第陸頁 松平定信…………評判下落の中の色褪せぬ功績

名前松平定信(まつだいらさだのぶ)
生没年宝暦八(1759)年一二月二七日〜文政一二(1829)年五月一三日
職業定綱系久松松平家第九代当主、陸奥白河藩第三代藩主、老中
通称・尊称楽翁、花月翁、風月翁、白河楽翁、たそがれの少将
対抗した飢饉天明の大飢饉
飢饉対抗手段余剰のある周辺藩からの米穀買い付け・配給。常日頃からの質素倹約
略歴 宝暦八(1759)年一二月二七日に田安宗武(徳川吉宗次男)を父に、その側室香詮院(山村氏)を母に、七男として生まれた。幼名は賢丸(まさまる)。
 七男とはいえ、宗武の男児は長男から四男までが早世しており、五男・治察(はるさと。母は正室)が田安家の後継者に内定しており、賢丸は同母兄の松平定国(宗武六男)共々宝蓮院殿(宗武正室)の養子となっていた。

 宝暦一二(1762)年二月一二日、田安屋敷が焼失。翌宝暦一三(1763)年には重病で危篤状態に陥り、一命を取り留めたものの病弱で多難な幼少期を送った。
 しかしその頃から聡明さを周囲に知られており、田安家を継いだ兄・治察が病弱且つ凡庸だったゆえに一時期は田安家の後継者と目された。
 また、本家である将軍家においても、第一〇代将軍・徳川家治に子が無かったことから、一一代将軍候補と目されたこともあった。

 だが、年端もゆかぬ身で田沼意次による政治を賄賂政治として批判したため政権主流部からその存在を疎まれた。そして意次の権勢を恐れた一橋徳川家当主・治済によって安永三(1774)年に久松松平家(始祖家康の生母の再婚先で、異父弟家系)の庶流で陸奥白河藩第二代藩主・松平定邦の養子に出された。
 定邦の養子となった後もしばらくは田安屋敷で居住しており、同年に兄・治察が嗣子なく死去したのを見計らって田安家の後継者にならんとして養子の解消を願い出たが許されなかった(以後、一橋家から養子を迎えるまで十数年間田安家は当主不在となった)。
 勿論このことは定信が意次を激しく憎むこととなった(その一方で定信は意次に賄賂を贈っていたのだが)。

 天明三(1783)年一〇月六日、養父・定邦から家督を譲られ、白河藩第二代藩主となった。その年は天明の大飢饉が起きた年で、定信はいきなり難治に直面したが、白河藩主として見事な手腕で藩内から一人の餓死者も出さなかった
 その手腕を高く評価された定信は天明六(1786)年に将軍・家治が逝去して田沼意次が失脚すると翌天明七(1787)年六月一九日に徳川御三家の推挙を受けて老中上座となり、勝手方取締掛と侍従も兼任することとなった。
 更に翌年の天明八(1788)年三月四日には将軍輔佐も兼ねた。その権勢を持って天明の打ちこわしを機に幕閣から旧田沼系を一掃し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革に着手した。

 その改革は一言でいうなら「田沼政治の否定」、別の云い方をすれば「先々代回帰」だった。田沼の重商主義政策、役人と商家による縁故中心の賄賂人事を排除し、厳しい倹約政策を中心とした飢饉対策、旗本への学問吟味政策等を次々と打ち出した。
 これ等の政策は清廉なもので、一応の成果を挙げたが、清廉過ぎた故に世評は芳しくなかった(「白河の清きに魚の住みかねて 濁れる田沼今ぞこひしき」との狂歌で揶揄されたのは有名)。

 田沼政治への報復的なカラーを抜きにしても、コテコテの朱子学徒だった定信は祖父・吉宗、始祖・家康の祖法にこだわり、「商は詐なり(商業は騙し)」とまで云って重商主義を嫌い、鎖国にこだわって海外に対して交易は愚か国防からも目を背けた。
 『海国兵談』を著して国防の危機を説いた林子平を処士横断の禁で処罰したり、蝦夷地開拓政策を中止させたり、寛政異学の禁で幕府の学問所である昌平坂学問所での正学以外は蘭学を初め徹底的に排除したりしたことは現代でも評判が悪い。
 但し、寛政の三博士の一人である古賀精里の子・侗庵及びその子・茶渓は昌平坂学問所に奉職しながら洋学・国際情勢にも通じていたし、定信が理想とした祖父・吉宗も非キリスト教系の実学的な物に限って洋書の輸入を受け入れていたので、一切の聞く耳を持たなかったとまでは思えない。

