死刑執行の問題五 冤罪問題との対峙

考察1 再審請求とどう向き合うか
 過去作『リトルボギーの死刑廃止論』でも触れたが、死刑確定後に再審請求を行っている者は呆れる程多い。確定した罪に対して「冤罪」を訴える者が却下されても再審請求を続けるのはまだ分からないでもないのだが、中には罪を認めながら「量刑不当」として死刑を拒否して再審請求を繰り返す者や、「真実を明らかにする」と云う訳の分からん理由で再審を請求する者までいて、「執行逃れ」との非難を浴びせる者は俺だけではない。
 ただ、再審請求の意義を考えれば、本来なら決着がつく迄執行を見送るのが筋だとは思う。それ故この問題も難しい。

 腹立たしいことに、麻原彰晃の弁護を務め、死刑確定後も死刑回避に努めていた弁護士は再審請求の繰返しを、死刑執行を阻止する手段として用いていたことを公言していた。正直、執行逃れ目的の再審請求が公然と為され過ぎているから昨今は再審請求中を無視した執行も散見されるようになったと思われてならない。
 勿論個人的には再審請求濫用による執行逃れが罷り通らなくなることは歓迎するのだが、それによって本当に再審を要する案件迄無視して執行されるようになるのではないか、との懸念はある。

 結局のところ問題は再審請求が簡単に(それも同じ理由で)為され過ぎで、その再審請求に対して死刑執行がどうあるかの方針が明確化されていないからであろう。
 過去作でも触れたが、死刑廃止派は冤罪問題を死刑に反対する材料としていの一番に提示するが、冤罪の疑いようが全くない案件でも結局は死刑に反対する。この問題はむしろ死刑存置派の方が重視すべきと思っている。正当な死刑執行を主張し、全うする為にも、冤罪の疑いがある案件は存置派こそが声を挙げるべきと考える。
 故に冤罪問題を解決するための最終手段である再審請求に対してはその意義を重んじつつも、余りに軽々しい、余りに手段が目的化している、余りに露骨な時間稼ぎでしかない再審請求をしっかりとした論拠を持って退け、本当に肝要な再審請求にはしっかりと目を向けるべきである。



考察2 本当に冤罪が疑われる案件は急げ!
 かように個々の案件に対する賛否は別として再審請求は大切な手段である。それが死刑執行を巡って悪いイメージを持たれているのは、再審の重要性が世に浸透していないからでは?と俺は考える。
 死刑廃止論者は死刑執行に対して、「冤罪だったら取り返しがつかない。」として反対する材料の一つとしており、戦後再審で死刑から生還した例を挙げるが、その例は僅かに4件で、膨大な数出された再審請求にあって本当に稀有である。

 そんな数の暴力の前に、ますます再審請求は白眼視されている。死刑囚が再審請求する度に、「どうせ無駄なのに死刑を免れたい一心で往生際悪い真似しやがって………。」という邪推を抱かれ易い。
 そしてこんな有様だから、再審請求する側も一度や二度却下されるのを当たり前の様に捉え、既に却下された「証拠」を平気な顔して何度も持ち出して来る。このことも再審請求のイメージを悪くしていることだろう。
 質の悪いことに大半の死刑囚はかかるイメージ通りの再審請求をしている上、司法は一度下した裁定を覆すことへの腰がとんでもなく重いから、様々な証言や裁判経過からも冤罪がほぼほぼ明らかな案件に対しても滅多なことでは再審が行われない。そのことも再審請求をして「無駄な悪足掻き」とのイメージを定着せしめていることだろう。

 司法界からの批判を恐れずこの際投げ掛けてやるが、

 基本、再審請求に応じる気ないだろう?

