第参頁 井戸平左衛門正明…………救荒作物・芋に懸けた命

名前井戸平左衛門正明(いどへいざえもんまさあきら)
生没年寛文一二(1672)年〜享保一八(1733)年五月二六日
職業代官
通称・尊称芋代官・芋殿様
対抗した飢饉享保の大飢饉
飢饉対抗手段サツマイモ栽培普及
略歴 寛文一二(1672)年に御徒役・野中八右衛門重貞の子として江戸に生まれた。  元禄五(1692)年に井戸平左衛門正和の養子となり、元禄一〇(1697)年に表火番になったのを皮切りに御勘定、大森代官(石見銀山の代官)と昇進を重ね、笠岡代官も兼務した。

 井戸平左衛門正明が還暦にして大森代官となった享保一七(1732)年、享保の大飢饉が発生。領内の窮状を目の当たりにした平左衛門は領民達を救う為、幕府の許可を待たずに年貢の減免、年貢米の放出、官金や私財の投入等を次々に断行した。
 同年四月、任地の大森(現・島根県大田市)・栄泉寺で、薩摩の僧・泰永から甘藷(サツマイモ)が救荒作物として適しているという話を聞き、種芋を移入。その年の収穫には失敗したが、共に栽培に挑んだ邇摩郡福光村(現・大田市温泉津町福光)の農民・松浦屋与兵衛が収穫に成功した。
 この成功により、甘藷は石見地方を中心に救荒作物として栽培されるようになったが、平左衛門自身は翌享保一八(1733)年五月二六日に備中笠岡の陣屋で死去した。井戸平左衛門正明享年六二歳。

 死因は、救荒対策の激務から過労による病死説と、救荒対策の為とはいえ幕府の許可を待たずに独断で事を運んだことを咎められての切腹説がある。


飢饉に直面して 前述した様に、井戸平左衛門が大森代官となったのは還暦になってからだった。随分遅咲きに見えるが、大森は江戸幕府が直轄地とした石見銀山を統べる要地で、その代官に就任することは大変な出世だった。

 ここまで出世するには多少の狡猾さや世渡りの上手さに長けた人物でなければ難しいところだが、平左衛門は極めて真面目に領民に接した。就任するや貧農の姿にいち早く注目し、彼等の衣食住が江戸のそれと比較してかなり粗末なものだったことに驚き、村々を歩き回り、彼等の陳情に耳を傾けた。
 勿論、いの一番に飛んできたのは年貢の軽減で、日照りが、害虫による不作、年貢を納めるのがやっとで、一粒の米も口に出来ない現状、飢え死に寸前の子供・年寄りの声に平左衛門は愕然とするしかなかった。

 だが、だからと云って独断や感傷で年貢を減らすことが出来れば誰も苦労は要らない。思い悩んだ挙句、平左衛門が最初に考え付いたのは豪商からの寄付を募り、それを資金に飢えたる民を救わんとするものだった。
 だが、これは分に書くほど簡単な話ではなった。見返りの無い寄付に応じる商人が少ないのもそうだが、それ以前の問題として、「士農工商」と呼ばれた身分制度で四民の最下位とされ、卑しい身分とされていた商人に武士が頭を下げるのは非常に邸際の悪い話だった。

 だが平左衛門は人々を救う為にしょーもないプライドに捉われる人間ではなかった。

 彼は代官所に商人達が呼び集め、「皆も知っての通り、ここのところ凶作が続いて、米の収穫も殆ど出来ず、農民の中には飢えに苦しみ、餓死する者も出ておる。このまま、農民達の苦しみを見過ごすことは出来ぬ。心有る者は手を差し延べて欲しい。」と農民達の苦境を誠心誠意訴えた。
 その平左衛門の農民を思いやる心は商人達を動かし、寄付金が集められた。平左衛門は集まったお金で、米を買い、農民に分け与えた訳だが、これは立派な善行には違いなかったが、一時しのぎにしかならなかった。

 勿論平左衛門自身そのことは深く承知で、他の手を打つ必要性を感じていた。そんな中彼が出会ったのが栄泉寺の泰永だった。泰永は諸国行脚の途中で、村人の間でも徳の高い立派な僧侶として通っていた。
 平左衛門は代官職務の多忙さにかまけて先祖供養もしていなかったので、泰永を招いて供養を依頼すると、終了後に農民達の貧しい暮らしぶりや、それを救う手立てがなく、思い悩んでいる苦しい胸の内を吐露した。
 平左衛門の真剣な話し振りに聞き入り、自身同地の貧しさを目の当たりにしていた泰永は行脚の途中で立ち寄った薩摩で見たカライモ(甘藷)が、栽培も容易で、米より遥かに収量面でも優れていて、その御蔭で飢饉の時でも、飢死者の発生を最小限に抑え込んでいることを話してくれた。

