第伍頁 塙団右衛門&御宿政友………共に旧主を見返さんとして

塙団右衛門略歴 諱は直之(なおゆき)。永禄一〇(1567)年生まれで、尾張出身説と遠江出身説がある。生まれもっての巨躯を活かし、戦場で勇猛に戦うも酒癖の悪さから長続きせず、加藤嘉明の鉄砲大将として一〇〇〇石で召し抱えられた辺りからはっきりと史上に名前が見え出す。

 朝鮮出兵において巨済島で敵船を拿捕したり、青地の日の丸を背負って大暴れしたりと活躍したが、関ヶ原の戦いにて鉄砲大将だったにもかかわらず自ら槍を振るって突進したことで嘉明の勘気に触れ、「己は一生、一人前の大将になれない。」と叱責されたことに憤慨し、加藤家を出奔。
 これに憤った嘉明は団右衛門を不届き者として召し抱えない様に諸国に通達―所謂、奉公構いにした。一時は嘉明よりも大身ゆえに奉公構いをものともしない小早川秀秋、松平忠吉(家康四男)に仕えるも、両主君は早世して、嗣子なき故に改易。
 次いで福島正則に仕え、馬も合ったが、正則と嘉明は共に「賤ケ岳の七本槍」と並び称せられた馴染みで、それ故に嘉明は露骨に団右衛門の放逐を正則に強要してきた。

 結局、福島家での仕官も長続きせず、その後は京都妙心寺の僧となって大竜和尚(海山元珠)に師事して托鉢の日々を送ったとも、水戸にて肥田志摩なる人物の下で居候していたとも云われているが、詳細は不明である。

 そして大坂の陣が勃発すると豊臣秀頼は諸国の浪人を大量に召し抱え、団右衛門もそこに名乗りを上げ、大野治房(治長次弟)の麾下に入った。
 冬の陣では本町橋の夜襲を敢行し、蜂須賀至鎮隊を打ち破り、侍大将の中村右近を討ち、戦場に「夜討ちの大将 塙団右衛門と書いた木札を大量にばら撒き、敵味方に有名となった(講談で最も人気のあるシーンである)。

 そして夏の陣が勃発すると和歌山攻めの総大将となり、二万の兵を率いて進軍する途中の樫井(現:大阪府泉佐野市)で岡部大学則綱と先陣争いを起こしてしまい、大きく突出したところで浅野長晟の配下である八木新左衛門、上田宗固、亀田大隅に襲われ、膝に強弓の矢を受けたことで鬼神の様な強さを発揮し切れず、壮絶且つ呆気ない討ち死にを遂げた。時に慶長二〇(1615)年四月二九日、塙団右衛門直之享年四九歳。


 御宿政友略歴 通称は勘兵衛塙団右衛門と同じ永禄一〇(1567)年の生まれである(同年の生まれには伊達政宗や真田幸村がいる)。
 生まれは駿河駿東郡御宿で、武田信玄の侍医・御宿監物友綱を父に生まれた。御宿家は有力国人衆葛山氏の支族で、元々は今川氏に属していたが、今川家没落後に信玄の七男信貞が葛山氏を継承したことから父は信玄の侍医となり、政友が生まれた頃には武田氏に属していた。

 しかし政友が元服した直後頃の天正一〇(1582)年三月三日に武田家は滅亡、友綱・政友は北条氏に仕え、小田原征伐で北条氏が滅びると徳川家康に仕え、やがてその次男である結城秀康に仕えることとなった。
 禄高は五〇〇石説、七〇〇石説、八〇〇石説があるが、中には一万石という高禄だったの説もある。

 秀康に厚遇された政友だったが、慶長一一(1606)年三月二一日に父・友綱が没し、翌慶長一二(1607)年に秀康が死去すると後を継いだ松平忠直とは不和となり、慶長一五(1610)年頃に浪人となった。
 そして慶長一九(1614)年に大坂の陣が始まると豊臣方として大坂城に入り、大野治房の麾下に入った。自分の下を辞した政友が豊臣方についたことに激怒した忠直は政友を何としても討ち取らんとして、その首に五〇〇〇石の恩賞を掛けたという話も伝わる。

 そしていざ開戦すると大坂冬の陣では本町橋の夜討ちにおいて塙団右衛門、長岡是季等と共に功名を挙げた(真田丸に加勢として籠ったともいう説もある)。
 しかし慶長二〇(1615)年五月七日、大坂夏の陣の最終戦である天王寺・岡山の戦いにおいて、天王寺口で松平忠直勢と戦い、野元右近に討ち取られた。御宿政友享年四九歳。



