第伍頁 上杉鷹山…………救ったのは米沢藩のみにあらず

名前上杉治憲(うえすぎはるのり)
生没年寛延四(1751)年七月二〇日〜文政五(1822)年三月一一日
職業米沢藩第九代藩主
通称・尊称直丸、鷹山
対抗した飢饉天明の大飢饉
飢饉対抗手段非常食・代用食の奨励。常日頃からの質素倹約
略歴 寛延四(1751)年七月二〇に日向高鍋藩主・秋月種美の次男として、春姫(筑前秋月藩主・黒田長貞の娘)を母に高鍋藩江戸藩邸で生まれた。幼名は松三郎(まつさぶろう)。
 母方の祖母が米沢藩第四代藩主・上杉綱憲の娘であったことから、一〇歳の時に米沢藩の第八代藩主・上杉重定(綱憲の孫で、春姫とは従兄弟)の養子となった。

 宝暦一〇(1760)年、上杉重定の養子となったのに伴って桜田の米沢藩邸に移り、直松(なおまつ)と改名した。明和三(1766)年に一六歳で元服し、上杉勝興(うえすぎかつおき)と称した。程なく、第一〇代将軍・徳川家治に謁見し、「」の一字を偏諱として授かり、上杉治憲(うえすぎはるのり)と改名。
 翌明和四(1767)年重定より譲られて上杉家の家督を継いだ。二年後の明和六(1769)年、又従妹の幸姫(養父・重定の娘)を正室に迎えた(ちなみに側室のお豊の方も綱憲の孫娘で、上杉家の者だった)。

 家督相続と同時に上杉家の負の遺産(二〇万両の借金。現代の通貨に換算して約一五〇〜二〇〇億円)も相続することになった治憲。加えて上杉家は始祖・景勝の代に関ヶ原の戦いに敗れて一二〇万石から三〇万石に大減封されながらリストラを行わなかったことから人件費だけでも当初から苦しい状態にあった(しかも治憲就任時には一五万石に減っていた)。
 宝暦三(1753)年に寛永寺普請による出費、宝暦五(1755)年に藩内の洪水を食らった養父・重定の代に藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えられたことがあった程逼迫していた。
 この難局に治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱、財政に明るい莅戸善政を重用。先代が任命した家老達と厳しく対立しつつも、一五〇〇両だった江戸での生活費を二〇九両余りに減額し、奥女中を五〇人から九人に減らす等して節約・倹約に努めた。もっともこの倹約ゆえに幕臣への幕府からの普請命令を免れる為の賄賂運動費が捻出出来ず、明和六(1769)年に江戸城西丸の普請手伝いを命じられる羽目に陥ったりもした。

 天明の大飢饉時には自らも粥を食して倹約を行った。また、曾祖父・綱憲に習って、閉鎖されていた学問所を藩校・興譲館(現・山形県立米沢興譲館高等学校)として再興し、身分を問わず藩内に学問を奨励した。

 だが難局は続き、安永二(1773)年六月二七日、改革反対派の藩重鎮達が、改革中止と改革推進の竹俣当綱とその一派の罷免を強訴した。治憲はこれを退け、種々の改革を断行し、藩財政は破綻寸前から立ち直り、莫大な借金は次々代の斉定時代に完済するに至った。

 天明五(1785)年、家督を養子・治広に譲って隠居。治広は前藩主・重定の実子で、治憲が重定の養子になった後に生まれた。謂わば、上杉家の元の家系に藩主の座を返上した形になったが、例によって後継藩主を後見し、生涯に渡って藩政を実質指導した。
 隠居に際して治憲「伝国の辞」として治広に三ヶ条からなる藩主としての心得を伝えた。その内容は、藩を先祖から子孫へ伝えられるものとして私物化しないこと、領民を藩に属するものとして私物化しないこと、藩と領民のために存在・行動するのが藩主、藩と領民が藩主のために存在・行動するのではないことを忘れない様に、と諭した物で、この「伝国の辞」は、上杉家において明治に至るまで家督相続時に家訓として伝承された。

 享和二(1802)年、剃髪し、米沢藩北部にあった白鷹山(しらたかやま:現・山形県西置賜郡白鷹町)に因んで鷹山(ようざん)と号した。
 二〇年後の文政五(1822)年三月一一日早朝、疲労と老衰で睡眠中に死去。上杉鷹山享年七二歳。墓所は米沢市御廟の上杉家廟所で、初め上杉神社に藩祖・謙信と共に祭神として祀られ、明治三五(1902)年に建立された摂社松岬神社に遷された。


飢饉に直面して 世の国政を執る者が性悪で、しかもそれを抑える術を知らないものだったら、統治される側は堪ったものではない。だが、人が良過ぎて非情の決断が出来ない政治家もそれはそれで困ったものである。その点、上杉鷹山は人格者でありながら、時に強権発動を良い意味で辞さなかった。

 鷹山の藩政改革は、前後の二期に分かれる。
 前期では重定の寵臣で専制的な森平右衛門を粛清して竹俣当綱をリーダーとする産業振興に重きが置かれた。後期では莅戸善政を隠居状態から戻してリーダーに据え、財政支出半減と産業振興を図った。特に好奇の改革は寛三の改革と呼ばれ、名高い。
 そしてその中には飢饉対策もあった。

 鷹山がまだ三歳だった宝暦三(1753)年、宝暦の飢饉が発生し、米沢藩では多数の領民が餓死し、逃亡した者も少なくなく、以後七年間に九六九九人の人口減があった。
 このことを知っていた鷹山は、非常食の普及に努めていた。中でもユニーク且つ使い勝手が良かったのがウコギである。

