最終頁 飢えるも肥えるも為政者次第……

 江戸三大飢饉である享保の大飢饉天明の大飢饉天保の大飢饉による飢餓から人々を救わんものとして尽力した人物として、下見吉十郎井戸平左衛門青木昆陽上杉鷹山松平定信等順大僧正渡辺崋山の六人を採り上げた。
 つらつら思う………………「べた褒めしてしまった………(苦笑)」と。

 本来、拙サイト戦国房の方針としては、褒めるにしても貶すにしても「一方的」になることを厳に戒めている。「極論に正論無し。」というのが道場主の価値観で、好悪に振り回された一方的な物の見方は正象を歪めると信じる故に。
 だから素晴らしき教え・尊き人物に対しても妄信・盲従はしないし、逆に邪宗・邪教を初めとする敵視・睥睨すべき思想・人物に対しても頭から吟味せずに貶し一辺倒はしないよう心掛けている。千慮の一失・狂者の一得は大切である。
 だが、本作に関しては(一部例外を除き)べた褒めしてしまった。べた褒め一辺倒は過去作『天然痘との戦い』以来である。

 理由ははっきりしている。
 吉十郎達が戦った相手が「飢饉」という災禍で、「飢饉」に味方して平左衛門達達を非難する様子が皆無であること、昆陽達の活動に武器を取って誰かの血を流したり、命を奪ったりする要素が皆無であること(鷹山定信の身分や権力によっては政治生命的なものを「抹殺」したケースは若干あるが)、等順大僧正崋山達の「飢えたる民を救う」という行為に「非」となるものが一切ないこと、等々…………単純に尽力者を責める話にはなり得ないからである。

 勿論性悪人間になって揚げ足を取ることなら何ぼでも出来る。
 「政策の取りようによってはもっと多くの人々を救えた。」とか、「所詮自己の裁量の範囲内で、局地的な成果でしかない。」とか、「売名行為じゃないのか?」とか、「一部のケースは自分が担当する地域は救えても、その周辺を苦しめている。」とか、云い出せばキリがない。
 だが彼等の尽力が無ければ更なる犠牲が出ていたことに疑いの余地はなく、尽力が無いために名前が出て来ない為政者の怠慢の背後に存在する夥しい数の犠牲者・流浪者・(生きる為に心ならずも悪事に手を染めた)犯罪者も数多く存在することを想えば、やはり彼等の尽力は素晴らしく、それによって救われた多くの命の貴重さに感じ入る次第である。

 そこで最終頁では飢饉における為政者・学者達の尽力が如何に人命を左右するかを検証して締めとしたい。
飢饉に抵抗した名無き人々 当たり前過ぎるほど当たり前の話だが、本作で採り上げた人々だけが飢饉における人命救助に尽力した者達ではない。
 吉十郎達も彼等個人の力だけで大勢の人々を救った訳ではなく、そこには身分の縦横問わず彼等に協力した多くの人々がいたのも間違いない史実である。
 同時に彼等の尽力を法制度、お役所的手続き、失敗時の責任への恐れから(意図的ではないにせよ)妨害した者達も残念ながら存在した。

 救荒作物の普及一つをとっても、米蔵解放の一件をとっても、質素倹約による食い繋ぎの一例をとっても、どこかで歯車の噛み合い一つ狂えばもっと大勢の餓死者を生んでいたかも知れないし、逆にもっと少ない犠牲に食い止めたかも知れない。歯車の噛み合いが狂ったが為に助けられなかった命は決して少なくないだろう。

 また江戸三大飢饉以外にも江戸時代には様々な飢饉があり、時代を遡れば農業技術はもっと未熟で、平和な江戸時代より農業に全力を注げなかった事例は枚挙に暇がなく、歴史の教科書に載らない大飢饉も、その犠牲も膨大である。
 勿論その惨禍に心を痛め、効果の大小は有れど為された尽力により救われた命も存在することであろう。

