第捌頁 渡辺崋山……餓死者を出さず表彰されたのに………

名前渡辺崋山(わたなべかざん)
生没年寛政五(1793)年九月一六日〜天保一二(1841)年一〇月一一日
職業田原藩士、画家
通称・尊称渡辺登、全楽堂、寓画堂他
対抗した飢饉天保の大飢饉
飢饉対抗手段新しい害虫駆除法の発見、事前対策(義舎の創設、質素倹約方法の徹底)
略歴 三河田原藩士の父・渡辺定通、母・栄の嫡男として生まれた。諱は定静(さだやす)。
 定通が江戸定府の御役目だったので、江戸麹町(現・東京都千代田区三宅坂付近)の田原藩邸で生まれた。渡辺家は田原藩内では上級武士だったが、微禄だった上に定通が病気がちで多額の薬代を必要としたため、定静の幼少期は極端な貧苦の渦中にあった。
 そんな苦しい家計を少しでも助ける為、定静は得意としていた絵を売って、生計を支えるようになっていった。

 長じて谷文晁に入門し、絵の才能を大きく開花させた定静は二〇代半ばには画家として著名となったことで生活苦から解放されるようになる一方で、学問にも励み、同じ田原藩士の鷹見星皐から朱子学を、昌平坂学問所では佐藤一斎、松崎慊堂からも、そして佐藤信淵(←青木昆陽の頁も参照)からは農学を学んだ。

 田原藩士としては、身分もあってか、八歳の時には藩主・三宅康友から嫡男・亀吉の世話役を命じられた。その亀吉が不幸にして夭折するとその弟・元吉(後の藩主・三宅康明)の世話役も務めた。一六歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕し、納戸役・使番等など、藩主に近い場所での務めとなった。
 文政六(1823)年、田原藩士・和田氏の娘・たかと結婚。二年後の文政八(1825)年に父・定通が逝去したため三二歳で家督を相続し、翌文政九(1826)年に取次役となった。

 ところが、藩主には定静が世話した三宅泰明が就任しており、渡辺家の家禄も上がり、いよいよと思われた矢先の文政一〇(1827)年に康明が若くして病死した。更に貧窮する藩財政が田原藩重臣達を悩ませた。
 この事態を打開するため、姫路藩から養子を持参金付きで迎えようとする意見が支配的となったが、定静はこれに強く反対した。だが結果、定静が推した三宅友信(康明の異母弟)ではなく、養子・康直が藩主となり、このことで一時期自暴自棄となった定静は酒浸りの生活を送ったと云われている(一方で友信の男子と康直の娘を結婚させ、間に生まれた男子(康保)を次の藩主とすることを承諾させていた)。
 藩首脳部は、定静を初めとする友信擁立派を宥める為、友信に前藩主の格式を与え、巣鴨に別邸を与えて優遇したことで定静は側用人として親しく友信と接することとなった(この頃、渡辺崋山と名乗り始めた)。
 友信も崋山とは深く信頼し合い、崋山が多くの蘭学書の購入を希望した際には快く資金を出し、崋山死後に彼の伝記を書き残すほどだった。

 天保三(1832)年五月、田原藩年寄役末席(家老)に就任。崋山は、家格よりも役職を反映した俸禄形式である格高制を導入し、優秀な人材の登用と、藩財政の引き締めを図った。
 また農学者大蔵永常を田原に招聘して殖産興業を行った。具体的には商品作物の生産で、温暖な渥美半島の気候に着目したサトウキビ栽培は芳しい成果とならなかったが、ハゼ・コウゾの栽培や蝋絞りの技術や、藩士の内職として土焼人形の製造法なども伝えている。

 天保の大飢饉の対応にも尽力して効果を上げ(詳細後述)、藩の助郷免除嘆願の為に海防政策を口実として利用した。この取り組みで田原藩は幕府や諸藩から高く評価されたが、崋山自身は開国論者で、鎖国・海防には反対だった。

 崋山の活動は更には広く、紀州藩儒官遠藤勝助が設立した尚歯会に参加。高野長英等とともに参加したこの学問会では飢饉対策や蘭学による西洋技術の導入について話し合われ、崋山・長英以外にも小関三英、川路聖謨、江川太郎左衛門英龍等も加わり、海防問題などまで深く議論するようになった。
 特に江川が崋山に深く師事し、幕府の海防政策などへの助言したことから、崋山は蘭学者でないにもかかわらず、藤田東湖から「蘭学にて大施主」と呼ばれ、時の蘭学者達の指導者的存在として一目置かれた。

