第肆頁 直江兼続&前田慶次………一世を風靡した作品を後世に

直江兼続略歴 永禄三(1560)年、上田長尾家当主長尾政景(上杉謙信の姉の夫)家臣・樋口兼豊の長男として、坂戸城下(現:新潟県南魚沼市)に生まれた(現:南魚沼郡湯沢町生まれたとする説もある)。
 永禄七(1564)年政景が死去する政景の子・顕景(後の上杉景勝)に従って春日山城に入り、景勝の小姓・近習として近侍した。

 天正六(1578)年、上杉謙信が急死。明確な遺言が残されなかった(その割には辞世の句は残っていたりする(笑))ことから、景勝と同様に謙信の養子となっていた上杉景虎(北条氏康七男)との間に後継者争い、所謂、御館の乱が勃発し、これを制した景勝が後継者となった。
 その戦後処理が行われる辺りから、兼続は景勝への取次役など側近としての活動が見られるようになった。

 天正九(1581)年、景勝の側近・直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害される事件が起きた(秀広自身ものその場で討ち果たされた)。これにより累代の重臣である直江家が途絶えることを懸念した景勝は、信綱の妻(景綱の娘)であった船と兼続に娶らせ、婿養子とすることで兼続に直江家を存続せしめ、兼続は越後与板城主となり、上杉家は兼続と狩野秀治の二人執政体制となった。

 翌天正一〇(1582)年三月一一日、御館の乱に際して同盟を結んでいた武田家が滅亡し、その武田家を滅ぼした織田信長・信忠父子が三ヶ月も経たない六月二日に本能寺の変にて横死すると云う日本史上の大転換期が訪れた。
 これにより武田遺領は無主状態となり、遺領を巡って織田・徳川・北条、そして上杉が暗闘を繰り広げる天正壬午の乱が起きた。景勝は武田方に帰属していた北信国衆や武田遺臣を庇護し北信の武田遺領を接収し、兼続は信濃衆との取次を務め帰参の窓口を務めた。

 天正一二(1584)年末頃から狩野秀治が病で職務に従事出来なくなる兼続は景勝第一の側近となり、政務・軍事・外交の殆んどを担うようになり、それは生涯続くことになった。
 やがて中央政界では信長死後の織田家の混乱を沈めた羽柴秀吉が台頭し、関白・豊臣秀吉となって天下に惣武事令(私闘を禁じる命令)を発し、景勝はこれに従うことで秀吉に臣従することとなった。
 天正一四年六月二二日、景勝は上洛して秀吉に謁見し、従四位下・左近衛権少将に昇叙され、同時に兼続も従五位下に叙せられた。

 その後も天正一七(1589)年、佐渡征伐、天正一八(1590)年の小田原征伐、文禄元(1592)年からの文禄・慶長の役にと、景勝に従って従軍し、一揆の制圧などを取り仕切った。
 これらの功もあって景勝は慶長三(1598)年に会津一二〇万石へ加増移封され、五大老の一人・小早川隆景が没すると新たな五大老の一人となり、兼続は上杉家家臣にして出羽米沢三〇万石の領主となっていた(一説によると秀吉が兼続をヘッドハンティングする為に好餌として与えたらしい)。

 ただ、すべてが順風満帆だった訳ではなく、会津移封後に越後を赴任した堀秀政との間で起きたトラブルがあり、それが関ヶ原の戦いの遠因となった。
 と云うのは、上杉家が越後から会津に移る前に兼続は国替えの際、前半年の租税を徴しており、後任の秀政はそれを越後の物として返還を求めたが、兼続にはこれに応じず、トラブルとなった。
 そして慶長三(1598)年八月一八日に秀吉が薨去すると、秀吉の遺言で政治を任された徳川家康が辣腕を振るい出し、豊臣家から自分につく者を見極める為、諸大名に無茶振りを始めた。
 最初の標的は前田家だったが、前田家はこれを上手く躱し、当主・利長の母・芳春院を人質に出すことで徳川家への忠誠を誓って難を逃れた。次いで標的にされたのが景勝で、前述の前半期の年貢の件で揉めていた堀秀治が上杉家謀反を家康に訴えると、家康は上杉家の会津開発を「戦準備」・「豊臣家への叛意」としてその意を詰問した。
 家康は景勝に上洛を求めたが、そもそも会津帰還及び城下開発は家康が勧めたことで、家康の詰問に対し、兼続は淡々と、理路整然と反論を述べ、通らぬとあらば「是非も無し(一戦も辞さず、お相手する)」と云い切る返書―世に云う、直江状を返した。