 勿論困り果てていた平左衛門にとって渡りに船とも云える話で、早速、幕府に願い出て、薩摩から種芋を取りよせることにした。代官という役目柄、幕府を無視して事を運ぶ訳にはいかなかったし、実際、遠い薩摩から石見・備中にまで種芋を取り寄せるのに国家権力を頼れるか否かは大きかった。

 問題は御役所仕事に見られる腰の重さにあった。
 平左衛門は何とか種芋を入手し、農民達に分け与えて栽培させることが出来たが、彼の伝手では詳しい栽培法までは入手出来ず、せっかく植えた種芋も、なかなか根つかず、殆ど腐らせてしまう有様だった(サツマイモは確かに日照りや病虫害に強いが、元々南方の植物ゆえに寒さには弱かった)。

 そしてそうこうしている内に享保の大飢饉が襲来した。
 西日本一帯では、夏からの長雨に続いて、稲の天敵・ウンカ(一〇匹いれば稲一本分の汁を吸い尽してを枯らせてしまう)が大発生した。夏に発生したセジロウンカは翅が短く、何とか駆除できなくもなかったが、収穫直前に秋に大発生したトビイロウンカは翅も長く、これには打つ手がなく、稲作は壊滅的な打撃を受けた。
 飢饉の年以前から満足に食えなかった農民達の中には飢え死にする者も続出した。そんな中、平左衛門の尽力した甘藷栽培は一つの光明だったが、差し迫った現状を救うには今しばらくの時間を要した。

 かくして平左衛門は重大な決意をするに至った。
 それは代官所の米蔵解放で、それも昨年度から幕府に納める為にしまわれていた年貢米を大解放することだった。
 勿論幕府の許可なき状態である。恐らく平左衛門とて喜んで幕命を無視したかった訳ではなかっただろう。状況が幕命を待てない程逼迫していたからだろう。
 井戸正明の想いは、
 「蔵の中にある年貢米を、すべて農民達に分け与えよう。いや、そればかりでは、この飢饉をのりきることは出来ない。今年の年貢米を一切取り立てない様にしなければならない。
 しかし、一代官の身でこの様な事が許されるのであろうか?やはり、幕府の命を待たねばならぬか?とはいうものの、日に日に増える餓死者を目の前にして、幕府の命令など待ってはおれぬ。我が身の心配より、まずは餓死を食い止めることが先だ。」

 とのことだった。

 配下の者の中には平左衛門の身を案じて、せめて幕府の命令が届くまで待つべきだと述べる者達もいたが、平左衛門に迷いは無く、「そち達に、迷惑は及ばぬよう、すべての責任はこの私が取る。」という強い態度に出た。勿論これには役人達は従う他なかった。

 平左衛門の措置に大森の住民達は驚喜した。だが平左衛門の取った行為は、事の是非はどうあれ、政治的に代官として独断専行且つ越権行為に他ならなかった。
 享保一八(1733)年、平左衛門は大森代官の地位を剥奪され、備中笠岡陣屋に謹慎することを命じられた。そして同年五月二六日、正式な処分が下る前に平左衛門は世を去った。
 前述した様に、その死は自ら責任を取って切腹したものとも、農民達の為に東奔西走した果ての過労とも云われている。だがそのいずれが正しいにしても、井戸平左衛門が飢え苦しむ領民達を救う為に命を削って尽力したことに疑いの余地はない
 そしてその平左衛門の命懸けの尽力が実ったかの様に、彼が薩摩から取りよせた甘藷の多くが腐る中、松浦屋与兵衛という農民が栽培に成功。平左衛門の死後、与兵衛は寒い地方でも育つ甘藷の栽培法が見つかり、石見を中心にして近隣の村々へと広がっていったのだった。


後世への影響 井戸平左衛門の尽力が人々に感謝されない訳がなく、多くの人々が感謝の念と共にその名を胸に刻んだ。同時に彼は奨励したサツマイモに因んで「いも代官」と呼ばれ、親しみ且つ慕われた。松の廊下で斬られかねない「いも侍」とはえらい違いだ(←道場主「何の話だそれは?」)。

 更に領民達は富益神社(現・鳥取県米子市)の境内を初め、中国地方一帯に平左衛門の供養塔や顕彰碑を建て、感謝の気持ちを表したが、それ等の数は数百基に昇ると云われている。

 近代に入ってからも、明治五(1872)年には、大森に、井戸神社が建立され、戦後になってからも、昭和五二(1977)年には杉本苑子が毎日新聞に平左衛門を題材とした文学作品『終焉』を連載し、平成二(1990)年四月一四日、平左衛門が代官を務めた所縁の地、島根県大田市と岡山県笠岡市が友好都市縁組に調印した。
 平左衛門が代官を務めた地の住民達がその感謝を子々孫々に伝えればこそであろう。


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令和三(2021)年六月七日 最終更新