第参頁 石田三成&大谷吉継………「友情」を語るに外せない二人

石田三成略歴 永禄三(1560)年、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(現:滋賀県長浜市石田町)で誕生、幼名は佐吉
 浅井氏を滅ぼした織田信長の家臣・羽柴秀吉が近江長浜城主となったことで天正二(1574)年頃から、父・正継、兄・正澄と共に仕官し、小姓として仕えた。

 天正一〇(1582)年六月二日、信長が本能寺の変により横死し、秀吉がその仇である明智光秀を討ったことで信長後継者としての立場を固めるにつれ、三成も秀吉の側近として台頭。
 天正一一(1583)年の賤ヶ岳の戦いでの偵察任務を皮切りに主に兵站・内政に活躍した。

 天正一三(1585)年七月一一日、秀吉が関白に就任にすると三成は従五位下・治部少輔に叙任され、同年末に近江水口四万石の城主に封じられた。
 それによって軍事よりも政治面での活躍が際立ちだし、九州平定後は博多奉行を命じられ、軍監の黒田孝高らと共に博多町割り、復興に従事し、薩摩の島津義久が秀吉に謁見・降伏するのを取り次いだ。
 天正一八(1590)年の小田原征伐では北条氏の支城の館林城、忍城攻撃に従事しつつ、三成は取次として、常陸の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋し、奥州仕置後の検地奉行を務めるなど吏僚として活躍した。

 秀吉が天下を統一すると天正一九(1591)年四月に佐和山城主となり、朝鮮出兵では増田長盛や大谷吉継と共に主に軍監として尽力した。その間の数々の功績で正式に近江佐和山一九万石の領主となり、五奉行の一人ともなったが、生真面目に務め過ぎたことで加藤清正を初めとする、所謂、武断派の反感を買った。
 そして慶長三(1598)年八月一八日秀吉が薨去し、次いで慶長四(1599)年閏三月三日に豊臣家中の対立を抑えてくれていた前田利家が没すると武断派七将(加藤清正、福島正則、加藤嘉明、細川忠興、黒田長政、浅野幸長、池田輝政)の襲撃を受け、敢えて大敵である筈の徳川家康に助けを求めた。
 狙いは過たず、家康は敢えて仲裁し、三成を助けてくれたが、代償として五奉行の座を退いて佐和山城にて謹慎することとなった。

 だが、三成は豊臣家を脅かす者として家康を警戒し続け、慶長五(1600)年六月一六日に家康が上洛命令に従わない上杉景勝を討つために大坂を発つと、五奉行仲間である前田玄以、増田長盛、長束正家と共に五大老の一人・毛利輝元の上坂を要請し、輝元が七月一九日に大坂城に入ると三奉行連署からなる家康の罪状一三箇条を書き連ねた弾劾状(『内府ちがいの条々』)を作り、諸大名に送付した。

 事ここに至って徳川家康追討軍が挙兵され、七月一八日、家康重臣・鳥居元忠の守る伏見城を包囲し、八月一日にこれを陥落せしめ、伊賀上野城、安濃津城、松坂城などを落とし、会津から転進してきた東軍と関ヶ原で相まみえることになった。

 運命の九月一五日、笹尾山に布陣した三成は黒田長政、加藤嘉明、田中吉政軍を相手に猛将・島左近を先頭に立てて文官のイメージを覆す大奮戦を展開したが、西軍には日和見する者が多く、昼過ぎには小早川秀秋に始まる裏切りの連鎖が起き、西軍は総崩れとなり、大敗した。
 戦場を落ちた三成は居城・佐和山に退いての再起を図らんとし、伊吹山中を逃走し続けたが、九月一八日に東軍の攻撃を受けて佐和山城は落城し、父・正継、兄・正澄を初めとする一族の多くは討死した。
 そして自身も翌二一日、田中吉政の追捕隊に捕縛され、二二日には大津城城門前で縄目の姿を晒された。
 そして小西行長、安国寺恵瓊等と共に大坂・堺を罪人として引き回された末に、一〇月一日、京都六条河原にて斬首された。石田三成享年四一歳。