 実際、定信の老中在任中、ロシアの南下が無視できない状態になっていた。寛政四(1792)年、日本人漂流民である大黒屋光太夫等の返還を手土産に日本との通商を求めんとしてラクスマンが根室に来航した。
 翌寛政五(1793)年六月二〇日、定信は、光太夫とラクスマン一行を松前に招き、幕府として交渉に応ずるよう指示し、ロシアの貿易の要求を拒否しない形で、長崎のオランダ商館と交渉するようにという回答を用意し、また、光太夫を引き取るよう指示した。
 これは同胞である光太夫を引き取る為に相手の面子を潰さぬよう、承諾せず、拒否せず、巧みに回答を先延ばしした定信なりの交渉術でもあった。結局同年六月三〇日、ラクスマンは長崎へは行かずに帰路に就いた。
 その後、定信は江戸湾等の海防強化を提案し、朝鮮通信使の接待の縮小などにも努め、消極的ながら国防の為に海外に目を向けもした。
 だが同年七月二三日、定信は、海防の為に出張中、辞職を命じられて老中首座並びに将軍補佐の職を辞すこととなった。

 その背景には尊号一件があった。
 これは光格天皇が実父の閑院宮典仁親王に太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうとするのに定信が朱子学的見地から反対したものだった。だが、このために定信は将軍・家斉に嫌われることとなった。
 というのも、家斉は実父である一橋治済に大御所の尊号を贈ろうと考えていたからであった。治済は征夷大将軍に就いておらず、公武の違いはあれど「治済・家斉」の関係と「閑院宮典仁親王・光格天皇」の関係並びに尊号追贈の背景は非常に似通っており、閑院宮典仁親王への太上天皇の尊号を贈るのに反対すれば、治済に大御所の尊号を贈り辛くなってしまうことを意味した。
 この対立にて定信に激怒した家斉は小姓から刀を受け取って定信に斬りかかろうとしたと云う(御側御用取次・平岡頼長が機転を利かせて、「御刀を賜るゆえ、お早く拝戴なされよ。」と叫んで家斉を拍子抜けさせたので手討ちは免れた)。

 ともあれ、定信は老中引退に追いやられた。
 老中には定信派の者達が留任して、各種政策を引き継いだので、その政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されることとなり、定信は白河藩の藩政に専念した。
 白河藩は山間における領地のため、実収入が少なく藩財政が苦しかったが、定信は馬産を奨励するなどして藩財政を潤わせた。また、民政にも尽力し、白河藩では老中就任以前同様、名君として慕われたと云う。
 重農主義者ゆえに農村人口の拡大が農業生産性の向上に繋がると考えていた定信は間引きを禁じ、赤子の養育を奨励し、殖産に励んだ。

 文化七(1810)年、寛政の改革の折に定信が提唱した江戸湾警備が実施されることになり、最初の駐屯は白河藩に命じられることとなった。皮肉にも老中時代の提唱が白河藩の財政を圧迫した。
 そのことに疲れたのか、文化九(1812)年に定信は家督を長男。定永に譲って隠居。勿論藩政の実権は「以下同文」である(笑)。
 文政一二(1829)年一月風邪を患い、二月三日には高熱を発して重篤化した。そんな中三月二一日に火災が起き、松平家の八丁堀の上屋敷や築地の下屋敷である浴恩園、さらに中屋敷も類焼したため、定信は屋根と簾が付いた大きな駕籠に乗せられ、寝たまま搬送される形で避難した。
 この大掛かりな避難が道を塞ぎ、民衆が迷惑したのだが、ここから「松平家の家人が邪魔な町人を斬り殺した。」という噂が世上に流布し、他にも定信を中傷落首・落書が相次ぎ、彼を包茎と揶揄する落首が多数刷られてばら撒かれたが、寛政の改革で統制を受けた出版業界の報復であったとされる。

 そんな渦中に同族の伊予松山藩の上屋敷に避難した定信は四月一八日に松山藩の三田中屋敷に移り、一時は回復の兆しも見せたが、五月一三日に容体が急変し、息を引き取った。松平定信享年七二歳。