 近年、この直江状には偽作や、後年大幅に改竄されたとの人口に膾炙しているが、その詳細は薩摩守の研究不足で不明だが、これを読んだ直後の豊臣家中が激怒する家康を宥めるのに相当苦労した事跡が残っていることから、兼続が家康を激怒させる返書を送ったことは間違いないと思われる。
 ともあれ、景勝は自分に無断で直江状を返した兼続を咎めず、その意に合意してその後も上洛を拒否し続け、家康は諸大名を率いて会津征伐の軍を起こした。
 周知の通り、この間隙を縫って石田三成が打倒家康の挙兵に及んだため、家康は小山(現:栃木県小山市)で三成挙兵の報を従軍大名に告げ、予定通り上杉を攻めるか?反転して君側の奸・石田三成を攻めるか?を問うた。
 元より、従軍大名の大半は三成を嫌っており、家康の無茶振りに対する景勝・兼続の対応に内心同情していたことから殆んど躊躇うことなく後者を選び、家康は次男・結城秀康を残し、仙台の伊達政宗と山形の最上義光に上杉勢迎撃を命じ、自身は江戸城に戻り、諸大名を西進させた。

 その間、兼続は越後で一揆を画策するなど家康率いる東軍を迎撃する戦略を練っていたが、一揆勢と交戦していた秀治の率いた軍が撤退し、前田利長を攻撃する構えを見せ、三成から「堀秀治が西軍側についた」という知らせを受けた事で、兼続は一揆勢力に攻撃の中止を命令して東軍の最上義光の領地である山形に総大将として三万人を率いて侵攻した。
 しかし、これは秀治の策略で、利長に攻撃を仕掛けるよう見せかけていた秀治は、東軍への参戦を明白にしてすぐさま越後の一揆勢への攻撃を再開。事態に気付いた兼続は、再び一揆勢を扇動しようとするも間に合わず、秀治率いる部隊によって、一揆勢は壊滅する事になってしまった。

 かくして戦は対最上義光線がメインとなった。
 元より景勝と義光は庄内地方を巡って激しく争った経緯もあり、関係が悪かった。また国境も上杉家から見ると分断され、最上家から見ると自領が上杉領に囲まれている形になっていたことも両者の対立に拍車を掛けていた。
 開戦前、東北の東軍諸勢力は最上領に集結していたのだが、家康が引き返したことで諸大名も自領に兵を引いたことで最上領の東軍兵力は激減。兼続はこれを好機と見て機先を制すべく、長谷堂城攻めに掛かった。
 だが、最上勢は頑強に抵抗し、九月二九日に関ヶ原にて西軍が大敗したとの報がもたらされた(関ヶ原の戦いは九月一五日)。事ここに至って上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退することを決意。勢いに乗った最上軍と留守政景(伊達政宗の叔父)率いる軍が追撃してきて激戦になったが、前田慶次等上杉勢の諸将の奮戦もあって米沢への撤退に成功した。

 一応、戦場においては善戦した上杉勢だったが、結果的に山形攻略には失敗し、反撃に出た最上軍に庄内地方を奪回され、また伊達軍の福島侵攻を誘発した。景勝・兼続主従は当初最上・伊達を屈服させて後輩の憂いを亡くし、、関東へ侵攻する構想でいたが、それもならなかった上、上方では徳川方が西軍を完全に屈服せしめてしまったとあっては、残る道は降伏しかなかった。

 慶長六(1601)年七月、景勝・兼続は上洛して家康に謝罪。結果、景勝は兼続領であった米沢三〇万石へ減移封という形で罪を許された。領国を四分の一にされたのだから、大痛手だったが、関ヶ原の戦い以前に「秀頼様への反逆」として征討軍を起こされた立場から云えばかなり寛大な処置だったと云えなくもない。

