第肆頁 青木昆陽…………サツマイモ普及の大功労者

名前青木昆陽(あおきこんよう)
生没年元禄一一(1698)年五月一二日〜明和六(1769)年一〇月一二日
職業学者(儒学、蘭学)
通称・尊称文蔵、甘藷先生
対抗した飢饉享保の大飢饉
飢饉対抗手段サツマイモ栽培普及
略歴 元禄一一年五月一二日、江戸日本橋小田原町にて、魚屋・佃屋半右衛門の一人息子として生まれた。名は敦書(あつぶみ)。

 浪人として京都の儒学者である伊藤東涯の古義堂に入門して儒学を学んだ。その後懇意にしていた江戸町奉行所与力・加藤枝直の推挙で享保一八(1733)年に有名な江戸南町奉行・大岡忠相に取り立てられた。
 これにより幕府書物の閲覧を許されるようになり、享保二〇(1735)年に甘藷の特性・栽培方法を記した『蕃薯考』(ばんしょこう)を発表した。

 その後、八代将軍・徳川吉宗から、救荒作物として西日本で知られていた甘藷の栽培を命じられ、小石川薬園(現・小石川植物園)、下総千葉郡馬加村(現・千葉市花見川区幕張)、上総山辺郡不動堂村(現・千葉県山武郡九十九里町)とで試作した(このことから享保の大飢饉以降、関東地方や離島においてサツマイモの栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救うこととなった)。

 元文元(1736)年、昆陽は薩摩芋御用掛を拝命。三年後の元文四(1739)年に御書物御用達を拝命するとサツマイモ栽培から離れ、また、幕臣となった。そして大岡忠相(←当時寺社奉行)の配下に加わり、古文書の収集・調査・研究に務め、家蔵文書の重要性を説き、保存を諭した。
 その後、評定所儒者となりオランダ語の習得に努めた。その弟子の中には『解体新書』で有名な知られる前野良沢もいた。
 明和四(1767)年書物奉行となったが、二年後の明和六(1769)年一〇月一二日、流行性感冒により死去、青木昆陽享年七二歳。


飢饉に直面して 青木昆陽が甘藷の栽培を関東に根付かせたことにはこれを疑問視する声もある。昆陽が馬加村・不動堂に出張したのは年間勤務数一一七日の内、僅か七日で、実際は養生所の作場への出勤が主で、殆ど現地に出向いていないことが根拠とされている。

 また、昆陽以前にも関東に甘藷を根付かせようとした人物が複数確認されている。関東郡代・伊奈忠逵が、甘藷栽培が試みられており、それ以前に下総銚子経由で薩摩芋の栽培法が、関東にもたらされていたという文献がある。
 昆陽が忠相に推挙されたのは享保一七(1731)年だったが、その前年に幕府では既に甘藷の救荒作物としての有効性を認識し、栽培を実験・奨励していたとも考えられる。

 だが昆陽の施策は幕府の正式な命令で町奉行が行った本格的な試作で、『蕃薯考』の出版が栽培の普及を頒布させ、「公式な栽培実績」が出来たことで、甘藷を幕府が救荒作物としてより本格的に考えるようになったことは確実である。それゆえこの試作が、薩摩芋の関東への普及にとって画期的な事件であったと位置づけられている。

 そうこうする中で享保一八(1732)年に享保の大飢饉が発生した。この飢饉は西日本の被害が大きかったので、昆陽によって普及しかけた甘藷が直接多くの人々を救ったという記録は見られない。
 だが享保の改革の一環でもある昆陽の救荒作物・甘藷普及が後世多くの人々を救ったのは明白で、飢饉に対処するのも立派な善政だが、飢饉前から飢饉時の食糧を確保出来る政策はより優れた善政と云えよう。


後世への影響 本作で採り上げている面子の多くは飢饉が起きたことに対して事態に面した対応を行った者達であるのに対し、青木昆陽は起きる前からの対策に務めた者である。戦争に例えるなら「戦術」より「戦略」に務めたと云えようか。

 昆陽の墓所である瀧泉寺(現・東京都目黒区下目黒)には甘藷先生之墓」と大書されている。甘藷の試作が行われた幕張では昆陽神社が建てられ、昆陽芋神さまとして祀られ、九十九里町には「関東地方甘藷栽培発祥の地」の碑が建てられている。

 昆陽の業績に否定的な者に佐藤信淵(さとうのぶひろ)という江戸後期の学者がいる。佐藤はその著書『草木六部耕種法』の中で、昆陽の甘藷栽培法を「疎放なる作法」と批判し、昆陽の種芋を直接地面に植える方法に対して、高温多湿な苗代を作り早い時期に収穫する方法を紹介した。
 この方法は、最近まで関東各地で行われていたほど近世後期の関東地方に根付いた栽培方法だった。確かに後発ということもあって、佐藤の方法の方が優れていたのだろうけれど、その様な批判が生まれたこと自体、昆陽の功績にして、多大なる影響を残した証左といえよう。
 勿論、昆陽に前後して、救荒作物・甘藷に取り組んだ多くの人々(有名無名を問わず)すべての尽力・功績は尊ばれるべきなのも間違いない。


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令和三(2021)年六月七日 最終更新