首刑は落下の衝撃で頸椎が破断され、死刑囚はその瞬間に意識を失い、ほぼ即死に近いらしい。詰まる所、死刑囚をいたずらに苦しめないことで残虐性をなくすのが目的だろう。フランスにてフランス革命後に考案・発明されたギロチンが死刑囚を即死させることで執行人の(様々な)負担を軽減させようとしたのは有名な話だ。

 だが、俺はこの現行に異を唱える。
 「もっと、苦しめろ。」というのが俺の意見だ。
 何せ、俺個人の価値観で云わせれば、実際に死刑囚になる様な奴の罪状はそ奴等の命を一つ二つ差し出したところで全く間尺に合わないほど凶悪で、無期懲役囚すら死刑に匹敵する。つまり、死刑に処される様な輩が絞首刑等と云う苦痛が一瞬で済む様な方法で処刑されることすら「生温い!」と思っている。

 勿論、死刑が免れ得ぬ程の重罪を犯した者だって、その罪の背景が千差万別であることは理解している。殺人を犯した者の中には罪悪感を欠片程も持たず、ただただ私利私欲で人々を惨殺した者もいれば、(何らかの弱みを握るなりして)脅されたことで殺人に従事することを余儀なくされた、悔悛の情の深い者達もいよう。
 それゆえ、俺は死刑執行方法を複数用意し、罪状に応じて分けるべき、と考えている。



 一例を挙げれば、オウム事件で教祖の命令に逆らえず、心ならずも大量殺戮に手を染め、被害者への謝罪の念の強かった中川智正、洗脳が説けた直後に罪を自覚して再審請求も行わず死刑を受け入れた土屋正実辺りは薬物注入辺りの苦痛の少ない執行方法を取り、最後まで罪や責任を認めず、詐病で惚け倒した麻原彰晃や、事件を「救済だった。」とほざき続けた新実智光辺りは火炙りや釜茹でで徹底的に苦しめてやりたいと考えていた。


↓凶悪過ぎる死刑囚への執行方法はこれもありかと↓




 真面目な話、死刑執行方法が「多大な苦痛を伴うもある。」となれば、宅間守金川真大のような、「死刑になりたくて事件を起こした。」等と云うふざけた奴の出現をかなり抑えられるのではないか?と思っている。
 まあ、ここまでの残酷刑を用いずとも、現行の絞首刑だって「充分恐ろしく、多大な苦痛が伴うもの」との認識が世間に浸透していれば、死刑制度に抑止力が見込まれると俺は考える。
 宅間金川の様な奴が出るのも、ざっくばらんに云えば死刑が舐められているからとしか思えない(←この文章を綴っている途中である令和3(2021)年10月31日にも東京都の京王線車両内で「死刑になりたい。」という動機で15人を刺したり、火をつけたりした馬鹿が現れた!!)。

 また、遺族感情としても、「絞首刑ごときであっさり逝かせるなんて許せない!」と思っている方々も多かろう。幸いにして身内や友人に凶悪犯罪の犠牲者がいない俺がこう思うぐらいだから、遺族の中には仇である死刑囚を凌遅刑 (※かつての中国で行われた罪人を寸刻みにして時間を掛け、苦しめて死に至らしめる処刑方法)にしたい気持ちでいる人も充分存在し得るだろう。

 殊に洗脳で一家を家族間で長きに渡って虐待・殺害し合わせ、その遺体を完膚なきまでに解体処理させてまるで悪びれない松永太や大阪・愛知・岐阜で強盗・リンチ殺人を繰り返したクソガキ3匹などを絞首刑で一瞬の苦しみで逝かせるなんて生温いにも程がある。
 武士の世も、軍人の世も終わった令和の世で公開処刑や、遺体を朽ち果てるまで晒す様な処置を望まんが、「極力苦痛を感じさせない方法で逝かせる」か、「心底後悔し、それでも逝けない事への苦痛を徹底的に味わわせる」の二択はあっても良いと真剣に思う。

