第漆頁 等順大僧正…………人命救助に善光寺信仰急騰

名前等順(とうじゅん)
生没年寛保二(1742)年〜文化元(1804)年三月二五日
職業天台宗大僧正。東叡山寛永寺護国院第一三世住職、信州善光寺別当大勧進第七九世貫主、養源院第一一世住職
通称・尊称等順大僧正
対抗した飢饉天明の大飢饉
飢饉対抗手段人望による食糧収集並びに寺院蔵の大開放
略歴 寛保二(1742)年、坂口観了の子として信濃は善光寺参りで有名な善光寺町に生まれた。
 宝暦三(1753)年、東叡山寛永寺護国院に入寺、周順に師事した。寛永寺は徳川家光が開基した徳川家の菩提寺として、芝の増上寺と並んで徳川将軍家とゆかりの深い寺院である。

 修業を積むこと二三年、安永四(1775)年に三四歳にして比叡山竜禅院住持を拝命し、三年後の安永七(1778)年には三七歳の若さで寛永寺護国院の第一三世住職となった。
 天明二(1782)年、地元の善光寺にて別当大勧進第七九世貫主に就任。これは地元・信濃の出身者が就任した近世初めての例だった。

 だが、その翌年である天明三(1783)年、関東甲信越を大災害が襲った。浅間山大噴火である。このとき等順は被災地である上野の鎌原観音堂(現・現群馬県嬬恋村。階段下で女性二人の遺体が見つかったことで有名)へ赴いた。そこで念仏供養を三〇日間施行し、被災者への施しに努めた(詳細後述)。
 程なく善光寺に戻り、引き続き天明の大飢饉に苦しむ人々への施しに努めた。

 天明四(1783)年二月、融通念仏血脈譜(ゆうづうねんぶつけちみゃくふ)、通称・お血脈(おけちみゃく)を新たに簡略化して作成し、参拝者へ配布を始めた。
 これはどんな業の深い罪人も極楽往生させるという有り難い御札で、等順が生涯で配布したお血脈は約一八〇万枚に及び、落語の題材にもなり、善光寺の名を一気に躍進させ、信仰の全国的普及にも大きく貢献した。

 天明四(1784)年七月、善光寺本堂にて浅間山大噴火での犠牲者の追善大法要を行、犠牲者一四九〇人の名が書した御経塔婆木を送った。僧侶として天明五(1785)年には大開帳法要(本堂における御開帳の始まり)、寛政元(1789)年には大勧進表門を建立し、寛政六(1794)年には国家安全と五重塔再建を志し、如来像を奉戴して四年に及ぶ回国開帳を実施した。

 等順が同国開帳した地域
飯山、十日町、小千谷、長岡、三条、糸魚川、富山、金沢、福井、小浜、田辺、福知山、鳥取、米子、松江、萩、勝山、笹山、大阪、明石、姫路、龍野、赤穂、岡山、広島、小倉、博多、唐津、大村、長崎、島原、佐賀、熊本、久留米、秋月、宇土、水俣、出水、鹿児島、佐土原、高鍋、竹田、臼杵、佐伯、宇和島、大州、松山、今治、丸亀、倉敷、笠岡、高松、徳島、淡路、兵庫、尼崎、京都、彦根、大津、関、美濃、木曽、松本、飯田、高遠、佐久

 特に島原では藩主に請われて雲仙岳噴火犠牲者の融通念仏供養を浜辺で行った。他の地域でも等順の回国開帳は、藩主・民衆に大歓迎され、多くの寺院が善光寺と結びついた。そしてそれに伴い、各地で自然災害、飢饉から民衆の気持ちを軽減するために、名号碑が建てられた。

 寛政九(1797)年一一月七日、京都での回国開帳時に大納言葉室頼熙卿の猶子として参内。光格天皇より三帰戒及び十念を授け奉り、両女御所に説法を行った。一方で天台座主の青蓮院尊真法親王より、古い御輿を下賜され、京滞在中に万華堂、護摩堂内仏殿再建した。
 寛政一〇(1798)年に善光寺に帰山。二年後の寛政一二(1800)年二月一日、江戸城に登城し、将軍徳川家斉に拝謁し、同年五月に上洛・参内し、再度光格天皇に拝謁する等、貴人との交流も盛んだった。

 享和元(1801)年、善光寺別当を退任。公澄法親王より不軽行院と諭示を賜い、公卿として養源院第一一世住職に移ることを命じられた。京では信仰を通して皇族の精神的な支えとなる日々を送ったが、文化元(1804)年三月二五日に遷化した。等順大僧正享年六三歳。
 二〇年に渡って別当を務めた善光寺は勿論、比叡山、護国院、養源院、寛慶寺に供養塔が建立された。


飢饉に直面して 前述した様に等順は、浅間山大噴火に対して鎌原観音堂にて念仏供養を三〇日間施行した。その際に食糧等を物資調達し、被災者一人辺り、白米五合と銭五〇文の施しを行った。対象となった被災者は三〇〇〇人に及んだというから、等順の求心力は驚嘆する他ない。

 「天明の大飢饉に対して」よりも、「浅間山大噴火に対して」の尽力の方が光る等順だが、浅間山大噴火による降灰は太陽光を遮り、天明の大飢饉の主因となっていたので、この対応に等順が尽力しない筈が無かった。
 被災者への施し後、善光寺に戻ると等順天明の大飢饉にて飢えに瀕した民を救済する為、善光寺所蔵の米麦をすべて放出して民衆に施した
 この大開放が具体的にどれほどの人命を救い、地域社会にどれほど貢献したかは薩摩守の研究不足で詳らかではないが、この尽力とそれに対する多大な感謝の念が有ったからこそ善光寺の名が更に高名になったことに疑問の余地はないだろう。


後世への影響 浅間山大噴火並びに天明の大飢饉に苦しんでいたところに救済を受けた人々が等順の恩に感謝して、集まって掘ったのが大勧進表大門前にある放生池となった。

 また、お血脈は落語や笑い話のネタとして巷間に広まった。
 お血脈の流布で地獄に悪人が来なくなり、閻魔大王や鬼達が石川五右衛門を無理矢理蘇生させてお血脈を盗ませようとしたところ、苦心の果てにこれを見つけた五右衛門が有り難さの余り、これを額に押し抱いたが為に、極楽往生を遂げたという話を聞かれたことのあることも多いだろう(落語大好き漫画家の魔夜峰夫氏は『パタリロ!』でこのシーンをネタにしていた)。

 これらの等順の尽力は善光寺のその後にも大きく影響した。
 そもそも善光寺は無宗派の単立寺院で、住職は等順も務めた「大勧進貫主」(天台宗)と「大本願上人」(浄土宗)の両名が務めるもので、日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とした由緒ある寺院だった(足利将軍家から将軍位を継がない者が京都五山に送られたように、公家・鷹司家の人間が代々門跡を務めていた)。
 そこに等順の尽力が善光寺の名を挙げ、以後「一生に一度は善光寺詣り」と云われるようになり、年間六〇〇〜七〇〇万人が訪れるようになった。
 元から高名だった善光寺の名を一気に高めながら、等順本人の名は物凄く有名という訳ではないところに却って謙虚さ、慎み深さを感じさせられ、驚嘆を深める次第である。


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平成二八(2016)年三月二四日 最終更新