大谷吉継略歴 永禄二(1559)年近江に大谷盛治の子として生まれた。幼名は紀之介。大谷氏の出自及び幼少期の経歴は不鮮明だが、石田三成同様に天正の天正始め頃に羽柴秀吉(豊臣秀吉)の小姓となった。
 天正五(1577)年一〇月に秀吉が織田信長から播磨攻略を命令された頃から秀吉馬廻り衆の一人として名前が見え出し、三木城攻め備中高松城攻めにもその名が見られる。

 本能寺の変で信長が横死し、その仇である明智光秀を討ったことで主君・秀吉が台頭すると吉継も出世して行き、天正一一(1583)年の賤ヶ岳の戦いでは敵将・柴田勝家の甥・勝豊を調略して内応させる活躍を見せた。
 そして秀吉が天正一三(1585)年七月一一日に関白に叙任されると吉継も従五位下・刑部少輔に叙任され、一般に「大谷刑部」と呼ばれるようになった。

 天正一四(1586)年の九州征伐でも三成と共に兵站にて活躍し、それらの功で天正一七(1589)年に越前敦賀郡に二万余石を与えられ、敦賀城主となった。
 そして天正一八(1590)年の小田原征伐で天下統一が成ると、吉継は東北地方の検地を初めとする鎮撫に尽力し、石高も五万石に加増された。
 そして朝鮮出兵が始まると石田三成・増田盛次と共に船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、勲功を立て、明との和平交渉でも、明使(謝用梓・徐一貫)を伴って三成・盛次と共に一時帰国し、文禄二(1593)年五月二三日に名護屋城で秀吉と明使との面会を成立させた。
 結局、講和は成立せず、日朝間は再戦することとなったが、これは程なく慶長三(1598)年八月一八日の秀吉薨去により終戦となった。
 その間に、吉継はハンセン病を患い、秀頼への感染を恐れた秀吉に疎んじられるようになったが、病状が悪化して馬に乗れなくなり、目が見えなくなっても文武に秀でた周囲の信頼は些かも揺らがなかった。

 秀吉薨去後、吉継は親家康にも反家康にも立たず、主命に忠実に従い続け、慶長五(1600)年に家康が会津の上杉景勝に謀反の疑いあり、として討伐軍を起こすと吉継も病身を押して、三〇〇〇の兵を率いて従軍した。
 これが最後の戦場になると感じていた吉継は敦賀を絶って伏見で討伐軍に合流する途中で佐和山に三成を訪ね、そこで三成から家康討伐の挙兵を目論んでいることを打ち明けられ、協力を持ち掛けられた。
 吉継はこれを断り、三成に思い留まる様に諭した(詳細後述)。結局三成の意思を覆すことは出来ず、佐和山を後にした吉継だったが、最後には友に殉ずる覚悟を固め、佐和山の三成と合流した。

 運命の九月一五日、吉継は関ヶ原・松尾山山麓に五七〇〇の兵を率いて布陣し、関ヶ原の戦いが始まる輿の上から指揮を執り、東軍の藤堂高虎・京極高知両を相手に奮戦しつつ、山上の小早川秀秋が裏切りかねないと見て脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・戸田勝成・赤座直保等を備えとして対峙させていた。
 周知の通り、正午頃、吉継が懸念していたように松尾山上の小早川勢が寝返り、一万五〇〇〇人の大軍でもって押し寄せて来た。ある程度これを予想していた大谷勢は慌てず騒がず応戦し、小早川隊を二度、三度と押し戻したが、その小早川勢に備えていた筈の脇坂・朽木・小川・赤座の四隊四二〇〇人もが東軍に寝返り、大谷勢は前面と側面に六倍もの兵に攻め掛かられた。
さしもの吉継もこれには堪らず、病み崩れた面相が晒し首になることを避けるべく、側近の湯浅五助に介錯を命じ、自害して果てた。大谷吉継享年四二歳。