ウコギ

 ウコギはウコギ科ウコギ属の落葉性小低木で、滋養強壮・強精・腹痛・インポテンツ・リューマチ・冷え症・小児の発育不良に効能有る山菜で、若葉は食用で苦味があるが、高温の湯や油で調理して現在でも食べられており、特に根の皮は五加皮という滋養強壮剤の原料として名高い。鷹山はこのウコギを家屋の垣根とすることを奨励していた(葉は棘が有り、防犯にも役立った)。

 そして天明三(1783)年、江戸三大飢饉の中で最大最悪の犠牲を出した天明の大飢饉が東北地方一帯を襲った。これに備えて米沢藩では九年前の安永二(1774)年より備荒貯蓄制度が進められており、これに即して飢饉時の事前・当事・事後の対応策が執られた。
 同年八月には救荒令により麦作を奨励。近隣他藩の中には米価の高騰による利益差を見込んで江戸への廻米に走るところもあったが、鷹山は越後と酒田から一万一六〇五俵の米(領内消費量の約九〇日分に相当)を買入れ、領民に供出した。
 これら数々の政策に加え、米沢藩の官民ともに質素倹約に慣れていたこともあって、天明の大飢饉においては、前述した様に鷹山も粥を食して節約に努めた。結果、天明三年からの七年間における人口減は、宝暦の飢饉時の半数以下である四六九五人に食い止められた。
 五〇〇〇人近い犠牲は決して少ない数ではないが、人口減のすべてが餓死者という訳ではなく、宝暦の飢饉よりも天明の大飢饉の方が全国的に深刻な被害が出たことを考えると、鷹山の対飢饉政策はそれなりの効果を上げていたことが分かる(米沢藩内に餓死者が出なかったとの説もあるが、それはさすがに信じ難い)。


後世への影響 物凄く有名な上杉鷹山の言葉に「生せば生る 成さねば生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬなりけり」というものがあるが、これは「弗爲胡成(為さずんばなんぞ成らん)」という『書経』に由来するもので、似た例として武田信玄も「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき」と云っていた。
 ともあれこの名言は前述の「伝国の辞」と共に代々の藩主に伝えられた。

 政治面で優れていただけでなく、鷹山は家族想いな人物でもあった。
 正室・幸姫は脳障害、発育障害があり、治憲と婚礼を挙げた一三年後に三〇歳の若さで世を去った不幸な女性だったが、治憲は彼女を邪険にせず、晩年まで雛遊びや玩具遊びの相手をし、仲睦まじく暮らした。
 隠居後に米沢にいて幸姫と顔を合わせてなかった重定は、幸姫の死後にそのことを知り、娘の遺品を手にして、不憫な娘への治憲の心遣いに涙したと云う。
 幸姫の健康状態から後継者が絶えることを恐れた重役達の勧めで婚姻翌年の明和七(1770)年)にお豊の方を迎えたが、教養が高く、歌道を嗜む彼女との治憲は仲睦まじく暮らし、二人の男児も生まれたが、残念ながら二人とも治憲・お豊の方よりも先に夭折し、治憲の血筋は途絶えている。

 また実父・養父に対しても孝養に務めた。
 天明七(1787)年に実父・秋月種美が危篤との報を受けると鷹山は江戸へ出立し、長者丸(現・品川区上大崎)の高鍋藩邸へ日参し、三〇日間看病を続けて臨終を看取った。
 その直後、江戸で服喪中に今度は養父の重定が重病との報があり、実父の四十九日法要後すぐさま米沢に帰国し、看病に当たった。
 この時は甲斐があって重定を快癒させたが、その看病は八〇日間に及び、重定が一時危篤状態に陥ったときには鷹山は数日間徹夜で看病したと云う。実際、三五歳の若さで隠居し、治広に家督を譲ったのも、治広の実父・重定を想ってのことと考えるのは薩摩守だけではあるまい。

 そんな鷹山「米沢藩中興の祖」として現在も米沢市民にも尊敬されており、歴代藩主の中で鷹山だけが「鷹山公」と敬称付けで呼ばれると云う。
 また鷹山は当時米沢藩で奸臣と見做されていた直江兼続(上杉景勝の側近)の二〇〇回忌法要に香華料を捧げ、その名誉を回復させた。昨今、『花の慶次』や大河ドラマの影響で高名を馳せている兼続だが、そこには鷹山による再評価が大きく関与していた。そして鷹山自身、施政の多くを兼続の事業を模範としていた。

 更に鷹山は我が国で最も古く公娼制度の廃止に取り組んだ人物でもあった。
 寛政七(1795)年公娼廃止の法令を出した際に、これ廃止すれば欲情の捌け口がなくなり、性犯罪が横行するとの反論も藩内にはあったが、鷹山は「欲情が公娼によって鎮められるならば、公娼はいくらあっても足りない。」としてこれを退けた。そして廃止しても何の不都合も生じなかったと云う。

 かかる事績を重ねた鷹山ゆえに、後世への影響も大きく、かつて知名度は低かったが、知る人ぞ知る人物だった。最後にそれに関する割と有名なエピソードをば。
 その昔、アメリカ合衆国大統領のJ・F・ケネディが日本人マスコミに「尊敬する日本史上の人物」を問われ、上杉鷹山の名を挙げたが、当時鷹山は今ほどに有名ではなく、マスコミの方が戸惑ったと云う。
 人格・能力共に優れた人物は知名度が低くとも、知る人ぞ知られるものと云えようか。


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令和三(2021)年六月七日 最終更新