 時代劇や歴史漫画でお救い小屋が出てきて、施された粥一杯に飢餓に苦しむ人々が群がるシーンを視て、「焼け石に水」という言葉を脳裏に浮かべたことのある方々も多いと思う。
 確かに、その時の一杯の粥で即座の餓死は逃れても、その後の食糧が続かずに命を落とした者は少なくないだろう。しかし、その時点での餓死を免れたことで後の助命手段を掴み得て助かった者もいた筈である。
 効果を云い出せばキリは無いが、そのすべての尽力は尊いと薩摩守は思う。

 そして忘れてはいけないのが、凶作・不作に対して事前に手を打つことで、「飢饉」という単語を後世に残さずに済ませた政治家が一番優れているということである。「事後」の対応も大切だが、「事前」に手を打つことで「事」を起こさない手腕の方が何倍も素晴らしい。
 「事件」が起きなければそれを解決する必要が無く、未然に防がれるが故に尽力者の名は後世に残らない。後世の我々が尊ぶべき「名もなき人物」には「名を為す必要性を感じさせなかった人物」も含まれるべきだろう。
 全然ジャンルも規模も異なるが、野球の世界でも本当に優れた野手は相手チームのバッターが球を打った瞬間に飛んでくる位置を予測し、丸で凡フライを処置する如く捕球し、その様なプレイこそが真のファインプレーと呼ばれると云うが、政治にも同じことが云えるだろう。


たった一人を救うのだって尊い 道場主の好きな刑事ドラマ・『特捜最前線』の第147話で、津上刑事(荒木茂)が殉職する話がある。津上の妹・トモ子(立枝歩)は冒頭で兄を死なせ(る羽目になっ)た神代警視正(二谷英明)を詰りまくったが、ラストにて生前兄が云っていた「たった一人の命を救う為に出も命を張るのが刑事」という言葉を神代の前で吐露していた。
 この作品における津上刑事はボツリヌス菌による細菌テロを防ぐ為に我が身を犠牲にして菌を焼却することでテロを未然に防ぐとともに、自らも若い命を散らせるという壮絶な最期を遂げていた。トモ子は兄の死を悼みながらも、そんな兄を誇りに思う気持ちを示していた訳だが、フィクションの世界とはいえ津上刑事の尽力が無ければ数千人に及ぶ犠牲が出ていたことが推測されていた。

 そして現実の世界では為政者の胸先三寸で時に何千何万、場合によっては何百万何千万の命が左右される。
 戦争、災害対応で直接的犠牲が左右されることもあるし、経済(生活苦・経営不振による自殺問題)・教育(いじめ自殺・虐待による犠牲)・治安(刑法事件状の犠牲)で間接的犠牲が左右されることもある。
 基本、政治家が暴政・悪政・圧政を布けば膨大な犠牲が生まれ、賢政・善政・仁政が布かれれば犠牲は最小限に縮小され、最上時には災禍そのものが気付かず看過されるだろう。
 個人または組織の判断一つで犠牲になった方々に対しては胸が痛むが、それゆえに判断一つによって救われた命すべてが尊いと感じ、一円の募金、一食分の質素倹約、一片の情も軽く考えず、個人であれ、組織であれ、一人でも犠牲を生むことはして欲しくないし、一人でも助けられるものは躊躇って欲しくないと思うし、自らにも云い聞かせる次第である。


現代も例外に非ず 正直、かつての道場主は現代日本において「餓死」は無縁のものと思っていた。「ホームレスが糖尿病に罹る国」、「飽食日本」、「日々大量に廃棄される食糧」という言葉を聞くにつれ、よっぽど極端な例を除けば、まっとうに働いている限り三食をしっかり食べていける社会である日本に生まれたことを有り難く思ってもいる。
 だが、目を社会の片隅や、世界に向けたとき、「飢え」は決して過去の事例ではなく、尽力の生む一つで膨大な数の命が左右されていることを今更思い知らされている(それどころか、餓死を免れる場を刑務所に求めて犯罪をやらかす奴までいる!)。