共に過ごした時間 豊臣秀吉の家臣団は外様を別にすれば三つのタイプに大別される。
 一つは木下藤吉郎として織田信長に仕え出した頃からの部下で、実弟・秀長、従弟の虎之助(加藤清正)、遠縁の市松(福島正則)等で、秀吉を「親父様」、おねを「お袋様」と呼んだ、「子飼い」と呼ばれる者達である。
 二つ目は、藤吉郎が羽柴秀吉として城持ち大名となった時に御当地の地侍、土豪、浅井家旧臣達で、所謂、「近江派」と呼ばれる者達である。
 三つ目は、「その他」で、藤吉郎から豊臣秀吉になる過程で信長が滅ぼした大名家の旧臣、自らスカウトした僧侶・豪商・学者達である。
 その中で石田三成大谷吉継は二つ目である近江派で、ほぼ同時期に小姓として秀吉に仕え始め、戦働きよりは兵站や検地と云った縁の下の力持ち的存在として秀吉に尽くした。

 恐らく両者は旧知だったと見られ、清正と正則が「虎之助」、「市松」と呼び合ったように、三成吉継は「佐吉」、「紀之介」と呼び合ったと云われている。
 時代が時代なのでどうしても戦場での華々しい活躍の方が目立ってしまうが、三成吉継が兵站で為した功績の大きさは秀吉戦略においては際立っている。元々小柄で単騎としての膂力が得意な方でもない秀吉は大掛かりな土木工事や物資の買い占め等を駆使して戦略面で事前に有意な体制を作るやり方をモットーとしていた。
 殊に中国大返しや、賤ヶ岳の戦いにおける「神速」とも云える迅速な進軍は前もって進軍ルートにおける補給準備の賜物で、事前準備が如何に肝要であったかは余人の言を待たないところで、それを担ったのが三成であり、吉継だった。

 両者に武人としての働きが無かった訳ではなく、三成は自身文弱でも島左近や蒲生郷舎と云った配下の猛将を関ヶ原で獅子奮迅の働きをさせて黒田長政・加藤嘉明・田中吉政等を苦戦させたし、吉継はハンセン病を患って尚、戦場に駆り出されるほど戦働きを期待される武将だった。殊に吉継は武将として有能で、同時に入念な準備も出来る男だったから、秀吉に「百万の兵を指揮させてみたい。」と云われたのだろう。
 ただ、地味でも重要な兵站や裏方事務の方が大切と見られたのだろう。朝鮮出兵までは両者は実に似た活躍をしていた。

 最終的に三成は石高において軽輩でも秀吉・秀頼に近侍する道を選び、五奉行の一人にして佐和山一九万石の領主となり、吉継は命じられるままに敦賀五万石の一大名となったのだろう。まあ、これにはハンセン病を患ったことで、感染を恐れて中央から遠ざけられてしまったのもあると思われる。
 妙な偏見を持たれない為に、ここで少しハンセン病について触れておきたい。
 詳細を語ると膨大な分量になるので、概略になってしまうが、ハンセン病程誤った偏見を長く持たれた病も無い。

 ハンセン病には様々な型があり、深度により症状も様々なので、一言では語り辛く、ここでは症状については触れないが、まず非常に感染力の弱い病である。また、間違っても遺伝病ではなく、一族から感染者・発病者が出たところで家族が後ろ指を差されなければならない謂われは全くない!  そして、令和の世に在ってハンセン病は特効薬と通院治療で完治する病で、日本では平成一七(2005)年をもって患者数は〇となった。

 だが、ハンセン病の実態が判明し、正しく理解されるようになったのは戦後になってからで、近代に入って尚ハンセン病は「業病」・「遺伝病」と誤解され、罹患したり発病したりしたものは隔離病棟に入れられ、一族追放同然の憂き目にあったり、時には一族からハンセン病患者が出たことを伏せる為に生涯土蔵に閉じ込められたり、その存在を無き者として周囲から隠匿されたりした。

 そんな長い誤解と偏見の歴史が積み重ねられた影響は深刻で、平成の世に在ってさえ平成一五(2003)年に熊本県のホテルが元患者の宿泊を拒否して最終的にホテル業は廃業し、経営会社が賠償金を払うことで和解することになったが、その間も元患者側は無理解や偏見から来る様々な誹謗中傷を浴びせられ、苦しんだと云う。