 ただ、石高が四分の一となったことは家中をまとめるのに大変な苦労を伴った。ほとんど同じ立場に追いやられた毛利家では大リストラを敢行し、多くの家臣が帰農した。それらの家臣の中には家中立て直し後に帰参した者も少なくなかったが、上杉家では一切のリストラを行わなかった!
 温情ある措置に間違いはないが、逆を云えば全員が大減給に苦しむこととなった。それでも上杉鷹山の代まで掛ったとはいえ、立て直しに成功したのだから、大したものである。道場主が最初に勤めた会社などは完全に数字だけで人員削減を行い、各支店の長に「何人切れ。」と命じ、支店長の個人的裁量で何の落ち度もない社員が何人も首を切られたのだから、それを考えると家中ぐるみで苦しい思いをしながらも一人の家臣も切らなかった景勝・兼続は現代視点で見ても尊敬に値する。

 ともあれ、兼続は上杉家を立て直すため、新たな土地の開墾、「直江石堤」と呼ばれた堤造営に端を発する治水工事、殖産興業・鉱山開発等を推進し、三〇万石の米沢藩が「実質五〇万石」と云われるほどの成長を為す藩政の基礎を築いた。

 その後の上杉家は徳川幕府への臣従に徹し、徳川家重臣本多正信の次男・政重を兼続の娘の婿養子にするなどして徳川家と上手く付き合い(政重との養子縁組が解消された後も本多家との交流は続いた)、大坂の陣においても徳川方として参戦し、鴫野の戦いなどで武功を挙げた。

 そして天下もすっかり定まった元和五(1619)年一二月一九日、江戸鱗屋敷で病死した。直江兼続享年六〇歳。
 景勝は兼続が病床に臥すと、大いにこれを憂え、医療の最善を尽くさせたと云う。当然の様に兼続の死は内外に惜しまれ、幕府からも賭典銀五〇枚が下賜された。



前田慶次略歴 採り上げておいてなんだが、実に謎の多い人物である。慶次慶次郎の略称で、諱は利益(とします)だが、他にも「利貞」、「利太」等、諸説ある。
 週刊誌『少年ジャンプ』の黄金期に掲載された『花の慶次―雲の彼方に』で一躍有名になったが、その人物像は原作である隆慶一郎の『一夢庵風流記』という小説に描かれたもので、名作に敬意を表して、本作でも「前田慶次」と表記するが、その実像を語る史料は極めて少ない。故に詳らかでない実像に関しては極力触れない(苦笑)が、触れている部分も必ずしも正確でないことを予め御了承頂きたい(苦笑)。
 特に同作品で「慶様 LOVE」に陥った方々は以下の文章を読まないことをお勧めする(苦笑)。

 前田慶次の出自は天文二(1533)年に織田家家臣・前田利久の息子に生まれたとする(天文一〇(1541)年生まれ説もある)も、母は同じ織田家家臣・滝川益氏(滝川一益実弟)の妻だった女性で、益氏の胤を宿したまま利久に再嫁したと云われており、利久の子として育てられるも、血が繋がっていないことは当初から明白だったらしい(一益と益氏の関係、益氏の妻が如何にして利久に嫁ぐことになったかも諸説ある)。
 それ故か、後に利久が病弱を理由に前田家家督を弟・利家に譲る様織田信長から命じられ、慶次は前田家家督の地位から大きく離れることとなった。時に永禄一二(1569)年の事だった。

 天正九(1581)年頃、信長から能登一国を領する様になった利家から利久に二〇〇〇石、慶次に五〇〇〇石が与えられた。
 天正一〇(1582)年六月二日、本能寺の変が起きた際には、慶次は滝川勢の先手として北条攻めに従軍していたと云うことだから、彼が益氏の子であることは確実視され、滝川家とも繋がりは保たれていたのだろう。
 勿論前田家家臣としての槍働きも充分に為しており、天正一二(1584)年の小牧・長久手の戦いでは前田家は北陸方面で佐々成政と対峙していたのだが、慶次は佐々勢力に攻められた末森城の救援に向かった。
 だが、天正一五(1587)年八月一四日、義父利久が没したことにより慶次は嫡男・正虎をそのまま利家に仕えさせ、利久の封地二〇〇〇石を継がしめ、天正一八年の小田原征伐にて利家とともに従軍したのを最後に前田家を出奔した。

 出奔理由は諸説紛々で、ここでは触れないが、正虎を初めとする妻子一同は随行させず、京都で浪人生活を送りながら、里村紹巴・昌叱父子や九条稙通・古田織部ら多数の文人と交流したと云うから、そこのところは小説同様に「傾奇者」として自由奔放に生きたのだろう。
 天正一〇(1582)年には既に京都での連歌会に出席した記録が見られることから、出奔以前から京都で文化活動を行っていたと見られており、天正一六(1588)年には上杉家家臣木戸元斎宅で開かれた連歌会に出席していたので、これに前後して景勝・兼続主従と知遇を得たと思われる。