共に過ごした時間 塙団右衛門御宿政友が行動を共にしたのは大坂の陣における豊臣秀頼方の浪人衆招集に応じた時からだった。
 方広寺鐘銘事件以降、徳川方から巧みに無理難題を吹っ掛けられた豊臣方では秀頼の参勤や淀殿の人質としての江戸下向や大坂城退去を受け入れられない者として、開戦は避けられなくなった。だが、関ヶ原の戦いで徳川家康が天下の大権を掌握してから既に一五年、江戸幕府開府で家康が武士のボスとなってから一二年、秀忠が二代将軍となって徳川家将軍位世襲が確定してから一〇年の歳月が流れ、豊臣恩顧の諸大名も徳川の世での生き残りを優先したため、秀頼の召集に大名達は一人として応じなかった。

 となると戦力となり得るのは諸国に溢れる浪人達だった。浪人達は主に二つのタイプに分類され、一つは関ヶ原の戦いで主家が敗れたことによって浪人した者達だった。もう一つはキリシタンだったためにキリスト教禁令が布かれた徳川の世に生きる場をなくしていた者達だった。
 厳密には団右衛門政友も上述のタイプには当てはまらず、無嗣改易で職をなくした浪人達もいたが、いずれにせよ関ヶ原の戦い以降戦らしい戦の無かった世に在って、浪人達には世に出る最後のチャンスだった。

 浪人の中には長宗我部盛親や真田幸村(信繁)の様な元大名もいれば、後藤又兵衛(基次)の様に大名家の重臣だった者もいて、豊臣家直参の大野治長、木村重成、毛利勝永等が重鎮となり、彼等ほどビッグネームではなかった団右衛門政友は共に大野治房の麾下に入り、ここで両者は知り合ったと思われる。

 そして大坂冬の陣では真田丸での攻防や一部の小競り合いを除けば戦らしい戦は少なく、夜中に大砲を放ち、鬨の声を上げる揺さぶりで淀殿を初めとする城中首脳女性陣の動揺が増したところでたまたま砲弾の一発が淀殿傍近くに炸裂して侍女の一人が即死したことで淀殿の恐怖は最高潮に達し、講和に傾いた。
 だが、浪人衆にとって簡単に戦に終わられてはその後の生活の保障に対する不安が残る。まして戦らしい戦が無い状態では手柄の立てようもない。団右衛門政友は一二月一七日に本町橋の夜襲を敢行したのだった。

 政友は真田丸の守備に加わっていたとの説もあるが、後述するように団右衛門政友は似た経歴と戦意を持っていたので、働き場のないまま戦が終わってしまう前に目立つ功績を挙げんとして夜襲を敢行した団右衛門政友が追随した可能性は充分にあると薩摩守は睨んでいる。
 何?団右衛門贔屓から政友も活躍したと思いたがっていないかって?否定はしません(笑)。



不滅の友情 塙団右衛門御宿政友は生まれも同い年で、主家を致仕した事や、それに伴う豊臣方への参入動機も似ているので、大野治房の麾下に入って知り合った時から気が合ったと思われる。

 まず、直接的な事跡として見られずとも、団右衛門政友も豪の者として名前が通っていた。団右衛門は加藤家を出奔した後も小早川秀秋、松平忠吉、福島正則と云った名だたる大名が彼を採り立てた。一方の政友だが、史上然程高名とは云えない人物ではあるが、『落穂集』なる書物の語るところによると、大坂の陣の前に大坂城に入城した武将の名簿を見た家康が、「浪人衆の中で武者らしいのは、後藤又兵衛と御宿勘兵衛だけだ。」と語る程の豪の者だった(政友討ち死にの報に接した時も家康は「勘兵衛が若い時なら野元ごときに討たれはしなかっただろう。」と述べている)。
 余談だが、この時共に名前の出ている後藤又兵衛も黒田家の代替わりの際に新当主・長政と仲違いし、黒田家を出奔し、細川忠興に召し抱えられるも長政から奉公構えの横槍を入れられて浪人し続けたと云う、団右衛門政友と似た経歴を辿っている。

 団右衛門政友は浪人して旧主を怒らせていたことも似ていたが、その旧主を見返す為に豊臣方についたことも共通していた。掛かる二人が意気投合したであろうことは想像に難くない。
 殊に団右衛門は加藤嘉明から関ヶ原の戦いにおける独断専行・猪武者振りを咎めて、「一生一廉の大将になれない。」と罵られたことに反発して本町橋の夜襲を敢行した(この時、団右衛門は床几の上に腰掛けたまま夜襲部隊を指揮し、自らは槍を手にしなかった)のだから、同様に旧主を見返したいと思っていた政友(旧主に当てをつける様に旧主の領地である越前の長官を意味する「越前守」を自称していた)のが行動を共にした可能性はやはり高いと思われるのである。

 結局大坂夏の陣が始まると隊の所属から団右衛門政友は行動を別にする様になり、これが両者の今生の別れとなった。ただ(確かな史料に見られる話ではないが)和歌山攻めに出陣するに際して、団右衛門は部下に「自分が討ち死にしたなら勘兵衛の隊に加われ。」と云い残していたと云うから、二人の友情は文字通り死んでも続いていたのだろう。


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令和五(2023)年一月四日 最終更新