 大谷吉継の生きた時代には確立した治療法も特効薬もなく、近代・現代以上に病気の実態が詳らかではなく、誤解や偏見も強かったのは止むを得ないし、芯に誤解や差別を生まない為にも、ハンセン病患者を苦しめた悲しい歴史は正しく伝えられなければならないが、新型コロナウィルスのパンデミックに伴う様々な誤解・偏見・誹謗中傷を見ていても、ハンセン病に関連した哀しい歴史は決して過去のものと思ってはならないことをここに記しておきたい。



不滅の友情 ほぼ同時期に羽柴秀吉に仕え、似た様な任務を共に遂行し続けた石田三成大谷吉継に友情が芽生えのたは必然であり、当然でもあったことだろう。否、上述した様に、もしかしたら両者は秀吉に使える前から親友だったのかもしれない。

 本作を作ろうと思った際に、真っ先にエントリーされたのもこの二人だったし、本作を作る前に道場主が、非常任師範代・田夫野人庵に「戦国武将の友情を語る作を作ろうと思うのだが、誰と誰が挙げられる?」と尋ねた際に、道場主程には歴史に詳しくない田夫野人庵が挙げたのも三成吉継だった。
 それほど二人の友情は今更薩摩守が語るまでもないほど有名であるし、何より過去作(『菜根版名誉挽回して見ませんか?』『切腹十選』)においても既に触れている(苦笑)。

 だが三成吉継の友情は本当に素晴らしいと思うので、み●もん■じゃないが、「本当に大切なことだから、二度言いました。」の気持ちで、何度でも触れたいと思うのである(笑)。

 まずはとある茶会での話である。
 薩摩守は茶道に関しては全く無知で、その作法など分からないのだが、既にハンセン病を患っていた吉継が茶会に参加し、碗を取り上げたところ、顔面の吹き出物から膿が出て、碗の中に滴り落ちてしまった。
 作法によるとその茶碗は回し飲みに使うものだったので、当然吉継は狼狽え、それを見ていた参加者は茶碗に口をつける振りだけして茶を飲まなかったのだが、途中で三成は碗を手にすると(膿の入った)茶を一気に飲み干し、「余りに上手かったので、つい全部飲み干してしまいました。」と云って、茶碗を下げさせ、吉継だけではなく、参加者の面子をも潰さない見事な対応をやってのけた。つらつら思う…………どうしてかかる心配りの百分の一で良いから、三成は常日頃から周囲に為せなかったのか?と(苦笑)

 勿論、この対応は生半可な友情で出来る事ではない。ハンセン病ではなくただのにきびや顔傷から出た膿だとしても、普通膿が入った段階でその茶碗は下げられても不思議ではないだろう。ただ、そのまま茶会が続けられたのだから、一度点てられた茶は最後まで回し飲みしなくてはならない厳格なルールだったのだろう(現代もそうかは知らないので、茶道関係者の方、薩摩守の無知を責めるメールなど送らないで下さい(苦笑))。
 思うに、三成吉継の狼狽えようを見て、その気まずさ極まりない状況から救いたい一心だったのだろう。三成を悪く云う訳ではないが、周囲の面子を潰さなかったのは「ついてきた結果」だと思われる。
 そしてこれも推測だが、一気に茶を飲み干したのも、咄嗟の行動だったのだろう。せっかく三成を褒めながらこんな書き方もなんだが、吉継以外の者が同じ様な状況に陥っていたとしたら、恐らく三成は同じ様には対応していなかったのではないだろうか?
 少なくともこの時の三成には打算はなく、ただただ吉継を救いたかったのだろう。それだけにこの時の二人の友情に異議を挟む者など皆無と思われる。