 そして後に上杉景勝が越後から会津一二〇万石に移封された慶長三(1598)年会津征伐が行われた慶長五(1600)年までの間に上杉家に仕官し、新規召し抱え浪人の集団である組外衆筆頭として一〇〇〇石を拝領した。
 関ヶ原の戦いに際しては、長谷堂城の戦い末期の、西軍大敗後の最上勢追撃にて殿軍を務め、大功を立てたとされている。そして上杉家が三〇万石に大減封され米沢に移されると、二〇〇〇石で正式に米沢藩に仕えた。

 その後、大坂の陣まで戦の無かった世の中で慶次はどう過ごしたかは史料によって相違が多くはっきりしないが、痞(つかえ)の病を発症し、保養の為に大和へ引っ越し、大和と京を往来する日々を経て仏門に入り、慶長一〇(1605)年一一月九日にその地で生涯を終えたとされている。但し、没年にも諸説あるため、ここでは享年は記さない。
ただ、いずれの説を採っても利家と大差ない年齢だった様で、養父・利久の弟・利家を「叔父御」と呼んでいた関係からか、『花の慶次―雲の彼方に』では利家よりかなり若いイメージで描かれていたが、実像は大きく異なると思われる。



共に過ごした時間 何せ、前田慶次の生涯に謎が多過ぎるから、直江兼続との関係も不鮮明な部分が多い。
 ポイントとなるのは上杉家と前田家の関係で、前田利家が柴田勝衛の与力として北陸攻略に従事していた頃、両家は敵同士だった訳で、知遇を得るとすれば上杉景勝が関白となった豊臣秀吉に臣従を誓った辺りが両者の知り合った頃と思われる。
 略歴でも上述したが、関白臣従時の兼続は完全に景勝の片腕で、上洛の度に行動を共にしていただろうし、その頃の慶次の前田家における立ち位置は不明だが、本能寺の変頃から既に京都の公家達と文化交流があったとされているから、その頃に両者の邂逅があった可能性は高い。

 そして秀吉による天下統一が成った直後に慶次は前田家を出奔して浪人生活に入ったが、その頃の慶次は京都にいたとされているので、景勝に従って在京した兼続と交流があったと思われる。
 史実として慶次が上杉家に合力した確かな時期は徳川家康による会津征伐で、上杉家が浪人衆を新規召し抱えした際に慶次も上杉軍に加わったと思われる。

 確かな証拠はないが、景勝が会津に籠って家康の上洛命令を拒み続けたのは、兼続と石田三成が図ったものとの説が古来より囁かれている。
 大谷吉継ほどではないが、兼続と三成も昵懇で、両者の密議により、上杉家は家康の命令を断固として拒むことで追討軍を誘発し、その後三成が挙兵して家康を挟撃せんとしたとの説だが、充分あり得る話だと薩摩守は思っている(上洛命令を拒むだけなら家康を怒らせない方が万一の敗戦後の交渉も不利を避けられるのだから)。
 そしてその密儀が実在したと仮定するなら、上杉軍は東西両軍の戦いがある程度長引くと見て、その間に東北を制し、家康の(当時の)本拠である江戸を落とすことで徳川方を浮足立たせることで挟撃・殲滅を成功させんとしたのだろう。
 となると、関東を制圧どころか、東北すら抑え切れていない内に西軍本隊が大敗したとなると、作戦は完全に瓦解したことになるだろう。
 その後の上杉が即座の撤退を決め、あれほど拒んだ上洛命令に応じ、降伏したのも勝算がなくなった以上、武士としてじたばたせず、それ以上の振りを避けたかったと思われる。

 結果的に即座の恭順を示したことで改易を免れた上杉家だったが、薄氷を踏む思いでの結果だったことが随所に見て取れる。
 関ヶ原での結果を知った最上勢・伊達勢は完全に勢い付き、兼続も一時は自害を覚悟したと云われている。結果的に慶次がそれを止め、追撃を防ぎ切った訳だが、もし追撃を防げず、兼続の首が最上勢に取られていれば、家康の沙汰を待たずして上杉家は最上・伊達(あるいは結城秀康)に殲滅された可能性も有ったことだろう。
 仮に本拠を守り切ったとしても、「上杉弱し!」と見られれば改易になった可能性も充分にあったと思われる。薩摩の島津にも云えることだが、「下手に追い詰めればこっちも甚大な害を被る。」と思わせる程の武威を示すことは極めて重要だったと思われる。