 だが、天保九(1838)年、モリソン号事件(通称を求めて日本人漂流民を伴ってやって来たアメリカ合衆国の商戦モリソン号を、異国船打ち払い令に基づいて砲撃した事件(←一発も当たらず))を契機に崋山・長英の運命は暗転した。
 幕府のこの処置に崋山は批判の書・『慎機論』を書いたが、幕閣の猛省を促すどころか、逆鱗に触れただけだった。
 同様に批判本・『夢物語』を記すも匿名が効いた長英と異なり、田原藩の年寄という立場から特命が効かず、蛮社の獄(洋学嫌いの江戸南町奉行・鳥居耀蔵による言論弾圧事件)にて家宅捜索を受け、断罪される結果を招いた。

 崋山が町人達ともに断罪された事件は鳥居によって「無人島渡海相企候一件」と呼ばれた。それは更なる弾圧を意味していた。
 崋山の門人・福田半香が謹慎生活に貧窮する崋山一家族を助ける為に江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てていたのに対して「生活の為に絵を売っていたことが幕府で問題視された。」との風聞が立った(藩内の反崋山派による策動と云われている)。もはや罪人としての自分の立場が逃れ得ぬものとなったことを痛感した崋山は、藩に迷惑が及ぶことを恐れて「不忠不孝渡辺登」という遺書を残して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹して果てた。渡辺崋山享年四九歳。

 崋山自害後、息子・渡辺小崋が家老に就任して家名再興を果たしたが、反崋山派の圧力は根強く、幕府へのはばかりからも、崋山の墓が建てられたのは明治に入ってからだった。


飢饉に直面して 渡辺崋山による対天保の大飢饉対策は大きく分けて二つ為された。

 一つは害虫退治方法の発見である。
 飢饉の要因の一つに害虫の大量発生が有り、殊、米に関してはウンカによるそれが深刻だった。そんな中、崋山が招聘した農学者・大蔵永常は鯨油による稲の害虫駆除法を導入し、大きな成果に繋がったと云われている。
 これは水田に鯨油を流し、そこに害虫を叩き落とすというもので、水面に落ちてもそこから逃れ得た害虫達も、油面からは逃れられず溺死するというもので、農薬が普及するまではこの方法が最上のものとされた。

 もう一つは、「報民倉」と名付けられた食料備蓄庫を初めとする日頃の備えである。
 崋山報民倉以外にも『凶荒心得書』という対応手引きを著しており、家中に綱紀粛正と倹約を徹底していた。
 前述の尚歯会にても高野長英等と飢饉の対策について話し合っており、長英が馬鈴薯(ジャガイモ)と早蕎麦について『救荒二物考』を上梓した際に、崋山はその挿絵を担当し、分かり易い救荒作物の書を残すのに貢献していた。

 これ等の甲斐あって、決して豊かとはいえない田原藩だったが、天保の大飢饉に際して藩内で誰一人餓死者を出さず、全国三〇〇藩の中で唯一幕府から表彰を受けた


後世への影響 天保の大飢饉において事前・事中の様々な対策で藩内から一人の餓死者も出さないという輝かしい功績を挙げた渡辺崋山だが、この功績よりも「蛮社の獄における悲劇の犠牲者」としてのイメージの方が強い。

 ともあれ、蛮社の獄から三〇年を経ずして江戸幕府が倒れたことで、幕府の鎖国政策やそれを頑なに守らんとした幕閣の姿勢は間違いとされ、弾圧された洋学者達の名誉は回復され、同情されるようになった。崋山の名誉と名もクローズアップされ出した。
 そんな中で大きく注目されたのは幼少の頃の崋山はエピソードだった。
 崋山幼少時の渡辺家は日々の食事にも事欠き、弟や妹は次々に奉公に出されていった。その有様は、崋山が壮年期に書いた『退役願書之稿』に詳しく、そんな中で勉学に励む姿は戦前の修身の教科書に掲載され、忠孝道徳の模範とされた。

 ともあれ、薩摩守個人的には、渡辺崋山天保の大飢饉における活躍がもっと注目されて欲しいと願われる次第である。


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令和三(2021)年六月七日 最終更新