 もう一つは関ヶ原の戦いに関してである。
 上述した様に、徳川家康打倒の挙兵計画を打ち明けられた時、吉継三成を止めた。「三成に勝算なし。」と断じたからである。
 単純比較でも、家康二六〇万石に対し、三成は一九万石。家康が五大老筆頭なのに対し三成は五奉行の四番目(しかもこの時は正式には退いていた)。家康が黒田長政・池田輝政等と姻戚関係を持つのに対し、三成は七将に命を狙われるほど人望が無かった。
 吉継は馴れ合いの友情ではなく、真に三成のことを想えばこそ、利を尽くし、両者の比較から勝算が無いことを懇々と述べて挙兵を思い留まる様諭した。

 これに対して三成は腹を立てることなく、友の言葉に真摯に耳を傾けたが、挙兵の意志を取り下げることは無かった。三成を翻意させられなかった吉継は、一度は佐和山城を出たが、結局取って返して三成に合力した。
 様々な要因を勘案して、「三成は家康に勝てない。」と断じたのだから、三成に合力するのは「自殺行為」とさえ云えたし、実際に両者は命を落とした。また吉継自身は家康との仲は決して悪くなく、秀吉薨去直後に家康襲撃の風聞が立った際には家康の警護を行い、家康の覚えも目出度かった。
 それでも三成に味方したのだから、これは友情以外の何物でもない。

 中には、死病に取りつかれ、余命幾ばくもない吉継だった故、同じ死ぬなら友と共に死すことを選んだ、と見る向きもあるだろうし、それはそれで正しいと思う。
 ただ、五万石の大名ともなれば何千と云う配下とその家族の命運も背負っている。自分一人の命なら好き勝手に散らしていいかもしれない(と云うと語弊がある)が、一族や家臣の事を考えれば、吉継三成に合力せず、家康について東軍に身を投じたとしても全く恥じるところは無かったことだろう。
 故に薩摩守は病に関係なく吉継三成に味方し、運命を共にしたと思われる。

 勿論、味方するからにはむざむざ討たれるつもりはなく、家康の首を取る為に三成吉継も最善を尽くした。三成が関ヶ原に展開した西軍の布陣は味方の裏切りが無ければ完璧なもので、明治時代に日本陸軍に軍学を教授に来たドイツ人将校は関ヶ原の布陣を一目見るや、「勝ったのは西軍でしょう」と云ったと云う。
 吉継も、勝つ為に三成に苦言を呈し、彼の人望の無さをはっきり告げ、大坂城西の丸に入った五大老の一人・毛利輝元を総大将とし、同じ五大老の一人である宇喜多秀家を副将にして、関ヶ原における大将として立てることを勧め、自身は裏切りかねない小早川秀秋の軍勢に備えて松尾山の山麓に布陣した。

 そう、吉継の見立てはことごとく的を得ていた。にもかかわらず西軍は数々の裏切りや諸将の日和見を止められず、僅か一日の戦闘で大敗したのだから、三成吉継の無念は尋常ではなかったことだろう。

 かくして両者は友情に殉じた訳だが、二人の想いは関ヶ原の戦いで両者が命を落としても続いたと薩摩守は見ている。
 それは両者の一族が最後まで徳川方につかず、両者の遺志が尊重され続けたと見る故である。関ヶ原の戦いに勝利した東軍は次の標的を関ヶ原と大坂城の間に位置する佐和山城に定め、強襲した。
 この強襲に三成の父・正継も、兄・正澄も妻も最期の最後まで戦って城を枕に落命した(息子達は幼かったので出家を条件に助命された)。そして大谷吉継の息子・大学吉治も戦線離脱後浪人し、最終的には大坂の陣で豊臣秀頼に味方して再度徳川方と戦い、討ち死にした。
 ちなみに吉治の姉は真田幸村(信繁)に嫁いでおり、吉継の遺志は実の息子と義理の息子が受け継いで最期の最後まで豊臣家のために戦ったことになる。

 改めて思う。集散離合が常で、身内でさえ油断が出来なかった戦国の世に在って、現代のわれわれすら尊敬する当時の友情を語るのに石田三成大谷吉継のそれを外して語ることは出来ないだろうと。


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令和五(2023)年一月二日 最終更新