 この論に対して、俺を「残虐人間!」と罵りたい人は御随意に。
 俺とて良心と邪心を併せ持つ人間で、極悪人相手とはいえ残虐性が有るのは否定出来ないから、罵倒は甘んじて受けるが、一つだけ反論しておきたい。

 「この俺をして残虐刑を求めしめる凶悪犯の方が遥かに残虐な輩である!」

 と。

 最後に、こんな暴論を云っておいて何だが、上記の方法が採られる可能性は皆無と言って良い。勿論足枷になるのは憲法だ。

日本国憲法第三十六条
 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。

 とある。
 勿論、死刑廃止派は囚人を死に至らしめる時点で死刑を「残虐な刑罰」とし、「憲法違反!」と叫んでいる。
 実際、昭和21(1946)年9月16日に広島県で起きた殺人事件の裁判に際して、死刑制度が合憲か違憲かが争われ、昭和23(1948)年3月12日に最高裁判所大法廷にて
 「死刑制度は憲法第三十六条で禁止された『残虐な刑罰』には該当せず、合憲である。」として被告は尊属殺で死刑が確定した。
 この裁判での死刑を巡る「残虐性」についてもう少し詳しく触れると、

 「刑罰としての死刑そのものが、一般に直ちに同条にいわゆる残虐な刑罰に該当するものとは考えられない。ただ死刑といえども、他の刑罰におけると同様に、その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから、将来若し死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、まさに憲法第三十六条に違反するものというべきである。」

 と言及されていた。
 つまり、絞首刑は(少なくともこの時点では)「残虐」とされなかった訳だが、将来的な見地で「残虐」とされる可能性は否定されず、同時に俺が上述した様な凶悪極まりない死刑囚に即死を許さずに課すべしとした処刑方法は名指しで「残虐」と認定されている。
 云うまでもないが、すべての法律は日本国憲法に反することを(建前上)許されない。この事件で被告が死刑になる要因となった尊属殺も、後に日本国憲法が定めている「法の下の平等」に反するとして、現在では刑法から消えている。

 要するに、俺が主張するような残酷刑を為す為には憲法改正が必須となる。
 だが、俺は現時点で憲法改正には消極的だ。いずれは完全に日本人の為のものとして憲法改正は為される日が来ると思っているが、現状で憲法が改正されれば、日本は間違いなく今より戦争を行い易い国になってしまう(「軍事力を整えた方が戦争に巻き込まれないんだよ!」と叫ぶ方々は、世界最大の軍事力を持つアメリカ合衆国が如何に戦争と無縁でいられないかを鑑みて欲しい)。
 そしてそれ以前の問題として、アメリカ様の御都合で憲法解釈が変わることのない体制が整わない限り、真に日本人の為の憲法にはなり得ない(どんなによく出来た条文でも頼りにならないという事だ)。

 よって俺の暴論は「机上の空論」の域を出ない。また、実現したとしても、それこそそんな残虐刑を執行する刑務官の心の痛みを思えば、本当に暴論だと思っている。
 結局、現行日本国憲法の元ではどんな凶悪犯でも絞首刑にするのが最大刑罰になってしまうのだが、死刑に携わる方々は死刑囚の罪状は絞首刑が生温いものであることを認識して死刑を躊躇わない(それが無理なら恥じない)で頂きたい。
 そして死刑廃止論者には、宗旨替えしろとは云わないが、凶悪犯罪の被害者遺族は貴方方が忌み嫌う死刑以上の苦しい目に遭わされて怒り、悲しみ、苦しんでいることを忘れず、被害者に対する思いやりを持って、被害者へのケアを可能な限り充実させた上での死刑廃止を主張して欲しい。
 少なくとも被害者遺族の死刑囚に対する怒りは、貴方方の死刑に対するそれの非ではないぐらい甚大なのだから。



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令和三(2021)年一一月三日 最終更新