飢饉と直面して 天明の大飢饉に際して、藩主になったばかりの松平定信は凶作が明らかになり打ち壊しなどの事態が起き始めると、余裕のあった分領の越後から米を取り寄せ、また会津藩や江戸、大坂から米、雑穀などを買い集めた。加えて藩内の庄屋や豪農等からも寄付を募り、領民に配給した。
 日頃から定信は農民に開墾を奨励するなど重農主義を取り、町民に対しては自らも質素倹約を説いた。藩を挙げての対策が功を奏し、領民から餓死者は一人も出さなかった
 白河藩領民にとっては全くあり難い話だったが、この定信の功績に悪意的な意見の中には、「定信が徳川吉宗の孫で、御三卿出身だったゆえに幕府からの援助があったから。」としたり、「定信の買い占めの為に白河藩はそれで良かったかもしれないが、周辺他藩は苦境に陥った。」としたりするものもあるが、将軍からも、御三卿からも追われた彼が白河藩第一主義に走ったとしても、無理も問題もなかった。
 また、「徳川吉宗の孫」、「田安宗武の子」という血統が物を云ったものだったとしても、上から救われた領民にしてみればそんなことは些細な問題ですらなく、食えたことを只々感謝するのみであった
 悪い例と比べるのは適切でないかも知れないが、領民がいくら飢餓に陥ろうと、自分が飢える心配が無いことで危機感を感じず、手腕がありながら無策でいた者も少なくなかったのである。
 ともあれ、定信はこのときの功績と手腕が買われ、幕府老中に任ぜられることとなったのである。


後世への影響 松平定信は父・田安宗武に似て、文化人・教養人としての色合いも強く、著書は一〇〇以上あり、頼山陽を初め多くの学者との交流を持ち、白河藩に日本初の公園・南湖公園を造った人物でもある。

 父同様国学に造詣が深かったが、価値観は異なっていて、本居宣長を批判したこともある。その根本は学ぶだけでなく、それを元に自ら新流派を創出するほど凝り性だった性格にある。そのことは学問・文化だけでなく、武術にも表れていた。
 定信は武人としても優れ、起倒流柔術の鈴木清兵衛邦教の高弟にして、三〇〇〇人いたと云われる邦教の弟子の内最も優れた三人の一人が定信だった。柔術以外にも養父・松平定綱が家臣ともに編み出した甲乙流剣術を発展させ、居合術・砲術・弓術にも優れ、新流派を創り出す程だった。
 それゆえ定信が後世に与えた影響は大きい。

 一例を挙げると人材登用面がある。
 老中時代、定信は当時の幕臣達が余りにも学問・教養に関心がなかったことに落胆し、彼等に学問を奨励するために人材登用に「学問吟味」と呼ばれた学力試験を行った。謂わば、江戸幕府版の科挙であった。もっとも、本家本元の様に受験資格は広くなく、幕臣や地役人等に限定されたものではあったが、昌平坂学問所にて行われたこの試験からは好成績を挙げたことで寛政一〇(1798)年に近藤重蔵が定信に登用され、彼は後に蝦夷地調査隊の一員となった。

 また前述した様に、老中としては成功したとは云い難い定信だったが、白河藩主としては江戸三〇〇藩の中でも特に優れた藩主であったゆえに白河に残した影響は更に大きい。
 天明の大飢饉での活躍もあって、白河における定信人気は絶大で、当時、彼が職人に作らせた白河達磨は御当地の特産物となり、現代でも毎年二月一一日には白河だるま市という祭りで売られている。
 他にも白河蕎麦を特産物としたのも定信で、これにまつわる逸話も多い(らしい)。更に寛政一二(1800)年に定信は、文献から白河神社の建つ位置が白河の関であるとの考証を行ったことで昭和四一(1966)年に「白河関跡」として国の史跡に指定された。
 「賄賂政治の権化」と呼ばれた田沼意次が昨今「開明的だったが、時代に味方されなかった改革者」として見直されるのに反比例して松平定信の名は否定的に映りがちだが、それでも彼の名は間違いなく今日も白河市の人々の心に生きている。

 「倹約」、「清廉」、「祖法堅持」、といったキーワードから、お堅く近寄り難いイメージで見られがちな定信だが、そんな彼の言動は意外に痩せ我慢に裏打ちされている。
 儒教を重んじる余りエロにはかなりストイックで、「房事(SEX)というものは、子孫を増やすためにするもので、欲望に耐え難いと感じたことは一度もない」と著書に記し、寛政の改革では、卑俗な芸文を取り締まったが、私人としてはこうした芸文を楽しむ一面もあった。意外に人間臭い人物で、それゆえ人間の本能である「食」に対する想いが強く、天明の大飢饉に際して適切な手を打たせたと云えるのかも知れない。


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令和三(2021)年六月七日 最終更新