ともあれ、兼続慶次のこの撤退戦の見事さは語り草となり、義光は「上方にて敗軍の由告げ来りけれども、直江少しも臆せず、心静かに陣払いの様子、(中略)誠に景虎武勇の強き事にて、残りたりと、斜ならず感じ給う」と評し、家康も駿府で兼続に引見した際に「あっぱれ汝は聞き及びしよりいや増しの武功の者」と評したと云う。そしてこの撤退振りは旧日本陸軍参謀本部の『日本戦史』でも取り上げられていた。

 歴史上はっきりする限り、兼続慶次が生死を共にした最初で最後のワンシーンだが、仮にこの時しか行動を共にしなかったとしても、二人の絆の強さに疑問を挟むのは野暮と云うものだろう。



不滅の友情 直江兼続前田慶次は置かれた状況が余りに違いながらも似た者同士だった。
 共通点として、二人とも豊臣秀吉にはかなり気に入られたらしい。前述した様に秀吉は兼続に米沢三〇万石を与えてまでヘッドハンティングせんとした。
 一方の慶次は秀吉と謁見した際の見事な傾き振りが気に入られ、誰の前でも傾き通すことを差し許された。結果的に慶次は自由奔放な生き方を選んだが、本人が望めば悪くても一〇万石、話によっては一〇〇万石も拝領出来る人物ですらあると見られたこともあった。

 慶次の「傾奇者」としての生き方は云うほど生易しいものでは無い。傾奇者は異装を好み、勝手気ままに生き、どこまでも我流を貫く生き方をしたものを指すが、悪く云えば「我が儘者」である。当然、組織からは煙たがられ、慶次もそれ故に大樹の陰である前田家を出奔した。つまり慶次は前田家とのしがらみを脱する替わりに前田家からの保護も捨てたのである。
 となると、慶次ならずとも好き勝手に振舞える代わりに誰の保護も受けられない。やりたいようにやることで周囲から煙たがられ、同じ傾奇者との諍いから命を落とす者も少なくなかったことだろう。
 自由人と云えば聞こえはいいが、一歩間違えれば単なるチンピラで、実際にそんな傾奇者も多かったことだろう。同時に現代社会におけるチンピラも同じ事が云えよう。

 となると、大大名である上杉景勝の片腕として多忙を極める兼続慶次と知遇を得ただけでなく、正式な家臣となる前から交流を持っていたことを見ると両者は余程馬が合ったのだろう。
 関ヶ原の戦い直後の長谷堂城の戦いにおける撤退時に自害せんとした兼続を止めたのは慶次だったが、この時点で傭兵に近い立場だった慶次が上杉家家老である兼続自害を制止出来たのも兼続慶次が昵懇であったればこそだろう。

 上述の『花の慶次―雲の彼方に』では関ヶ原の戦いにおける慶次は一時的に召し抱えられた浪人に過ぎず、戦後は京都で隠棲していた。戦後の論功行賞で出世した大名の中には高禄で慶次を召し抱えんとした者が続出したが、慶次はそのすべてを断り、上杉家からの召しを待ち続けた。
 そして米沢に帰る直前、雨の中慶次を訪ねて来た兼続は(大減封を食らった)今の上杉家では二〇〇〇石が精一杯であることを告げ、「来てくれるんだろうね。」と云うとその場を立ち去った。
 慶次は、「雪の中に骨を埋めることになりそうだ。」と呟き、翌日銭撒きを傾き納めとしてこの漫画は最終回を迎えている。
 恐らくこのシーンの大部分はフィクションだと思われるが、それでも言葉少なくとも慶次兼続の強い絆を示したシーンとして薩摩守は好きである。

 米沢に移った慶次兼続とともに『史記』に注釈を入れたり、和歌や連歌を詠んだり、と悠々自適の生活を送ったと伝わる(上杉家が所有していた『史記』は現在国宝に指定されている。二人が注釈を入れた実物であるか否かは不明だが)。
 景勝の片腕として多忙極まりなかった兼続にとって束の間の余暇は貴重な時間で、その時間を共に過ごした二人は家格も身分も越えた真の盟友だったのだろう。





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令和五(2023)年一月四日 最終更新