 と
 正直、司法界全体で如何なる判決であれ「三審を経て下された判決を覆すこと」=「過去の裁定に間違いが有ったと認めること」を妙なプライドで邪魔しているとしか思えないし、それでも冤罪の疑いが濃い死刑囚を死刑執行した後に動かぬ証拠が出て来て「無実の人を殺した!」と非難されることを恐れ、生かさず殺さず死刑囚が獄死するのを待っているとしか思えない案件が幾つもある。

 それゆえ、司法が過去の捜査における誤り、証拠とされた物(あやふやな記憶による証言・低精度だった頃のDNA鑑定結果)の薄弱さ、人間故に誰しもが誤りを犯す可能性等と真摯に向き合い、妙なプライドに囚われず冤罪の疑いが濃厚な案件への再審をしっかり行えば、それとは逆に証拠に値しない「証拠」を何度も持ち出して「取り敢えず執行さえ逃れれば……」的になされる再審請求を堂々と切り捨てて、姑息な執行逃れを許さない断固たる死刑執行が為せると俺は考えるのである。



考察3 冤罪執行と向かい合う覚悟はあるか?
 過去に再審請求で冤罪であったことを認められ、死刑囚から無辜の市民に返り咲いた例は本当に僅かである。それ故既に死刑執行された案件に対しても「あれは冤罪だった!」と叫ばれるケースはあるし、実際に含まれていることを完全否定することは誰にも出来ない(完全立証も為されてはいないが)。
 また「無実の者を殺した!」との非難を恐れて、死刑執行を行わないままに獄死させた例も枚挙に暇がない。

 実に見苦しい。

 万が一にも、「無実の者を殺してしまうのでは?」との不安から死刑執行を躊躇うのを悪いとは云わない。大事な事だ。だがそれならそれで再審に応じるなりして事の正否を再確認すべきなのに、かかる行動を起こすことに司法は及び腰だから、「再審もせず、執行もせず」という万人がやきもきするだけでしかない状態が延々と続く。
 偏に司法が「落ち度や過失を認めたくない………しかし万一冤罪が明らかになった時の非難を浴びたくない………。」という考えに凝り固まるからだ(←これに反発するなら再審を受け入れるべき案件をきちんと受け入れろと云いたい)。

 では何故にこうも司法のしょーもないプライドに再審も執行も邪魔される状態が続くのか?
 推測するに、死刑判決を下した結果が、再審によって「無罪でした!」となった際の責任の取り方が曖昧だからだろう。一応、無実の人間を有罪とし、名誉と時間を失わせたことに対して国家補償が為されるが、早い話金で解決を図るもので、例え億兆の金額を積まれたところで埋められないのは誰の目にも明らかである。実際、それ程の金額も出ないし、出し渋るし。
 まあ、はっきり云って、殺人者が完全に責任を取ったり、償ったりするのが不可能な様に、無実の人間を処刑に処した場合に国家が何をしたところでその個人及び遺族が完全に納得出来る何かが出来る訳ではない。

 だが、忘れないで欲しいのは死刑囚が冤罪だった場合、逮捕もされず、裁かれもしない真犯人がどこかに存在するのである。そして間違った判断をした警察と検察と裁判官がいるのである(死刑執行を命じた法務大臣を責める人もいると思うが、法務大臣は裁判記録から死か判断が出来ないので、ここでは除外する)。
 だが、死刑囚の冤罪が発覚しても、時間的な問題から真犯人は捕まらず、(結果的に)誤認逮捕した警察、無実の人を起訴した検察、誤判を行った裁判官が罪に問われることも無ければ、過去の冤罪事件に真摯な謝罪をした話も聞かない。
 逆を云えば、かかる責任を直視し、万一冤罪で死刑執行した際に断固たる処置を取る程の覚悟と決意が有れば、慎重でも断固たる死刑執行が為せると俺は考える。
 一例を挙げれば、死刑執行後に冤罪が明らかになり、その有罪と判断されたときの証拠が警察による捏造であったなら、捏造に関わった警察官を死刑に処す程の体制が有れば馬鹿な捏造やでっち上げはかなりの確率でなくせると思われるのである。


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令和三(2021)年一一月三日 最終更新