 日本でいえば、幼児虐待によって親からまともな食事を与えられず子供が餓死するというふざけたケースが後を絶たず(怒髪天)、独居老人が自力で動けない状態を周囲に知られずに大量の資産を持ちながら餓死することがあり、犯罪・無関心社会・不慮の事故で「餓死」に襲われることがある。

 世界に目をやれば飢餓に苦しむ人民を無視した政治でアジア・アフリカの発展途上国を初め「八億人が飢えている。」とも云われている。その中でも薩摩守の関心が高いのは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)とジンバブエである。
 寒冷で肥沃な土地も少ない北朝鮮は周辺国と物資のやり取りをする度、「食糧」というキーワードが見られるのは周知だが、韓国政府の発表によるとミサイル一発撃つ度に国民全員を一年間食べさせられるだけの費用を費やしていると云われている。
 これらの話は伝聞だし、データが隠蔽されやすい国故にどこまで実態に即しているかは詳らかではないが、総書記の死に号泣する人々がすべて痩せていて、後を継いだ第一書記だけがぶくぶく肥え太っている上、「食糧」というキーワードが二〇年以上も第一キーワードとして掲げられている実態を見れば、どう贔屓目に見ても食糧を巡ってまともな政治が執られているとは云えないだろう。飢え苦しむかの国の人民には心底同情を覚えるが、彼等に対しては過酷を承知の上で「自分達の手で肥え太る暴君を何とかしろ。」と云いたい。周辺国の影響で暴君が除去されても、負の歴史を繰り返すことになると考えられるゆえに。

 もう一つのジンバブエだが、「飢餓」に関して実に象徴的な歴史を歩んでいる。
 1980年代、道場主が「飢えるアフリカ」というキーワードを耳にしたとき、ジンバブエは「アフリカの穀倉地」とよばれ、例外的に飢餓と無縁の国だった。
 だがそんな国だったにもかかわらず、後に独裁者が白人による植民地支配を恨み(←それ自体が悪いとは云わないが)、考えなしに白人を国外に追い出すことでジンバブエの農政に大きく貢献していた篤農家達まで追い出してしまい、悪政で農地を荒廃させ、出鱈目経済政策で通貨(ジンバブエドル)の信用失墜をを呼ぶことで二億パーセントというふざけたハイパーインフレを生み、ジンバブエをアフリカの中でも特に飢える国に貶めてしまった
 酷い話だが、こんな悪政をやらかした独裁者。ムカベは九二歳という高齢の身で今(平成二八(2016)年三月二九日現在)も大統領の地位にある…………。

 これらの例を見ても、為政者の胸先三寸で民衆はいとも容易く飢えに瀕し、逆に飢えからも救われる。勿論飢餓のすべてが為政者の責任とまでは云えない。飢饉は要因の多くが天災にあり、最後の最後に我が身を守るのは我が身自身である。それゆえ「誰が」という問題ではなく、「どういう状況だから」に関わらずすべての人々が常日頃から食を重んじることを折に触れて振り返らなくてはならないと考える(勿論この問題には食えなくなったが為に起こされる犯罪やテロや侵略戦争の問題も含まれる)。

 かつて高野山にて二泊三日の修養した際に、「一滴の水にも天地の恵が籠っています。一粒の米にも万人の力が加わっています。有り難く頂きましょう。頂きます。」といって三食を取ったことがありました。恥ずかしながら私は大食漢で、「食」にはかなり意地汚い男で、死後餓鬼界に落ちても全然不思議じゃないと思っています。
 それゆえ、高野山で唱えた言葉を思い返し、飢饉に立ち向かった人々への感謝を深め直し、食を粗末に扱ったり、考えたりしないことの大切さを世に広めたいとも思うとともに、本作で採り上げた史上の人々の例からその想いが一寸なりとも世に広まればこれに優る喜びは無いと思う次第です。

平成二八(2016)年三月二九日 道場主




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令和三(2021)年六月七日 最終更新